2009年3月29日日曜日
真理を行う者は光の方に来る
ヨハネによる福音書3・19~21
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
今日を含めて四回(予告したよりも一回多く)、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ最高法院の議員ニコデモとの対話を学んできました。今日で一応最後にしますので、少しまとめのような話をいたします。しかし、最初に今日の個所に書かれているイエス・キリストの御言葉に注目していただきたく願っています。
こんなふうに書かれています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」。これはどのような意味でしょうか。「光が世に来た」と言われている場合の「世」の意味については、先週かなり強調してお話ししたとおりです。途中の議論を全部省略して最初と最後だけくっつけて申せば、「世」とは要するに「世間」(せけん)のことです。わたしたちが日常生活を営んでいるこの地上の世界そのものと、わたしたちがかかわっているあらゆる人間関係そのものです。
その「世間」に来た「光」とは神の御子イエス・キリスト御自身です。「神は、その独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された」(16節)のです。神が愛されたのは「世間」です。「俗」の字をつけて「俗世間」と言い換えても構いません。あるいは「世俗社会」でもよいでしょう。
神は、世俗社会と敵対するためにイエス・キリストをお与えになったのではありません。イエス・キリストを信じる者たちは俗世間に背を向けて生きることを求められているわけではありません。すべては正反対です。わたしたちに求められていることは、世間の真ん中で堂々と生きていくことです。世間の中に生きているすべての隣人を心から愛することです。そのことがわたしたちにできるようになるために、神は独り子イエス・キリストを与えてくださったのです。
別の言い方をしておきます。わたしたちが今立っているところは、絶望に満ちた暗闇ではありません。一寸先も闇ではありません。この地上にはすでに神の光が輝いています。わたしたちの歩むべき道もはっきり見えています。わたしたちに求められていることは、その道をとにかく歩み始めることです。
その道を歩んだ先はどこに行くのかも、教会に通っているわたしたちには分かります。教会には信仰の先輩たちがたくさんいるからです。すでに地上にいない、御国に召されている先輩たちもいます。わたしたちはその人々のことをよく憶えています。その人々の顔はひどく歪んでいたでしょうか。私にはそんなふうには見えませんでした。わたしたちはどんなふうになっていくのか皆目見当もつかない。全く路頭に迷う思いであるということがありうるでしょうか。そんなことはないはずです。
もちろんわたしたちには「あの人が幸せであることと、私がどうであるかは関係ない」と言って関係を遮断することもできます。「私の悩みは特別だ。他の人の悩みよりもひどい。私のことは誰にも分かってもらえない」と言って自分の殻に引きこもることもできます。しかしそれは勿体無いことです。また、少し厳しい言い方をすれば、それは罪深いことでもあります。それはイエス・キリストが「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」とおっしゃっているとおりです。
神の救いの光はすでに地上に届いている。わたしたちが歩むべき道もはっきりと見えている。しかし、それにもかかわらず、その光を見ようとしないこと、光の届かない物陰を探してその中に逃げ込もうとすること、そのようにして光を憎み、闇を好むことは、端的に言えば悪いことであり、罪深いことなのです。
しかしまた、よく考えてみれば、そもそもわたしたちにはその光から逃げおおせる場所があるわけでもないのです。聖書の真理から言えば、わたしたちの世界は一つしかありません。神は世界をただ一つだけ創造なさったのです。この世界は二つも三つもないのです。ですから、光から逃げて闇の中に閉じこもろうとしても、そこに光が追いかけてきます。光の世界から出て闇の世界に逃げ込めるわけではありません。一つの世界に光にさせば、闇は消えていくのです。神がその人をどこまでも追いかけていきます。その人の心の扉を叩いてくださる。それが神の御意志なのです。
続きに書かれていることも見ておきましょう。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。
これはすぐには理解できそうにない言葉です。ただ、ともかくこれは重要だと思えるのは「真理を行う者」が光の方に「来る」と言われている点です。神は「真理を行う者」が光の方に「来る」ことを望んでおられます。「来る」のはその人自身です。その時その人に求められるのは主体性です。神は人の心の扉をハンマーで叩き壊して無理やり突入するという暴力的な方法をお採りになりません!その人が自分で扉を開けるのを、神は待っておられるのです。
神が与えてくださった救い主イエス・キリストの光によってわたしたちが歩むべき道ははっきり見えていると、先ほど申しました。しかしそれは、鋼鉄のレールの上を無理やり転がらされることではありません。神を信じるということにおいても、信仰生活を営むということにおいても、人間の主体性はきちんと確保されるのです。わたしたちは無理やり連れて行かれるわけでも、やらされるわけでもないのです。そのことを「来る」という字に中に読み取ることができると思います。
しかしまた、そのとき、わたしたちは傲慢さに陥ることも許されていません。「真理を行う者」が光の方に「来た」ときにはっきり知らされることは、すべてのことは自分一人の努力によって達しえたことではなく、「神に導かれて」なされたことであるということです。光が来たときに闇の中に逃げ込もうとしたことも、しかしまた、逃げおおせることができないことを知って自ら扉を開ける決心をすることができたことも、です。そのことをわたしたちは、神無しに行ったのではなく、神と共に・神に導かれて、行ったのです。
ここから、これまでの四回分の話をまとめておきます。ニコデモに対してイエスさまがおっしゃったのは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということであり、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」ということでした。この二つの言葉は同じことが別の言葉で言いかえられているのです。
これについて私は、この文脈においてイエスさまがおっしゃっている「水」とは教会でわたしたちが受ける洗礼を指しているということ、また「霊」とは、わたしたちキリスト教会が信じるところの聖霊なる神のことであるということ、そして「霊によって生まれる」とは聖霊なる神の働きによってわたしたち人間の心の内に「信仰」が生みだされ、それによってわたしたち人間が「信仰生活」を始めることであるということを、相当ねちっこく駄目押し的な言い方をしながら説明してきました。洗礼はバプテスマのヨハネに始まり、その後の二千年間の教会の歴史が受け継いできたものです。わたしたちは洗礼を受けることによって自分の信仰を公に言い表わしてきたのです。
そしてまた、これは特に先週の説教の中で強調させていただいた点ですが、イエスさまがニコデモに向かって「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」とおっしゃった中に出てくる「地上のこと」の意味は何かという点については、次のように申しました。
わたしたちにとって教会とは地上の人生の中で必要なものであり、信仰をもって生きる生活、すなわち信仰生活もまた徹底的に地上で行われるものであるということです。教会こそが、またわたしたちの信仰生活こそが「地上のこと」なのです。今ここはまだ天国ではありません。わたしたちはまだ天上にいません。ここでイエスさまがおっしゃっている「地上のこと」とは否定的ないし消極的な意味で語られていることではありません。地上の価値を低める意味で言われているのではありません。天国だけが素晴らしいのではありません。神と共に生きる地上の人生が素晴らしいのです!
そして、いずれにせよはっきりしていることは、死んだ後に洗礼を受けることは不可能です。つまりそれは死んだ後に教会のメンバーになることは不可能であるということです。しかし、これは、洗礼を受けなかった人が必ず地獄に行くとか、教会に通わない人は必ず不幸せになるというような話をしているのではありません。それは全くの誤解です。そのようなことを私は決して申していませんし、そのような信じ方もいません。
私が申し上げたいことは、もっと明るいことであり肯定的なことです。また、ある見方をすれば、かなりいい加減なことでもあり、お気楽で、能天気で、人を食ったような話だと思われても仕方がないようなことでもあります。それはどういうことでしょうか。私が申し上げたいことは、洗礼を受けて教会のメンバーになるという、いわばその程度のことだけで、神はその人の罪を赦し続けてくださるのだということです。
先ほどもこの礼拝の初めのほうで、「罪の告白と赦しの宣言」が行われました。そのときわたしたちは定められた文章を読むことによって、自分の罪を告白しました。そして牧師が赦しの宣言の文章を読み上げました。これによって、わたしたちは「罪が赦された」と信じるわけです。これだけで何がどのように変わるのでしょうか。何も変わりっこないではないかと思われても仕方がないほど、あっけなく。傍目に見れば、「そんなのずるい」と思われても仕方がないほどに。これほどいい加減なことは他に無いかもしれないほどです。
しかし、ぜひ考えてみていただきたいことは、人の罪を赦そうとしないことそれ自体も、わたしたちの犯す大きな罪ではないだろうかということです。わたしたち自身は、人の罪をなかなか赦すことができません。「あのときあの人が私にこう言った。私はそれで傷ついた」。「あのときあの人は、私にこんなことをした。そのことを私は決して忘れない」。
自分に加えられた危害や罪は何年でも何十年でも憶え続けるのです。いつまでもこだわり続け、恨み続け、呪い続け、ビデオテープのように何度でも再生し続けるのです。私自身も同じです。洗礼を受けて教会に通い始めたくらいで、あの人のどこがどのように変わるというのか。変わるはずがないし、変わってなるものかと、固く信じているようなところがあるのは、わたしたち自身ではないでしょうか。
しかし、です。わたしたちは、こと罪の問題に関しては開き直った言い方をすべきではないかもしれませんが、それでもあえて言わせていただきたいことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「水と霊とによって生まれること」、すなわち洗礼を受けて信仰生活を始めることは、わたしたちが犯した自分の罪を悔いて「死んでお詫びする」というようなことよりもはるかに尊いことであるということです。死んだところで何のお詫びにもなりませんし、何も償うことができませんし、何も生み出すことができません。地上の人生から逃げ出したところで、神がお造りになったこの世界以外に、どこにも逃げ場所はないのです。
わたしたちが犯した罪と向き合うために選びうる最も良い選択肢はとにかく生きることです。そして、生きながらにして、神を信じて悔い改めることです。わたしたちは、暗闇の中ではなく光の中を、閉ざされた部屋の片隅ではなく世間のど真ん中を、堂々と歩いてよいのです。そうすることができる道を、イエス・キリストが開いてくださったのです。
(2009年3月29日、松戸小金原教会主日礼拝)