2009年3月8日日曜日

新たに生まれなければ


ヨハネによる福音書3・1~8

「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。「あなたがたは新たに生まれなければならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」

今日から三回に分けてじっくり見ていきたいと願っておりますのは、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員の一人とイエスさまとのやりとりです。その議員の名はニコデモ。ユダヤ教団の「ファリサイ派」というグループに属していました。

このファリサイ派に属していた人の中で間違いなく現在最も有名な人は使徒パウロです。ファリサイ派の特徴は、まさに「パウロのような熱心さ」をもった人々であったと評することができるでしょう。

たとえば、パウロはキリスト教徒を迫害することに熱心であった過去をもっています。迫害することにも熱心、でした。しかしその後、パウロはイエス・キリストを信じるようになり、キリスト教を宣べ伝える伝道者になりました。信じることにも熱心、宣べ伝えることにも熱心、でした。そこにはもちろんパウロの個人的な資質を勘案する必要があるでしょう。しかしまた同時に、パウロ自身が認め、はっきりと自覚していたことは、わたしはあの熱心なファリサイ派出身の人間であるということでした。それほどに、宗教がそれを信じる人々の人格全体に与える影響は大きいのです。

ニコデモの場合はどうだったでしょうか。はっきりしたことは分かりません。しかし、やや強引な結びつけ方かもしれませんが、ニコデモにもパウロと共通する熱心さの要素を見出すことができるように思われます。熱心な人ということで私が描くイメージは、物事を突き詰めて考える人であり、一つのことを思い立ったらすぐさま行動に移す人であり、自分がとことん納得するまで簡単には受け入れない人であり、しかしまた、一度決めたらその道を、これまたとことん貫き通し、その決めごとのために自分の全生命を投げ出し、激しく動き回る人です。ニコデモにもそのような面があったのではないかと思うのです。

ニコデモは「ある夜」イエスさまのもとに来ました。この点は彼の人となりを考える上で重要です。ニコデモは議員であり、すなわち、その国の中では「超」の字が付く有名人なのであって、どこを歩いていてもすぐに知られてしまうほどの人でした。有名人の行動は衆人の注目と環視のもとにあります。そのような人がなんとかしてイエスさまにお会いしたいと願ったのです。

当然、人目をはばかりながら、こっそり会う必要がありました。しかしどうしても会いたい。今すぐ会いたい。イエスさまに会って話をしさえすれば、自分が今考えていること、あるいは今悩んでいることが解決するかもしれない。その思いを果たすためにニコデモは「夜」行動したのです。

あるいは、考え事をしていると夜も眠れなくなるタイプだった(?)のかもしれません。あるいは、夜ひとりであれこれと想像を巡らしているうちに、いても立ってもいられなくなり、イエスさまのところに行って悩みを聞いてもらいたいと思った(?)のかもしれません。「夜」イエスさまに会いに来たという点から、ニコデモとはどんな人だったのだろうかと、こんなふうにいろいろと想像を巡らしてみることもできるでしょう。

このニコデモがイエスさまに最初に言ったことは、イエスさまに対する尊敬を示す言葉でした。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」彼はこのことをお世辞で言っているのではありません。本当にそのとおりであると信じていたに違いない。人々が口にしはじめたイエスさまのうわさを聞くにつけ、その確信を深めていったものと思われるのです。

ニコデモが聞きつけたイエスさまについてのうわさ話は、人間の力では絶対にできないようなことができる、まさに神のような手(ゴッドハンド?)のわざをもつ、そういう人が現れた、というようなことであったと考えられます。

ここでこそ重要なことは、ニコデモは「議員」であったという点です。議員であるとは、要するに政治家であるということです。政治家が手にするのは、要するに権力です。彼としても、「人間離れした力」というくらいの意味での神の力のようなものが与えられさえすれば今よりもっと強い人間になれるのに、という願いや欲求を抱いていたと考えることはできるでしょう。

「政治」とか「権力」とかいう言葉を聞くとすぐに悪いイメージを抱くのは間違いです。力がなければ、人を助けることもできません。悪い社会を変えることもできないのです。もしニコデモがイエスさまのもとを訪ねた目的が「あなたが持っておられる人間離れした、まさにカミワザのような力をわたしにも教えてください。私もぜひあなたと同じような力を手にして強くなりたいです」とイエスさまにお願いすることであったとしても、彼のことを責めたり悪く思ったりすべきではありません。政治家ならば当然考えることであり、また考えるべきことなのです。

ところがイエスさまは、そのニコデモに対して、明らかに、どこか痛いところを逆なでするようなことを言われました。ニコデモの考えていることをすべてお見通しのように。しかしまた、あなたが考えていることは根本的に方向を間違っているので、それを変える必要があることだとおっしゃりたいように。根本的に方向を変えなければならないのは、あなたの考え方だけではなく、頭の中身だけではなく、生き方そのもの、生活全体も全く新しいものへと造りかえられなければならないとおっしゃりたいかのように。

イエスさまがおっしゃったのは、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」ということでした。ここで語られていることは、要するに、新しく生まれる必要性です。「再び生まれる」と訳すこともできます。日本語的に表現すると、「生まれかわる」とか「生まれなおす」というふうになるかもしれませんが、かえって余計に分からなくなってしまうと感じる方もおられるかもしれません。

イエスさまがおっしゃっていることに最も近いかもしれない、わたしたちにとって比較的身近な表現は、「人生を一から出直す」ということです。そのように言えば、一応ぴんとは来るものになると思います。しかしそのこと(人生を一から出直すこと)とイエスさまがおっしゃったこととは「ある意味で近い」かもしれませんが、根本的に違います。

そもそも、「人生を一から出直す」とは、具体的に何をすることでしょうか。このような言葉を口にすることは、いとも簡単なことです。「わたしは出直します。一から、いやゼロから出直します」と。しかしそれは何をすることでしょうか。具体的なイメージに乏しいものがあります。今自分がしている仕事を辞めて、新しい仕事を始めることでしょうか。あるいは、現在の人間関係(結婚などを含む)を解消して、新しい人間関係を始めることでしょうか。もちろんそのとき大きな変化が起こるとは思います。しかし、それ(転職や再婚など)が「人生を一から出直すこと」でしょうか。それほどのことでしょうか。それによってわたしたちの人生が新しくなる面と、何も変わらない面の両方があるのではないでしょうか。

ニコデモはイエスさまがおっしゃったことの意味がよく分からなかったようです。または、分かっていてとぼけているかのどちらかです。彼はイエスさまに「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問いかけました。生まれかわるとか生まれなおすだなんて、そんなことできませんよ。え、それってお母さんのお腹の中に逆戻りして再び産んでもらうことなのか?そんなこと、できるはずがないだろうと。

ニコデモがイメージしたらしいことは、いわばタイムマシンです。味わってきた嫌なことや辛い過去の思い出は、すべて消えてしまう。あのとき付いた体や心の傷も、あのとき失った体の部分や人間関係も、みんな元通りになる。恥多き人生を送ってきたという自覚のある人が、恥をかく前の自分に戻ることができる。今度こそは、恥をかかないで、失敗しないで、うまくやれるかもしれない。もし生まれかわることができるなら、あのとき、あの選択肢ではなく、この選択肢を選んでいたら、今とは全く違う人生がありえたかもしれない。

わたしたちはそのように考えることはできます。また、今はさまざまな選択肢を選ぶことができるし、選択肢そのものがあふれていると言えるほどです。顔や形の作りを変えることができる。性別さえ変えることができる。情報は洪水のように押し寄せる。どんなことでも教えてくれるし、教えたがっている。そのような中で、いろんな選択肢を見比べてみること、今の生き方ではなく別の生き方をしてみたいと考えること自体が悪いなどと、誰が責めることができるでしょうか。人生をやり直したいという願望なら、だれにだってあります。ないでしょうか。私にももちろんあります。すべてをリセットしてしまいたいという衝動さえ感じたことがないというと嘘になります。

しかし、それはいったいどのようにして現実化するのでしょうか。「生まれかわる」とか「生まれなおす」というのは非現実的なことではないでしょうか。ニコデモの質問の意図はこのあたりにあると言えるでしょう。

あるいは、ニコデモは、イエスさまの言葉を聞いて、もしかしたら、ひどく腹を立てたかもしれません。「新しく生まれなければならない」と言われる。ということは、今までの人生はすべて駄目だったということなのか。わたしの人生を全否定するつもりなのかと。「母親のお腹の中から出直してこい」とでも言いたいのか。それは、人を馬鹿にしている発言ではないのかと。

イエスさまの意図はもちろん、そのようなことではありませんでした。それはもちろん、非現実主義ではなく、現実逃避でもなく、他人の人生を馬鹿にすることでもありません。しかし、それでは何なのかというところまでお話しする時間がなくなりました。この続きは来週お話しいたします。

来週お話しすることに、少しだけ触れておきます。イエスさまは「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。「風は思いのままに吹く」とも。これがイエスさまのお答えでした。

「風」のイメージで描かれているのは「聖霊」です。聖なる霊であり、聖霊なる神です。この、風のように自由に行き交い、人に影響と作用を及ぼす「聖霊」が、その人のうちに注がれ、働き、その人と共に生き始めること。それが、イエスさまのおっしゃるところの「新しく生まれること」です。その変化の大きさは、先ほど取り上げたようなこと(転職や再婚など)をはるかに越えています。事実上、全く新しい人生を始めることです!

(2009年3月8日、松戸小金原教会主日礼拝)