2009年3月30日月曜日

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(2)

バルトが大学教授になる前にはザーフェンヴィルで牧師をやっていたことは私も知っています。大学教授になってからもいわゆるバルメン宣言の起草などを通して教会に大きな影響を与えましたし、晩年のバルトは刑務所で説教したりしていました。

私がバルトを「教会に通わない神学者」であると呼ぶのは、これらの事実を全く知らないで言っていることではないつもりです。

私が問うていることは、神学者、とくにわざわざ『教会的な教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)というタイトルの本を書いた「自称『教会的な』教義学者」が、それを書いている最中に教会に通っていなかったというのは、どういうことを意味するのだろうかということです。

ご承知のとおり(伝統的な)神学、とりわけ教義学には「教会論」(Ecclesiologie)という項目が不可避的に置かれることになっており、バルトの『教会的な教義学』にも「教会論」に該当する部分はありますし、非常に詳細な議論がなされてもいます。

しかしそれらの議論も「教会に通わないで」書かれていたというわけです。日曜日の礼拝には行かない。また、日本語で言えば教団や教区、大会や中会における「教会行政」などにも関与しない。 教会との関係という観点からいえばバルトは「フリーランスの神学者」であったと言えるでしょう。

したがって、バルトの語る「教会」は、深井さんの言葉を借りれば、本質的教会論であるということになるわけです。聖書と諸信条あたりを持ち出して「教会はこうあるべきだ」と本質論的に語る。そんな話は、やはり「絵に描いた餅」です。

そのようなバルトの議論を「無責任である」というような言葉で断罪するつもりはありませんが、あまりにも抽象的すぎるため、まともに傾聴するに値しないとは思います。

『教会的な教義学』というタイトルからして、これが「教会に通わない神学者」が自分の主力商品に付けた名前であるということになりますと、ギャグやジョークだったのか、あるいは皮肉たっぷりの当てこすりだったのかと勘繰りたくなります。

私は、仮にそれがギャグやジョークや当てこすりであったとしても、そのこと自体を悪いと言いたいのではありません。そうである可能性を知らない読者があまりにも多すぎるのではないかと言いたいのです。