2009年3月1日日曜日
神殿を三日で建て直す
ヨハネによる福音書2・13~25
「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」
今日の個所に描かれているイエスさまのお姿は、どれほど贔屓目に見ても乱暴であると言わざるをえません。その手に鞭を持ってエルサレム神殿の中で暴れ回っておられます。唯一慰めを感じる点を探すとしたら、書かれていることを読むかぎりですが、イエスさまが振り回しておられる鞭が人の体に当たっていないことです。しかし羊や牛、両替人の金、その台には容赦なく鞭が振りおろされています。すべてがめちゃくちゃにされています。小さな子どもがいたら激しく泣いてしまうだろうと思われるほどです。
ですから、今日の個所のイエスさまのお姿はわたしたちにとっての模範的なものであると考えることはできません。「なるほど了解しました。わたしもこれから家に帰って自分の鞭を作ります」というようなことは、どうかお考えにならないでください。わたしたちには許されていることと許されていないことがあります。このときイエスさまがなさったことは、わたしたちが決して真似をしてはならないことです。わたしたちは、どんなことがあっても暴力を働くべきではありません。
しかし、です。今私が申し上げたようなことはイエスさまもよく分かっておられました。そのように信じることができます。イエスさまがエルサレム神殿の中で暴力を働かれたことについては、ヨハネによる福音書だけではなく、他の三つの福音書にも記されています。四つの福音書が証言していることは、イエスさまがこのようなことをなさったのは、後にも先にも、たった一回限りであるということです。
一回限りならば何をしてもよいと申し上げたいわけではありません。しかし、先ほども指摘しましたように、幸い、イエスさまの鞭は、人間をめがけて振りおろされたものではありませんでした。
そしてもう一つ指摘しうることは、これも四つの福音書に共通していることなのですが、イエスさまの鞭によって商品をめちゃくちゃにされた人々が逆上して、つかみあいの乱闘が始まったとは書かれていないということです。
そのため、私が感じることは、イエスさまのなさったことが暴力であることは認めざるをえませんが、しかし、どこかしら(「どこかしら」です)手心が加えられていたようでもあるということです。イエスさまのなさったことの目的は、人間に危害を加えることではなく、今の事態を変革し、打破することにあったと考えることができるのです。
神殿の中で商売をしていた人々が売っていたものは、まもなく始まろうとしていた過越祭で用いられるものでした。牛や羊や鳩は、犠牲の供え物として神にささげるためのものでした。つまり彼らが扱っていた商品は宗教用品でした。今とは違います。アクセサリーとかTシャツとか記念品というような、神殿の宗教とそれとの直接的な関係を見出すことが難しいようなものを売っていたわけではなかったのです。
この点から分かることは、イエスさまが問題にされたのは売られていた商品の内容ではなかったということです。もし彼らが牛や羊や鳩ではなく別のものを売っていたとしたら、イエスさまが暴力を働かれることもなかっただろうと考えることはできそうにありません。そのことはイエスさま御自身の言葉からもはっきりと分かります。「このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。
これではっきり分かることは、イエスさまが問題にされたことは、売られていた商品の内容ではなく、その場所で商品が売られていたこと自体であったということです。商売が行われるべきではない場所で商売が行われている。そのことを問題になさったのです。
しかしまた、このことは、もう一段階掘り下げて考えてみるべきです。そこで売られていた商品が宗教用品であり、かつ、まもなく始まろうとしていた過越祭に直接必要となる道具であったということは、その収益金や出店のための場所代などが神殿そのものの収入にもなっていたであろうということです。これは確実に言えることです。おそらくは神殿側としても、その収入をかなりの面で期待していたところもあったのです。
しかし、だからこそイエスさまは、そのこと自体を否定なさったようでもある!神殿の運営は商売によって成り立つものであってはならない。そのことをイエスさまは、まさに力づくで主張なさったようでもあるのです。
わたしたちはどのようなことを思い描けばよいのでしょうか。目を閉じてあれやこれやを想像してみるとよいのです。古い歴史を持つ大きな建物がある。それは一種の芸術作品とも言うべき何ものかである。それを一目見たいと外国からもたくさんの人々が集まってくる。そこで行われている礼拝とか、その礼拝において崇められている神とか、そういうことには全く関心のない人々も集まってくる。
しかしその人々も、信仰とか何とかは全く持っていないのだけれども、その建物の中で伝統的に行われてきたことの真似事くらいはしてみたくなる。辺りをきょろきょろ見回すと、あつらえ向きな商品を売っている店が見つかる。これは良かったと買い求めて真似事を始めようとする。もちろんそこには真剣に礼拝している人々もいますので、きゃっきゃと騒ぐようなことはさすがに慎むとしても、照れくさそうににやにや笑いながら、あるいは真剣に礼拝している人々を興味本位の目で眺めながら、心にもないことを始める。
そのようなことはわたしたちの時代においては、ごく当たり前のことのように行われていることですので、問題にしにくいことではあります。しかし、あえて言えば、興味本位で傍観する人々が混ざっている礼拝は、真剣に礼拝をささげている人々にとっては不愉快なものでありえます。信仰者としての率直な感覚からすれば、自分の命に代えても惜しくないほど大切にしているものを汚されたような気持ちにさえなるものです。
今の日本の中で問題になっていることは大学のレジャーランド化というようなことです。私の中で思い当たるのは、まさにこれに近いことです。イエスさまが問題にされたことは、神殿のレジャーランド化、あるいは宗教施設のレジャーランド化です。
しかし、こういうことを言いっ放しにするだけでは意味不明ですし、誤解を招くだけでしょう。「大学のレジャーランド化」とは、大学が学生にとって楽しい場所になってきたという意味ではありません。大学本来の目的は学問であるという点が見失われ、別の目的が支配する場所になってしまったという意味です。あるいは、学生がまるで観光客のようであり、先生はひたすら純粋にサービス業に徹しなければ成り立たない場所になってきたということです。そして、学生たちの支払う料金のようなもので成り立つようになってきたということです。
このように言うことによって私は、観光業に携わる人々や観光客を軽んじているつもりはありません。しかし、そのことをご理解いただいた上でなお申し上げなければならないことは、大学とレジャーランドは違うものであるということです。きちんと線が引かれなければなりません。そして神殿とレジャーランド、さらに教会(!)とレジャーランドも違うものであるということです。
このように私自身が申し上げる場合の意味は「教会は楽しい場所であってはならない」ということではありません。正反対です!教会は楽しい場所でなければなりません。教会はレジャーランド以上に楽しい場所でなければならないのです。
しかし、だからといってわたしたちは、教会を商品販売のような要素がないかぎり成り立たないものにしてしまってはいけません。それは本末転倒です。教会を支えるのは信仰であり、祈りであり、奉仕です。それはまた、わたしたちの教会には料金表のようなものは一切ありませんということでもあります。これだけ支払いさえすれば大丈夫というような規準のようなもの何もありません。また逆に、これだけ支払わなければ仲間に加えてももらえないというようなものもありません。
もっとも、イエスさまの時代の神殿で動物が売られていたのは、真剣そのものの礼拝者たちの中で遠い町から来る人々が、重い荷物を運ばずに済むように便宜を図っていた面もあったと思われます。ですから彼らのしていたことのすべてが悪いと言い切ることは無理な面もあるのです。しかし、そのような善い面が大義名分となり、隠れ蓑になって、いつの間にか悪い面が忍び込んでくるというのが世の常です。神殿側も、彼らの収入を当てにし始める。いつの時代にも、この種のことが宗教を堕落させる原因になってきたのです。
ですから、イエスさまが退けられたのは商売人たちであったと考えることは不十分です。イエスさまがお持ちになったその手に鞭の象徴的な意味は、商売人たちの裏に隠れているもの、すなわち、神殿そのもの、そしてまた神殿の宗教そのものへの(やや物騒な言い方をもちだすなら)宣戦布告であったと言えるのです。だから一回限りで十分だったのです。
退けられた商人たちは、暴力をもってかかってくることはありませんでしたが、イエスさまに食ってかかりました。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。それに対するイエスさまのお答えが、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」ということでした。この答えについてヨハネが解説しています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(21節)。
事実イエス・キリストは三日で神殿を建て直されました。神殿とは神の栄光をあらわす器です。それはイエス・キリスト御自身の体である。すなわち、イエス・キリストが三日目に死人の中からよみがえられたこと、それによって、真の神殿が建て直されたのです。イエスさまの復活の体は、エルサレム神殿よりもはるかにまさって神の栄光をあらわすものでした。イエスさまを信じる者たちにとっては、エルサレム神殿はもはや不要になったのです。
聖地旅行などしてはならない、というようなことを申し上げているのではありません。しかし、何が何でもエルサレムに行かなければ真実の礼拝をささげたことにはならないというような考えはわたしたちには全くありません。わたしたちの礼拝は場所を問いません。突き詰めて言えば、教会は人であって、建物ではありません。そもそも、建物がなければ礼拝はできないという考え方自体がないのです。わたしたちはどんな場所でも・場所など無くても、今・ここで、霊とまこととをもって礼拝をおこなうことができ、それによって神の栄光をあらわすことができるのです。
(2009年3月1日、松戸小金原教会主日礼拝)