2009年3月19日木曜日

質疑応答(4)神を喜ぶ自由



(4)創造者を「享受」することと被造物を「享受」することとの間にもし些かの区別もないとなるなら、逆に我々が「神を喜び楽しむ」ということもまた「贅沢」「遊び」ということになり、そこにある種の「不必要なもの」という概念、つまり「人間の主な目的」ではなく、オプショナルなものに成り下がるという思想が入り込むことにはならないのでしょうか。



(4)の質問はとくに重要なものだと思いました。「神を喜び楽しむこと」も、もちろん「贅沢」であり「遊び」です。ファン・ルーラーの線を伸ばしていけば当然そうなります。



私が「不必要」と書いたことは、なるほどたしかに「オプショナルなものへと価値を低めている」という反応ないし反発を招きかねません。



しかし、これはオランダ語のnoodzakelijkheid、ないし英語のnecessityをどう訳すかにも依ります。「必要性」と訳すと反発されるようなら、「必然性」と訳すと少しは理解されるものが出てくるかもしれません。しかし、問題は論理的(ロジカル)なことにとどまりません。「必然性」と訳しますと、論理的なことだけに限定されてしまう危険性があります。



この「必然性」を説明するために持ち出すことができそうな例は、(あまり良い例ではありませんが)「わたしたちがもうける子どもの数」などです。



結婚して子どもを産む。一人にしようか、二人にしようか、三人以上にしようか。何人「でなければならない」理由は、どこにも無いはずです。お二人の自由です。「どうぞご勝手に!」です。誰からも強制されません。「何人産まなければならない義務」などは、誰にもありません。そもそも「子どもを産まなければならない責任」さえ、人間にはありません。



そのようなところで義務だ、責任だ、役割だ、使命だと言い出すところに「使用」(uti)の伝統が臭います。しかし、たとえば「女性は子を産むために使用される」だなんてことは、もはや絶対に言うべきではありません。



「神の創造のみわざ」も、だれから強制されたものでもありません。神に向かって「創造しなさい」と命令したり、「神よ、あなたには天地万物と人間を創造する義務と責任がある」と説教したりする存在とは何なのでしょう。そういうことができるのは、おそらく「神以上の存在」だけです。



わたしたちの「神を喜び楽しむこと」についても、義務だ、責任だ、役割だ、使命だとやりだすのが我々の伝統(アウグスティヌスの伝統!)なのかもしれません。しかし、義務だ責任だと言っては脅され、命令されて、強制されて、嫌々ながらさせられることが、どうして「神を喜び楽しむこと」(fruitio Dei)でしょうか。全く矛盾しているではありませんか。いかなる強制もなく、自由のうちに仕えることが「神を喜び楽しむこと」ではないでしょうか。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」