2009年3月15日日曜日

地上のことを話しても信じないとすれば


ヨハネによる福音書3・9~15

「するとニコデモは、『どうして、そんなことがありえましょうか』と言った。イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』」

先週から学んでおりますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ最高法院の議員でありファリサイ派に属していたニコデモとの対話です。ニコデモにイエスさまがおっしゃったことは、こうでした。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。それに対するニコデモの答えはこうでした。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。

このニコデモの答えについて先週私が申し上げたことは、ニコデモはイエスさまの言葉を理解できなかったか、理解できたのにとぼけているのかのどちらかでしょうということでした。もう一度母親の胎内に入ってうんぬんの部分は、タイムマシンのような非現実的なことをイエスさまから言われたと感じて反発したか、腹を立てたかである可能性があるということでした。

ニコデモが腹を立てたと考える場合、彼が感じたことは自分のプライドを傷つけられたということでしょう。母親のお腹の中から出直してこいと言われた。それは、これまでの人生をすべて無かったことにしろ、ということか。生きてきたことはすべて無駄であり、苦労も無駄であり、流した涙も無駄である。そのように考えなければイエス・キリストと共に歩む新しい信仰の人生を始めることができないと言われるのであれば、わたしはそのような道に入ることができない。そのように感じる人がいるとしても、おかしくはありません。

しかし、イエスさまは、もちろん、決してそのようなことをおっしゃったわけではありません。そのようなことをイエスさまが言うはずがないと、わたしたちは、声を大にして言わなければなりませんし、イエスさまを信頼しなければなりません。わたしたちの人生には、無駄な部分など一つもありません。苦労も涙も無駄ではありません。わたしたちは生きていかなければなりません!何一つ無駄なことはないと信じて。すべてのものを両手の間にしっかりと抱えこんで。

ニコデモの疑問に対するイエスさまの答えは、こうでした。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。これは何のことでしょうか。何を意味し、また、どのようにして実現するのでしょうか。このことを今日は考えていきたいと願っています。

今日お読みしました最初の節(3・9)でニコデモが言っていることは、まさに今、私が問うたことそのものです。「どうして、そんなことがありえましょうか」。この翻訳は誤りであると、私が読んだ注解書に記されていました。ニコデモが言っているのは「どのようにしてそれは起こるのでしょうか」であると(C. K. Barret, John, 211)。イエスさまは、水と霊とによって新しく生まれなければならないと言われる。それは具体的にいえばどのようにして実現するのでしょうかと、ニコデモは質問しているのです。

この質問に対するイエスさまのお答えは、少々あきれておられるご様子です。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」。

あなたは先生でしょう。ユダヤ最高法院の議員であり、神の民イスラエルの最高指導者の一人であり、この国の人々を教え導かなければならない人でしょう。知恵と知識に溢れ、常識をもち、情報に事欠くこともないでしょう。そのようなあなたが、これくらいのことも分からないと言うのですか。

そして、そのようなことよりも何よりも、あなたがたイスラエルの教師たちは、聖書を勉強しているでしょう。この聖書という書物をきちんと勉強すれば、わたしが今言ったことを理解できないことなどありえないはずでしょう。それとも、あなたは分かっているのにとぼけているのですか。このような感じのことをイエスさまがおっしゃっている様子が伝わってきます。きついと言えば、これほどきつい言葉はない。強烈なパンチを、イエスさまがニコデモに向かって繰り出しておられます。

そして注目していただきたいのは11節以下です。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。

私は今、この個所に書かれていることを注目していただきたいと申しましたが、同時に申し上げなければならないことは、この個所に書かれていることは分かりにくく、解釈が難しいということです。丁寧に見ていく必要があります。

まず最初に考えなければならないのは「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」の意味です。はっきり記されていないことは、イエスさまが何を知っておられてそれを語り、また何をご覧になってそれを証ししておられたのかです。しかし、考えられる可能性の選択肢がたくさんあるわけではありません。

いずれにせよ明らかなことは、イエスさまがおっしゃっているのは、水と霊によって人が新しく生まれる様子です。それがどのようにして実現するのかについての具体的な内容であり、経緯であり、現象とも言うべきことです。しかし、このように言うと、かえってますます分かりにくくなるかもしれません。

もっと分かりやすく言えば、水と霊によって新しく生まれた人の様子です。ニコデモがイエスさまのもとを訪ねたときには、すでにイエスさまの宣教活動は開始されていました。イエスさまのもとにはすでに十二人の使徒がおり、他にも多くの弟子たちが集まっていました。つまり、そこにはすでに一種の教会ができあがっており、あるいは少なくとも後に「教会」と呼ばれる人々の集まりの原型のようなものができつつありました。つまりそのときにはすでにイエス・キリストの名による洗礼を受けた人々がおり、イエス・キリスト御自身による聖書の解き明かしとしての説教を聴き、その説教によって呼び起された信仰をもって生きている人々の集まりがあったのです。

イエスさまがそれを知ってお語りになり、またそれをご覧になって証ししておられたのは、おそらくそれです。つまり、それはイエスさまのもとに集まっている人々の姿です。教会の姿と言ってもよい。しかし、より厳密に言えば、イエス・キリストの復活と昇天の後に起こる聖霊降臨の出来事によって「教会」になっていく前の信仰者の集まりとしての信仰共同体の姿です。あるいは、わたしたちなりの言い方でいえば、(かなりニュアンスは違うかもしれませんが)、独立した教会を設立する前の伝道所の姿と言ってもよいかもしれません。

ともかくイエスさまがそれを知り、それをご覧になっているのは、洗礼を受けて群れに加えられ、信仰をもって生きている人間の姿です。信仰者の姿です。もちろんその人々は水と霊とによって新しく生まれた人々です。

つまり、人が信仰者になるのは水と霊がその人の上に注がれた結果として起こることであるという意味で、水そのもの、霊そのものの影響あってのことであると言わなければならないかもしれません。しかし、少なくとも霊は目に見えない存在です。また水は、目に見えないということはありませんが、しかし、水そのものに何らかの特別な力があるわけではなく、水は水です。目に見えるのは霊ではなく、水そのものが持っている力でもなく(そのような力はないと申し上げたわけですが)、水と霊によって新しく生まれた人間であり、その姿です。

それは、ニコデモさん、あなたにも見えるでしょう。あなたの目に見える、見えている、信仰をもって生きている人々の姿。このわたしのもとにいる、教会に集まっているこの人々の姿をどうか見てください。それを見ても、あなたには「この人々は教会に通い始める前と何一つ変わっていない」としか見えないのですか。あなたの目は節穴ですか、とまではイエスさまはおっしゃっていませんが、何かそのようにおっしゃりたいほどの強い言葉が語られていると読むことができます。

注目していただきたい、しかし、解釈が難しいもう一つの点は、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」です。これの解釈は二つに分かれます。

一つは、イエスさまがおっしゃる「地上のこと」とは、ニコデモがそれを「母親のお腹の中に戻ることなのか」と誤解したほどに地上的な意味にもとれる「新しく生まれる」というイエスさまがおっしゃった点であると理解し、それに対して「天上のこと」とは「水と霊によって生まれなければ入ることができない」とイエスさまがおっしゃった「神の国」としての天国のことであると理解する立場です。

かなりややこしい言い方をしたかもしれません。別の言い方をすれば、「新しく生まれる」とイエスさまがおっしゃったことは一種のたとえ話であると理解する立場です。その場合は、洗礼を受けること、信仰をもって生きること、教会のメンバーに加えられて教会生活を送ることも、一種のたとえ話であり、象徴にすぎないことです。それどころか、わたしたち人間がこの地上で体験する出来事は、いわばすべてがたとえ話であり、地上を離れた天国の出来事こそがリアルな現実であるとみなす立場です。

しかし、もうひとつの解釈がありえます。私はこれから申し上げることのほうが正しい解釈であると信じます。それは、水と霊によって新しく生まれること、そのことはすべて地上で起こることであり、それこそがまさに「地上的なこと」であるとイエスさまがおっしゃっていると理解する立場です。

この場合は、洗礼も、信仰も、教会生活も、たとえ話にすぎないものではなく、リアルな現実そのものです。わたしたちは地上でまさに新しく生まれるのであり、新しい人生を始めるのです。地上の現実のなかで天国そのものを体験するのであるとほとんど明言してよいほどの、リアルで劇的な変化を体験するのです。

こう言いますと、「何も変わっていないじゃないか」という声がすぐに聞こえます。このわたしは、またあの人は、この人は、教会に通う前と、教会に通い始めてからと、どこが変わっているのか。何も変わっていないではないかと。

そんなことはないと、私は申し上げたいし、イエスさまもそのようにおっしゃってくださるに違いありません。何も変わっていないどころか、全く違います。

あなたが教会に通っていること、教会のメンバーであること、そのこと自体が重大かつ決定的な変化です!お笑いになるかもしれませんが。

別の言い方をしておきます。わたしたちは、もはや独りで生きていないということです。あなたが絶望しそうなとき、教会があなたを助けます。どこへでも飛んで行きます。教会にできることは何でもします。

そのような仲間がいる。新しい家族がいる。それこそがあなたの新しい人生なのです。

(2009年3月15日、松戸小金原教会主日礼拝)