拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から以下のようなご丁寧な質問をいただきました。ご本人の許可を得ることができましたので、質問内容を公開用に編集させていただいたうえで、謹んで回答いたします。
(1)講演の引用文では「この世界こそが神の世界である。この世界こそが、まさに神の栄光の舞台(theatrum gloriae dei)なのである。この地上の生が、神の栄光の現実化である」と言われており、この辺りにファン・ルーラーの神学的根拠がありそうですが、地上において働かれる「神御自身」とその舞台である「地上そのもの(被造物)」を、同様に「喜び楽しむこと(享楽)」が許されているのは、なぜなのでしょうか。ともすると、両者を非常に近付けて「喜び楽しむこと(享楽)」を許すと、汎神論的(pantheistic)な思想に接近してしまいそうですが、ファン・ルーラーはこの辺りに警戒心を持っていたのでしょうか。もし持っていたとすれば、どのように汎神論的思想と自らの神学を区別されていたのでしょうか。
ご質問ありがとうございました。どれも当然起こりうる疑問ですので、次回の講演のための参考にさせていただき、そのとき論拠を挙げてきちんとお答えできるようにしたいと思います。
しかし、事はわりあい単純です。この件に関するファン・ルーラーの神学的根拠は、主に創造論です。(経綸的三位一体における)創造のみわざ(creatio)において起こることは創造者(Creator)と被造物(creature)の絶対的区別です。創造論がきちんと機能しているかぎり、そしてこの区別が維持されているかぎり、いかなる汎神論も起こりえません。何の心配もありません。
しかも、創造者と被造物の区別は人間自身が立てた区別ではなく、神御自身がお立てになった区別です。創造者(神)については享受してよいが、被造物(物と人)については使用にとどめるべきであるという見方は、なんといっても人間側からの視点です。神がそのようなことをおっしゃったでしょうか。
そしてファン・ルーラー自身が論じているのは、創造者にとっての被造物の存在とは(神の存在を成り立たしめる上でかならずしも「必然性」がないという意味で)「不必要なもの」であり、その意味での「贅沢」であり、「遊び」であり、「楽しみ」であるということです。つまり、創造者自身が被造物を「享受」しておられるのです!(続く)