2017年2月1日水曜日

ご一緒に死なねばならなくなっても(千葉英和高等学校)


マルコによる福音書14章22~31節

「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』」(31節)

今朝の箇所に描かれているのは、主イエスが十字架につけられる前の夜、弟子たちと共にした最初の晩餐の場面です。教団・教派によってとらえ方に違いがありますが、この最後の食事を想起するのが聖餐式です。主の晩餐式、あるいはカトリック教会のミサもその点では同じです。

主イエスはパンをとって、それを裂いて弟子たちに与え、「とりなさい。これはわたしの体である」と言われました。ぶどう酒の杯も同じようにされ、「これはわたしの血である」と言われました。

共観福音書には見当たりませんが、ヨハネによる福音書には、主イエスが自分の肉を食べ血を飲めとおっしゃる言葉を聞いた弟子たちが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6章60節)と拒絶反応を起こし、そのせいで「弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなった」(6章66節)とまで書かれています。

これで分かるのは、今日の箇所で主イエスがおっしゃっている「わたしの体」を食べ、「わたしの血」を飲めという言葉は、今のわたしたちにとってだけでなく、当時の人々にとっても、弟子たちにとってでさえ相当気持ち悪いものだったということです。

しかも主イエスは「わたしの体」「わたしの血」と2つに分けておっしゃっていますが、要するに「わたしを食べなさい」とおっしゃっています。そう言うともっと恐ろしい話になってしまいますが。

しかしそれはもちろん恐ろしい話ではありません。あなたがたの中にわたしを取り込みなさいとおっしゃっているのです。あなたがた自身がわたしになりなさいということでもあります。わたしの存在と働きを受け継ぎなさいという意味でもあります。

そして、ここから先は再び解釈に多様性があると思われますが、このとき主イエスは御自分の死の自覚をされていたので、いわば遺言として、約束として、御自分の存在と働きを弟子たちにお委ねになったと理解することができると思います。

その最後の晩餐の席で、弟子のペトロが、元気でもあり不遜でもあることを主イエスに言います。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)。

「たとえ、みんながつまずいても」は余計な言い方ではありますが、ペトロの競争心の強さがよく表れています。自分はリーダーでなければならない、リーダーは他の誰よりも強くなければならないという責任意識を強く持っていた人だったことが分かります。

しかし、主イエスはそのペトロの言葉を即刻打ち消します。叱りつけたわけでもたしなめたわけでもありません。ばかにしたわけでも軽蔑したわけでもありません。ただ事実をおっしゃっただけです。言い方を換えれば、わたしはあなたにそこまでのことを求めてはいない、とおっしゃったのです。

独裁者のような人は、自分のために死んでくれる部下を求めるかもしれませんが、部下のために自分が死ぬことは決してしません。しかし主イエスは逆でした。弟子のだれも自分のために死んでほしいと思っておられないし、そのようなことはやめてくれとお止めになる方です。

ですから、結果的にペトロは自分で誓った言葉を自分で裏切り、全く正反対の行動をとってしまいましたが、それはあくまでも自分に対する裏切りであって、主イエスの命令に対する裏切りではありません。主イエスは、自分のために死んでくれとも、自分と一緒に死んでくれとも、そのようなことは一言もおっしゃっていません。

ペトロは嘘をついたわけでもありません。本気の本気で、本心の本心を言ったのです。それを実行できなかっただけです。ペトロは間違った誓いをしたのです。あなたのために死ぬ、誰かのために死ぬという誓い自体が間違っているのです。死なないでください、生きてください。それが主イエスの願いです。

主イエスでさえ死のうと思って死んだとか、死にたくて死んだわけではありません。死ぬこと自体、殺されること自体は、主イエスの本望でもなければ、ご自分の計画が実現し、達成したということでもありません。

ペトロの姿を学校教員に多いとされる「燃え尽き症候群」に関連づけて考えてみることができるかもしれません。生徒たちのために、先生がたのためにお祈りいたします。

(2017年2月1日、千葉英和高等学校 有志祈祷会)