2013年6月30日日曜日

有限は無限をとらえることができません

ローマの信徒への手紙3・27~31

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)と書かれています。これはどういう意味でしょうか。その説明から始めます。

先週の個所でパウロは、わたしたち人間が罪の中から救い出されるために唯一残された道を教えていました。それは、わたしたちが神の言葉である聖書の教えを完璧に実行するという道ではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる道です。それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」(24節)与えられる神の義です。

「無償で与えられる」ということは、人間の側からのいかなる支払いも、神はお受け取りにならないということです。神は人間のいかなる買収にも応じられません。人間がどれだけ支払ったから、どれだけがんばったから、どれだけたくさんのささげものをしたから、だから神は人間を救うということではありません。たくさん支払った人にはそれなりの見返りがあるということであれば、神と人間の関係は商売の関係になります。商売が悪いと言っているのではありません。神とわたしたち人間との関係はそのようなものではないと言っているのです。

わたしたちの支払いの多寡に応じて神の態度が変わるということであれば、神がわたしたち人間に与えてくださる救いの恵みには松・竹・梅の三種類か、それ以上の種類があるということになります。天国が、ものすごくがんばった人用の部屋と、少しがんばった人用の部屋と、がんばらなかった人用の部屋に分かれていることになります。

しかし「何の差別もありません」(22節)。支払う力のない人にも多く支払うことができた人と全く同じ部屋が用意されています。神の御子イエス・キリストが父なる神のみもとから地上の世界に遣わされて行ってくださった贖いの御業は、イエス・キリストを信じるすべての人に平等の神の義を約束してくれるのです。

こういう話をした後にパウロは「人の誇りは取り除かれた」(27節)と書いていますので、どういう意味であるか、もうお分かりでしょう。「人の誇り」とは人間の努力の証しです。しかし、その努力の多寡は、人が神に救われるかどうかに関係ないことだとパウロは言う。そのように言われると、私はこれまで一生懸命がんばって生きてきた、誰にも負けないほどの努力をしてきたと思っている人たちは傷つくのです。「もうやってられない」と自暴自棄になり、投げやりになることがありうるのです。

人の誇りが取り除かれる、つまり、わたしたちが神に救われることに関して努力の価値が失われるのは、「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)とパウロは続けています。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。

神はわたしたちの買収に応じる方ではありません。天国の問題はお金で解決することはできません。また、これは私にとっても厳しい話になるのですが、この地上において神を信じて生きる信仰生活を何年続けてきたかは、天国においては関係ありません。教会において多くの奉仕をなし、献身した人と、今際の床でわずか数分、わずか数秒、イエス・キリストを信じる信仰を告白した方とは全く同じ天国に受け入れられるのです。

47歳の私は47年教会生活を送ってきました。6歳のクリスマスに成人洗礼を受けましたので、洗礼を受けてから41年経っています。しかし、神は「だから何なのだ」と私に問いかけます。そのようなことを私のプライドにすることを神御自身が許してくださらないのです。

教会生活を長く続けることには意味はないと申し上げているのではありません。意味はあります。ないはずがありません。しかし、その意味は、ただひたすら、これからイエス・キリストへの信仰をもって歩みはじめる人たちを歓迎し、受け入れ、祝福し、心から喜ぶことにあるのです。

なぜパウロは、このようなことを言わなくてはならないのでしょうか。人間はもっと努力すべきである。「神と教会にたくさん奉仕し、ささげものをし、やるべきことをしっかりやらないと、天国には行けません」と教えるほうが教会にもっと人が集まるのではないでしょうか。「がんばらない人は地獄行きですよ」と威嚇するほうが、不安や恐怖心にかられて教会生活を熱心に続ける人たちが増えるのではないでしょうか。

しかし、パウロの考えはそのようなものではありません。真の教会はそのような方法を選んではいけません。悪質な宗教ビジネスの手口です。そのようなやり方を神が許してくださいません。神が求めておられるのは、脅しや不安や恐怖に怯えて集まって来る人ではありません。全くの自由において神を愛し、隣人を愛して生きる、喜びと感謝にあふれている人をお求めになるのです。

「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に神は唯一だからです」(29~30節)とパウロは続けています。話が突如として飛躍して、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が出てきたようでもありますが、もちろん関連があります。

繰り返し申し上げているとおり、パウロが言う意味での「ユダヤ人」とは幼い頃から聖書に基づく教育を受け、安息日のたびに神殿や会堂に集まり、礼拝をささげ、奉仕を行ってきた人々です。そのこと自体は素晴らしいことですし、人から責められるようなことではないし、自分自身の誇りにすることが許されることでもあります。しかし、だからといって、「神はユダヤ人だけの神でしょうか」、そうではないでしょうと、パウロは言っているのです。ユダヤ人だけが「神」を専有すること、独り占めすることはできません。

この「神」を「教会」と言い換えてもほとんど同じ結論になると思います。教会はユダヤ人だけの教会でしょうか。教会は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人たちだけの専有物でしょうか。初めて教会を訪ねる人、これからイエス・キリストを信じる信仰を求め、そういう人生を今から始めたいと願っている人のための教会でもあるのではないでしょうか。そして、そのような人のための神でもあるのではないでしょうか。そのようにパウロは言いたいのだと思います。なぜならパウロは「異邦人のための伝道者」であろうとしましたから。

「異邦人」とは異教徒です。幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けるどころか、そういうことは何も知らない、習ったことも触れたこともない人々です。軽んじる意味で言うのではありませんが、聖書の宗教に限って言えば、その人々は“子ども”です。誰からも教えてもらったことがないのですから仕方がありません。

その人々が聖書を読んだとき、いろいろと素朴な疑問が出てくるのは当然です。教会生活が長い人々が聞くとびっくりするような誤読や誤解をすることがあるのは当然です。あるいはまた、その人々が教会に通い始め、聖書を読み始めるより前から信じていたことや受け容れていたことを抱えたまま、引きずったまま、教会に通い、聖書を読むことになりますから、その人たちの心の中で聖書の教えとそれ以外の教えが混ざり合い、混乱・混同し、どこまでが聖書の教えで、どこからはそうでないかの区別がつかない状態になることも当然です。

ですから、そのような人々に対して教会がしなければならないことは、混合・混乱・混同した状態にあるその人々の心の中にあるものを、解きほぐすことです。それは、もつれあい、からみあった糸をほぐすようなことです。そして、先ほど申した意味での聖書的な宗教教育については“子ども”の状態の人々に、時間と労力を惜しみなく注ぎ、手とり足とり教えていくしかありません。そういうことを面倒くさがるような人は「異邦人のための伝道者」にはなれません。

だから私は、依然として圧倒的な「異邦人の国」である日本の教会がなすべきことは、子どもたちの先生のような仕事であるととらえています。何も知らない“子ども”に手とり足とり、そもそもの物事の成り立ちから、噛んで含んで教え、伝える仕事です。

パウロが言いたいことは、わたしたちにとって厳しい話なのだと思います。わたしたちは、イエス・キリストの教会に来る前から聖書の知識を持っていて、そんなことはもう分かっている、耳にたこができるほど聞きました、というような人々だけを集めて、それで教会にたくさん人が集まったということで満足しているようでは足りないのです。「伝道」とは、全くの異邦人、全くの異教徒をイエス・キリストを信じる信仰へと導き、洗礼を授けることです。そのことがわたしたちにできているだろうかと自らに問わなくてはなりません。

有限なる人間、有限なる教会は、無限の神をとらえることができません。天地万物の創造者である全能の神は、宗教的に熱心な人たちだけの専有物ではありません。わたしたちは世に出ていく必要があります。そこで「伝道」する必要があるのです。

(2013年6月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月29日土曜日

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです


うちは、もう何とかするしかないし、

ある意味で開き直りましたけど

「これから」の人たちのことを、ぼくは心配しています。

子どもを産んで育てるということに、

親の心に後悔や罪悪感を覚えさせてしまうような社会はまずい。

「子どもなど産むんじゃなかった」と。

あるいは

「子どもがこれ以上進学すると家が破産するからやめて」と、

心の中で親が祈らざるをえなくなるような社会はまずい。

子どもはいつまでも「子ども」じゃあない。

「少子化」って、ですね、

半世紀くらい前は(もう「半世紀くらい前」です)

どこの教会の日曜学校にも100人くらい集まっていたちびっこたちが

今は来なくなったねえ、日曜学校が寂しくなったねえ、

という話ではないです。

「少子化」は人口減少です。人がだんだんいなくなることです。

今の10代、20代の子たちが絶望死していく報道を横目で見ながら

あと10年の命を悠々自適に暮らそうとしている社会はまずい。

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです。

嫌われる言葉かもしれませんが、

ぼくには、そうとしか言いようがないです。

2013年6月27日木曜日

今夜はマカロニグラタンを作りました

文句なし!「マカロニグラタン」~\(^o^)/

マカロニ、牛乳、鶏もも肉、チョリソー、ほうれんそう、アスパラガス、長ねぎ、ぶなしめじ、粉チーズ、(お好みでタバスコ)。

マカロニグラタンは、疲れた日に簡単にできる最高のごちそうです。

妻は今夜も保育園の夜勤です。おつかれさま。


立教大学「キリスト教の歩み」ゲスト講義


立教大学 全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み」ゲスト講義

日時 2013年6月27日(木)午後3時
    2013年7月 4 日(木)午後3時

場所 立教大学池袋キャンパス 11号館 A203教室

主題 「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるのか」

講師 関口 康(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

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画像は、今日の様子です。ほぼ満席でした。

素晴らしい学生さんたちでした。熱心に聴いてくださいました。ご清聴ありがとうございます。

これは本当にやりがいがある仕事だと実感。ぼくの子どもと同世代の方々です。楽しかったです。

まあ、でも、生まれて初めての大学の教壇なのに、いきなり二百人教室とは...。

心臓が口から出そうでした。





2013年6月25日火曜日

悪夢から覚めた朝のポエム(頭いたい)


同じようなことを何度も書いてきた自覚があるが、それは仕方ない。

ネット開始は1996年8月なので(最初はパソコン通信)、17年になる。

こんなこと誓って言う必要はないが、

ぼくがネットに書いたことを読んで

教会に通いはじめ、洗礼を受けたという人は

(少なくとも「そうである」と言っ(てくれ)た人は)、

まだ一人もいない。

17年で、まだ一人も。

その理由ないし原因は

ぼくがネットに書く内容が「悪い」からであることは明白なのだが、

そこで開き直って

「ネットは伝道に向かない」とか言うもんだから

ぼくは、ぼくが始末におえない。

しかし、このことにぼくががっかりしているわけではないし、

卑屈にも思っていない。

「だから意味が無い」とも思っていない。

ここで話を中断して、論理を飛躍させる。

ぼくは日本の教会の「内部取引」を「伝道」だと思っていない。

こっちの教会がイヤになったから、あっちの教会に移った。

これは「伝道」ではない。ただの「内部取引」だ。

バランスシート上ではプラマイゼロ。

いや、結果はゼロではないね、マイナスだ。

どうやら「内部消費」してるようだ。

外に向かうべきだろう。新規を求めるべきだろう。

テレビのCM出したり、番組に出演しますか?

ポスティングのチラシは読んでもらえますか?

それが「悪い」とも「効果が無い」とも言うつもりはない。

言いたいことは、そこで起こる、いろんな省略や割引や水増しの問題だ。

省略とは、割引とは、水増しとは何であるかは詳しく書かない。

論点をずらされて、話の腰を折られるのはめんどくさい。

ただぼくは「内部取引」と「内部消費」は「伝道」ではないと

言葉の定義の問題を言ってるだけだ。

あとは、

この国の現状に満足している人は、たぶん「伝道」には向かない。

そう言いたいだけだ。

2013年6月24日月曜日

あの党の「センター」は鳩山さんだった


不謹慎かもしれませんし、的外れかもしれませんけど、

あの党の「センター」は鳩山さんだったんだと、ぼくはやっぱり思う。

前田さんが”卒業”したAKなんとかは、もうAKなんとかでないのと同様

鳩山さんが”卒業”した民なんとかは、もう民なんとかではないと思う。

「凋落」っていうかベツモノなんですよ、もはや。それがぼくの見方。

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社説:都議選自民圧勝 民主党の危機的な凋落
毎日新聞 2013年06月24日 02時31分
http://mainichi.jp/opinion/news/20130624k0000m070108000c.html


ぼくが「最終的に」守りたいもの

ぼくが「最終的に」守りたいものは何だろうかと、ここ何年も堂々めぐり。

で、結論はだいたい毎回同じ。といっても、うまく言葉にならない。

「日本語で日常会話と感情移入ができる時空が続きますように。」

「肩の凝らない普段着で気楽に歩き回れる時空が続きますように。」

なんか、いつもそんな感じのことです。その程度のことっていうか。

それさえ守れたら、あとはなんでもいいや、という投げやりな気分。

ブリリアントな世界の人たちの足を引っ張りたいわけじゃないけどね。

どーでもいいや。ほんと。ぶつぶつ。

「誰から勧められたわけでもない」のに「誰にも相談せずに」決めました

夕食後、気を失っていたのですが(ねてただけです)、

22時頃、電話で起こされて、

なんだか不自然な覚醒状態のまま、

ねむいような、ねれないような。

そういうときに書く文章はろくなものではないのですが、

あしたの朝にはもう忘れていそうなので

覚えているうちに書き遺しておきます(ゆいごん)。

考えてみれば、ぼくは

「誰から勧められたわけでもない」のに

「誰にも相談せずに」

決めたことが3回あるな、と気づきました。

それは

(1)洗礼を受ける決心(6歳)

(2)牧師という仕事をする決心(17歳)

(3)日本キリスト改革派教会の教師になる決心(31歳)

です(現在47歳)。

だから、ぼくは常に(過去の全人生において)

不安を抱えて生きてきました。

上記三つのことについては

「誰から勧められたわけでもない」ので(ホントです)

自分が「ふさわしい」かどうかが分かりません。

「○○さんが、○○先生が、

ぼくに○○を勧めてくださった”ので”

決心できました」

と語ることができません。

傲慢のキワミのような気がするんですよ、

「すべて自分で決めた」みたいな感じがして。

まあ、でも、人のせいにしなくて済む、という気楽さはあります。

だから、ぼくは感謝しています。

ぼくが洗礼を受けることと、

牧師という仕事をすることと、

日本キリスト改革派教会の教師になることを

ぼくに勧めて”くださらなかった”皆さまに感謝しています。

本当にありがとうございます。

2013年6月23日日曜日

教会の責任は重いものです


テモテへの手紙一5・17~25

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています。長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です、そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。」

こういう個所をどのように読むかは、本当に悩むところです。

パウロは非常に率直に書いています。ちょっとストレートすぎです。しかしそのことも、この手紙の宛て先がパウロの親しい後輩伝道者テモテであると考えれば、納得できます。ごく個人的な関係の中でのやりとりであることは明白です。

パウロとしては、このやりとりが自分が亡くなった後に公になるとは考えていなかったのではないでしょうか。しかも、それが新約聖書に収められ、二千年後の今でも読み継がれるものになるとは。

この個所でパウロが何を言っているのかを説明させていただきます。しかし、最初にお断りしておきたいことは、これは私の意見ではないということです。パウロの意見です。どうか誤解なさらぬようにお願いいたします。

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たち」(17節)というのは、御言葉と教えのためにがんばっている長老と、サボっている長老とがいるという話ではありません。

「御言葉を教えのために労苦している長老」とは、日本キリスト改革派教会における職務名で言えば、「教師」のことです。わたしたちの言うところの「宣教長老」です。「宣教長老」に対して「治会長老」がいます。治会長老がいわゆる「長老」です。

ですからパウロが書いているのは、「宣教長老」である「教師」は「二倍の報酬を受けるにふさわしい」ということです。ここで「報酬」とは、明らかに給料のことです。わたしたちの教会では「謝儀」と呼んでいますが、「給料」と呼んでも間違いではありません。

そのあとに続く「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という文章の意味は、牛は人間の畑仕事を手伝いながら畑のものを食べている、ということです。要するに、腹が減っては仕事はできない、という意味です。牧師の仕事も牛と同じである、ということです。

それを「二倍」受けるにふさわしいというのは、他の仕事に就いている人たちの二倍という意味だと思います。しかし、これは厳密な話ではなく、大雑把な話です。それは具体的にどの職業の人たちの二倍なのかとか、それは具体的に言うといくらぐらいになるのかというように、神経質に突き詰めるような読み方は間違っています。これは具体的な話というよりも、気持ちの問題ではないでしょうか。

また、この個所を読む際に重要だと思われることは、これを書いているパウロも、この手紙の宛て先であるテモテも「教師」であるということです。その教師同士が「ぼくたちの仕事は他の人の二倍の報酬を受けるにふさわしい」と言い合っているのですから、これは要するに愚痴です。実際に人の二倍の謝儀を受けとっているわけではなかった可能性のほうが高い。

先ほど私が「これは私の意見ではなくて、パウロの意見である」と申し上げたのは、パウロの権威を借りて私が皆さんに何ごとかを要求しているわけではありませんという意味です。

日本の教会の牧師たちの生活がいま非常に深刻な状態にあることは事実です。しかし今日の個所のようなところは、しかめっつらしながら読むような個所ではありません。教師たちは、愚痴をこぼしながらも、何とかかんとかやっています。

「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります」と書かれています。

この「長老」は、わたしたちでいえば宣教長老と治会長老の区別のない、両方を合わせた「長老」のことです。それは教会の運営責任者です。小会・中会・大会の人たちです。この人々は教会運営の全責任を負っています。「責任」という漢字は「責められることを任される」と書きます。責任者とは、内外からのいろいろな苦情や批判を聞き、重く受けとめ、改善する立場の人です。

たとえば、教会の中に問題が起こった。そのことを小会に訴える人が、小会自身の責任も同時に問うことがありえます。「牧師や長老たちがちゃんとやってくださらないから、こういうことになった」と言われます。それだけではなく、牧師や長老は教会の中では目立つ場所にいますので、長所だけではなく、短所や欠点がよく見える。批判の対象にされやすい立場です。

だからこそ、教会の中で長老たちに反対する訴えは、「二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません」という話になります。個人的な恨みが教会で公の問題にされるようなことがあってはならないということです。そういうことをしはじめると、教会が壊れてしまうからです。

「神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい」(21~22節)。後輩テモテに対する親心を感じます。

そして、次の個所は、なんと聖書の中に「お酒を飲みなさい」という言葉が明言されている(!)個所があるということで有名です。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(23節)。

しかし、この個所は変なふうに悪用されてはならないと思います。どんどんお酒を飲みましょうと、そのようなことをパウロが言っているわけではありません。また、ぶどう酒に病気(病名不明)を治す薬効があるのかどうか、また本当にそのような(ぶどう酒には薬効があるというような)意味でパウロが書いているのかどうかも分かりません。私は違うと思っています。

パウロが言いたいことは、教会の仕事はたいへんなのだから、あまり神経質にならずに大らかにやりましょう、お酒の少しくらい飲んでもいいんじゃないの、というくらいのことを言って、気分が沈みがちの後輩を励まそうとしている、ただそれだけではないかと、私は思う。そのくらいの、のんびりした言葉として読むくらいでちょうどよいと思います。

パウロが言いたいことは、教会の責任は重いということです。教会の責任だけが重いということではありません。また、牧師の責任だけが重いということでもありません。長老・執事の責任とか、小会・執事会の責任とか、そういうことだけでもない。一全体としての教会に与えられた責任は重いのです。

神が地上に教会をお立てになったのは、教会の存在と働きを通して、神御自身が働いてくださるためです。教会の働きが、神のみわざなのです。神は教会の働きを用いて、地上でお働きになるのです。

ですから、そのようにして神のみわざに参加する教会の働きは、光栄な職務であり、働きなのです。喜んで感謝して神に仕えることが、わたしたちにふさわしいことです。

じくじくと恨みつらみを言い、口を開けば愚痴だ批判だ、というのは暗い。

明るく楽しい教会、そして、公明正大な教会として歩んで行くことが、わたしたちに最もふさわしいことです。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日夕拝)

胸裂けるばかりに罪を悔い、キリストにすがれ


ローマの信徒への手紙3・21~26

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

最初に申し上げておきますが、今日の個所は非常に難しいところです。しかし、非常に大切な個所でもあります。この個所にローマの信徒への手紙の心臓があると言っても決して過言ではありません。この個所の難しさは、短い言葉で書かれていることに関係していると思われます。詳しく丁寧に説明する必要がある、奥深い内容を持つ真理が、簡潔な言葉で要約されているのです。

ですから、ご安心ください。さっぱり分からないとお感じになる方は御自分を責めないでください。パウロの言葉が足りていないのです。たくさんのことがぎゅっと詰まった言葉が書かれているのです。そういうふうに考えてくださって構いません。勇気づけられるのは、そのように解説している注解書があることです。「この個所は難しい」と書いています。だから、どうかご安心ください。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と書かれています。「ところが今や」という言葉に、パウロは深い意味を込めています。その意味を説明するために何ページも割いている注解書があるほどです。私自身には、それほど深い意味を読みとる力はありませんので、単純なことを申し上げておきます。

それは、「今」という言葉が一つの時間を表わす言葉であるとしたら、「今」と対比されるのは「昔」であるということです。あるいは「現在」に対する「過去」です。そのような意味での「昔」あるいは「過去」に対する「今」あるいは「現在」のことをパウロは書いているのです。

「過去」においてはどうだったのかについては、すでに学んだ個所に書かれていました。特に今日の個所に直接関係しているのは直前の次の御言葉です。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3・20)。

繰り返し申し上げてきたことですが、この手紙の中でパウロが「律法」と書いている言葉は、ほとんど「聖書の御言葉」という言葉で言い換えることができます。そのルールはここでも当てはめることができます。次のように言い換えることができます。「聖書の御言葉を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。聖書の御言葉によっては、罪の自覚しか生じないのです」。

このように言い換えますと驚かれる方は必ずおられると思います。「聖書の御言葉を実行することが間違っていると言いたいのか」と反発されてしまうかもしれません。その反発は、ある意味で当然のことだと思います。

しかし、「聖書の御言葉を実行すること」が間違っていると言いたいのではありませんが、「律法を実行すること」と結果は同じであると言わざるをえません。律法を実行することも、聖書の御言葉を実行することも、その結果として生じるのは罪の自覚だけだからです。

それは「やってみれば分かる」としか言いようがありません。聖書に書いてあることをそのとおりに実行してみてください。それで分かるのは、聖書のとおりに実行することは不可能であるということです。もしそれが不可能であることが分からないとしたら、その人は聖書のとおりに実行していないのです。

なぜ結果が同じになるのでしょうか。わたしたちが聖書の御言葉を実行しようとすると、罪の自覚が生じます。その自覚の内容は、書いてあるとおりを守ること、遵守することは難しいことであり、できないことであるということです。

なぜ難しいのでしょうか。なぜ不可能なのでしょうか。何か例を挙げてお話しすれば、少しは話が分かりやすくなるかもしれません。聖書の御言葉そのものでなくてもいいです。最も単純で簡単なことでもいいです。たとえば、「私は毎朝5時に目を覚まします」と誓いを立てるとします。その誓いを何があっても守る。自分が病気になろうと、家庭や仕事との関係で生活上の変化や困難が起ころうと、天変地異が起ころうと、自分で立てた誓いを自分で破ることができない。それを守り抜こうとする。

しかし、それは実際には不可能であるということはお分かりになるはずです。さまざまな悪条件が重なることは人生の中にはいくらでもあります。天変地異もある。家庭や仕事との関係で悩むことはいくらでもあります。どちらが優先されるべきかと選択を迫られ、苦しむことはいくらでもあります。

そして、その場合はどちらを選んでも、罪の自覚が生じることになるでしょう。自分の誓いのほうを優先すれば、家族や仕事を犠牲にしてしまったことに苦しむでしょうし、家族や仕事を優先すれば、自分の誓いを裏切ったことに苦しむでしょう。しかし、それがわたしたちの現実なのです。

今申し上げたことはほんの一例です。しかし、これだけでも、わたしたちにとっては「時間を守る」というような単純で簡単な誓いを守ることさえ難しいことであるし、できないことであるということをお分かりいただけるはずです。

しかし、まだ納得していただけないかもしれません。今あげた例は「自分で立てた誓い」であると言いました。しかし、聖書に書かれていることは、神との約束であり、誓いである。人間の誓いは、神との約束とは次元が違うことである。神との約束は絶対に破ってはならない。次元が違う話を持ち込んで一緒くたにするのはけしからん、というふうに叱られてしまうかもしれません。

しかし、そのことについても私は、結果は同じであると言わざるをえません。神との約束であろうと、人間の誓いであろうと、それをわたしたちは完璧に守ることはできません。できると思い込むこと自体が間違いです。なぜ間違いなのかといえば、そこには必ずごまかしがあるからです。「完璧」の意味を自分流に広げたうえで、「自分は完璧である」と言い張っているだけです。

そしてそれは、他人に厳しく自分に甘い生き方にもなっていくでしょう。それは考えれば考えるほど最悪の結末でもあります。パウロが書いている「律法によっては、罪の自覚しか生じない」というのが自分自身の罪の自覚であれば、まだましです。しかし、完璧主義的な生き方を他人に押しつけることをしてしまいますと、他人に罪の自覚を生じさせるだけで、自分は少しも悪くないと思い込むことにもなります。

自分には自分流の「完璧」でいいのだと、自分を甘やかす。しかし、それは聖書の基準からはかけ離れている。それでいて他人には聖書の基準の「完璧」を押しつけているだけです。そういうことをしはじめると、その人はもはや、他人を地獄の苦しみに突き落とすだけで自分は平気な顔をしている邪悪な存在でしかありません。

しかし、いまお話ししていることは、先週学んだ個所までに書かれていたことです。それは「昔」であり、「過去」です。「ところが今や」(21節)と、パウロは続けているのです。

「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)。この文章も難しいです。しかし、難しいのは複数の文章が入り組んでいるからです。理解可能な文章にするためには、入り組んだ複数の文章を切り離す必要があります。していただきたいことは、「しかも律法と預言者によって立証されて」という一文を隠して「律法とは関係なく」と「神の義が示されました」を続けて読んでみることです。

これでもまだ分かりにくいでしょうか。「律法(聖書と読み替えることができる)とは関係なく」とは、噛み砕いて言えば「聖書の御言葉を完璧に実行することによってではなく」ということです。

「神の義」という言葉の意味も説明する必要があります。これは神だけの話ではなく、神と人間との関係の話です。神とわたしたち人間との間の正常な関係のことを指しています。

正常な関係があるということは、異常な関係もあるということです。ノーマルに対するアブノーマルです。しかし、最初から異常な関係だったわけではありません。最初は、そして本来は、正常な関係でした。しかし、正常な関係が壊れました。人間が罪を犯して神に背いたときに壊れました。正常な関係が罪によって異常な関係になりました。しかし、その関係がもう一度正常な関係へと回復されること、これが「救い」です。その神と人間との正常な関係のことを、パウロは「神の義」と呼んでいるのです。

しかし、その「神の義」、すなわち神と人間との間の正常な関係が回復されることがどのようにして起こるのかという問いに対するパウロの答えは、わたしたちが「律法」、すなわち聖書の御言葉を完璧に実行するという方法によってではないというものです。それが「律法とは関係なく、神の義が示された」と言われている意味です。

そういう方法ではない、別の方法が神御自身によって備えられた。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)と書かれている方法です。

ここでご理解いただきたいことは、パウロの言う「イエス・キリストを信じる信仰」は、私が申し上げている意味での「完璧主義」とは対立するものであるということです。完璧主義がわたしたちを自由にすることはありません。完璧主義は、わたしたちを追い詰め、心も体も破壊します。

しかし、だからと言って私は、聖書を読まなくてもよいというようなことを申し上げているのではありません。聖書は読むべきです。聖書に書かれていることを完璧に守ることができなくても、聖書は読むべきです。しかし、この本を読むとわたしたちはどうなるのかといえば、この私がいかに神の言葉を実行することができないか、神との約束を守ることができないかを自覚することができるだけです。そのことを自覚できるまで徹底的に聖書を読み、聖書の御言葉を実行することが必要です。

しかし、それではわたしたちは、自分の罪を自覚した後、どうすればよいのでしょうか。罪を自覚したうえで開き直りなさいと言っているのではありません。自分の罪深さを胸裂けるばかりに悔いる必要があります。しかしそれは、「自分は駄目だ駄目だ」と自己卑下し、自分を責めるだけの憂うつな人生を送りましょうという意味ではありません。自分の罪を自覚するということは、この私を罪の中から救い出してくださる方(それが「救い主」)が必要であると自覚することです。

救い主であるイエス・キリストを信じ、すがる。それが新しい道です。それによってわたしたちは神との正常な関係に戻ることができます。そのとき神は、もはや怒っておられません。明るく笑っておられます。温かい笑顔でわたしたちを見つめてくださっています。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月21日金曜日

立教大学でのゲスト講義が来週に迫りました

本番まで一週間を切ったので、そろそろ告知します。

来週6月27日(木)と再来週7月4日(木)の

いずれも午後3時から、

立教大学(池袋キャンパス)で

鈴木昇司先生(立教大学)の講義シリーズ

「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」の

ゲストスピーカーとして

ぼくが講義させていただくことになりました。

立教大学の教養課程(宗教)の講義であるとのことで、

「文学部キリスト教学科」の学生さんたちだけではなく

いろんな学部・いろんな学年から集まるそうで

200人教室で行われている、とのことです。

ぼくは大学の教養課程どころか、

神学部・神学大学・神学校の講義すら、

いまだかつて行ったことがありません(招いてもらえません)ので、

47歳にもなっての未体験ゾーンへの突入を前にして、

今から緊張しまくっています。

そんな情けないぼくのために、お祈りください。

それだけで、しもべは満足です。

どうかよろしくお願いいたします。

立教大学講義「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」
http://wwwj.rikkyo.ac.jp/kyomu/gakubu/00zen/F00/006_0_1.html

2013年6月19日水曜日

教会堂で二つの小さな工事を行いました


これは教会堂の一階と二階をつなぐ「L型階段」です。

新会堂建築(2000年)以来、今まではなぜか外回りだけに手すりが付いていたのですが、「内回りにも手すりを付けてほしい」という要望がご高齢の教会員から出されましたので、取り付けました。

ずっと前から付いていたかのように馴染んでいます。

プロの仕事、さすがです。ありがとうございました。


これは教会堂の外側の非常階段です。

このたび頑丈な「門扉」を取り付けました。これまではありませんでした。

しょっちゅうというわけではありませんでしたが、たまに近所の子どもが、管理人(ぼく)が留守にしている間に、この非常階段を上り下りして遊んでいるのを見ました。

対策を考えていたところ、「門扉をつけましょう」という名案を出してくださった教会員がおられましたので、実現しました。

また、その名案を出してくださった方が「そのための献金は惜しみません」と教会の月報の投稿記事で明言してくださいました。

日本のほとんどの教会同様、わたしたちの教会には公的助成や他からの援助はなく、すべて教会員の献金で運営されていますので、とてもありがたいお言葉でした。

少しずつであっても教会の設備が整っていくのは感謝なことです。

ありがとうございます!

2013年6月16日日曜日

わたしたちの体は自分の思うように動きません


ローマの信徒への手紙3・9~20

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。この手紙の1章18節から今日お読みしました3章20節までの個所にパウロが書いていることのほとんどすべては、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人である、ということです。それ以外のことは言っていないと断言できるほどです。

ユダヤ人がどうした、異邦人がどうした、という話は出てきました。しかし、それらの話題の結論は、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人であるということに尽きます。

最初に少し、これまでのおさらいをしておきます。「ユダヤ人」と「異邦人」の区別は、聖書の御言葉を神からゆだねられているかどうかという点にあります。幼い頃から聖書を学んできた人のことを「ユダヤ人」と言い、そうでない人のことを「異邦人」と言うのです。

聖書を学んだことがない異邦人は、神の御心は何であるかということを、聖書という書物を通して、その中に書かれている文字を通して確認したことがあるわけではないので、それはある意味で、神の御心など全く知る由もないという立場にあると言ってもほとんど間違いないわけです。

しかし、パウロはその異邦人に対しても、厳しい態度をとります。聖書を読んだことがなくても、神の御心を書かれた文字で確認したことがなくても、わたしたち人間は神から良心を与えられているので、たとえおぼろげではあっても善悪の判断くらいできる、とパウロは主張します。聖書を読んだことがないから、神の御心など知らないから、だから善悪の判断ができなかった。私は知らないうちに罪を犯してしまいましたなどという弁解は全く成り立ちようがない、と言っているのです。

聖書を読んだことがない異邦人に対してさえこれだけ厳しいのですから、聖書をいつも学んでいるユダヤ人に対しては、パウロは容赦ありません。聖書を知っている人たちに、善悪の判断ができないはずがないからです。それなのに、彼らは罪を犯し続けている。彼らは、知らないうちに罪を犯しているのではなくて、それがいかに罪深いことであるかを十分に知った上で、あえてその垣根を越えて罪を犯している。「確信犯」とはまさにそのような人のことを言うのです。

しかし、そのような状態にあるユダヤ人たちが自分たちの立場を弁護し、かつ異邦人に対する自分たちの優位性を主張するために、自分たちは聖書の教えに忠実であるということを示すための「割礼」を受けていることをひけらかす。しかしパウロは、外見上の割礼などどうでもよいものであると言います。神が問題にされるのは、わたしたち人間の内面です。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・29)と書いてあるとおりです。

このようにしてパウロは、ユダヤ人と異邦人の両方の問題を取り上げて、両方とも罪深いと言っています。どちらのほうがより罪深いだろうかと問うことは難しいかもしれません。しかし、先ほどもちょっと触れましたが、知らずに犯す罪と、知っていて犯す罪とでは、どちらのほうが悪意性が強いかということは考慮に値することです。悪意というのは心の中の事柄ですので、体の外からはっきり見えるものではありませんが、いろいろな仕方で証拠を見つけていくことは可能です。

しかし、そうは言いましても、わたしたちは、まさか毎日毎日、凶悪犯罪を実行に移しているわけではありません。そのようなことをしながら、日常生活をごく普通に平凡に送っていくことは不可能です。凶悪犯罪をもてはやす意図はありませんが、あれは一つの仕事です。用意周到な計画性なしには決して成し遂げることができません。平凡な日常生活を犠牲しなければ実行不可能です。その意味でも、わたしたちは普通の生活をしているかぎり、凶悪犯罪を行うことは無理だと思います。

「あなたの存在そのものが罪である。あなたには生きている価値もない。いまただちに生きるのをやめて死になさい」。そのような激しい罵声を常に浴びせられ続けなければならないほどの罪をすべての人間が抱えているというようなことではありません。私は今、そのような話をしているのではありませんし、パウロもそのようなことまで書いているわけではありません。

もし百歩譲って、そういうことをパウロが書いていると考えなければならないということを客観的に認めざるをえないことになったとしても、だからといって、あなたは罪深い存在である。それゆえ、あなたは生きること自体、存在すること自体を否定されなければならないというようなことを言われなければならないのは、だれか特定の人ではなく、すべての人間であると言わなくてはなりません。

いま申し上げていることの意味は、わたしたちは今日の個所のパウロの言葉を用いて自分以外の誰かを批判することはできません、ということです。すべての人間の中には、あなた自身も含まれているからです。私もあなたも、すべての人も、神の前で「私には罪がない」と言い張ることはできない、ということをパウロは述べているのです。

そのことをパウロは改めてはっきりした言葉で書いています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない』」(9~10節)。ここでパウロが引用しているのは、旧約聖書の詩編14編です。

パウロが詩編14編を引用している理由は、書かれていません。しかし、この引用によって分かることは、すべての人間が例外なく罪人であるという思想は旧約聖書の時代からすでにあり、かつそれが新約聖書に受け継がれたものでもあるということです。そしてこの聖書の教えをキリスト教会も受け継いでいます。すべての人間は例外なく罪人です。しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招いてきました。そのことをわたしたちは聖書に基づいて告白してきたのです。

しかしまた、私はここで、いくつか別の視点から考えておかなければならないことがあると思っています。そのことを申し上げますと、私の話がかえってややこしくなってしまうかもしれませんが、それはやむをえないことです。

パウロが書いているのは、すべての人間は例外なく罪人であるということです。しかし、それは決して単純な話ではありません。非常に複雑な話です。このことについて単純な結論を出してしまうことができるのであれば、パウロはこの手紙を長々と書く必要はなかったでしょう。3章20節までで終わりにすればよかったでしょう。しかし、この手紙は16章まで続きます。それはパウロが人間の罪について、まだ書くことが山ほどあると考えていた証拠であると言えます。

そして、ここでわたしたちが考えなければならないことは、すべての人間が例外なく罪人であるという聖書の教えは、わたしたちにとって慰めの言葉ではないということです。

それはどういう意味か。すべての人が罪人であるならば、どうせみんな同じなのだから、わたしたちは自分の罪を避けがたい運命としてとらえればよい。そこから逃れることができる人は誰もいないのだから、せいぜいお互いの傷を舐め合うか、お互いに慰め合うか、お互いの足を引っ張り合って生きていけばよい。そのようにして、みんなが罪にまみれた生活を続けていけばよい。これは完全な開き直りです。

しかしパウロは、そういう結論を考えているわけではありません。すべての人間は罪人であるという聖書の教えを、わたしたちはそのような考え方のために悪用してはならないのです。

実際問題としてわたしたちは、罪の状態のままでとどまっていて、よいことは一つもありません。やはりわたしたちは、その状態から救い出されなければなりません。だれかと自分を比較して、自分のほうがまだましだと分かったところで、わたしたちがまだ罪の中にとどまっているなら問題は解決していません。パウロはわたしたちを罪の中にとどまるように導こうとしているのではないのです。

言わなければならないことは、まだあります。パウロが詩編14編から引用していることについて、先ほど私はこれが旧約聖書の教えであり、新約聖書とキリスト教会が受け継いでいると説明しました。それはそのとおりです。しかし、誤解しないでいただきたいのは、わたしたちが罪人なのは、聖書と教会がそのように教えているからそうである、というふうな事情であるというわけではない、ということです。

それはどういうことか。わたしたちは本当は罪人ではないのに、聖書と教会がわたしたちに一方的に無理やりそのようなレッテルを貼っているだけだ、ということではないという意味です。大したことでもないことを聖書と教会がやたらと大げさに言い立てて、わたしたちに罪の濡れ衣を着せようとしている、とかなんとか、そんなふうに思われると困るのです。

それは順序が逆です。正しい順序は、聖書と教会がそのことを教えるよりも前から、わたしたちは罪深かった、ということです。わたしたちは教会に通い、聖書を読むよりも前からすでに、しなければならないことをせず、してはならないことをしてきたのです。しかし、わたしたちは聖書を読むことによって、それに気づかされたのです。自分の罪を自覚したのです。

今日の個所の最後に「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)と書かれています。ここでも「律法」とは聖書のことです。聖書を読むと、わたしたちは神の前でいかに罪深いかを自覚させられます。なぜなら「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」(20節)。

今日の説教の題に「わたしたちの体は自分の思うように動きません」と書かせていただきました。その意味は、わたしたちは良いことをしようとしても、わたしたちの心の中の罪が邪魔をして罪深いことをしてしまう、ということです。

この手紙の中のもう少し後に出てくる言葉を先取りしていえば、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7・18)ということが、わたしたちの身に起こるのです。

この矛盾した状態からわたしたちは救い出される必要があります。その突破口は、イエス・キリストを信じる信仰であるとパウロは続けます。この続きは次回お話しいたします。

(2013年6月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月14日金曜日

「(笑):カッコワライ」とか書かなくても笑顔が見える距離でいられるなんて恵まれたことですよ


二泊三日の大会役員修養会が終わりました。

毎年恒例の日本キリスト改革派教会の教師・長老の研修会。

会場は静岡県浜松市。浜名湖畔の「カリアック」。

残念ながら、今秋閉館だそうです。来年からは別の会場(未定)です。

ところで。

弱音を吐くのは得意です。みっともないけど、しょうがない。

ほんとに楽しかったです。安心しました。

ずっと続けばいいのに、と思いました。

優しくて、親切で、誠実な人たちの、真摯で活発な対話と討論。

ぼくの生きている世界のすべての人がこうであればいいのに、と。

インターネット要らないな、と。

ああ、日本キリスト改革派教会は素晴らしい。

ですが。

ぼくはまた、現実に引き戻されました。

インターネットが必要な現実に、です。

まあ、仕方がない。フカイタメイキ(ふはぁぁぁ...)。

心にもない「いいね」も

芝居がかった「いいね」も

悪意ある「いいね」も

なるべく(なるべく?笑)押さないできたつもりです。

どうせ押すなら、心のこもった「いいね」を押したい。

いま書いてることはみんなジョークですけどね。

「(笑):カッコワライ」とか書かなくても笑顔が見える距離でいられるなんて

恵まれたことですよ。

まあ、でも、ぼくらの人生に恵みは少ないほうがいいかもしれない。

恵みありすぎると、麻痺状態で、かえって文句ばっかり言ってるとかね。

たまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーの恵みが、ありがたい。

一年一度の「うなぎパイ」とかね。

あ、買うの忘れちゃった。うなぎパイ。

2013年6月11日火曜日

ファン・ルーラーを尊敬する理由

「新約聖書は旧約聖書の巻末語句小辞典にすぎない」

「終末においてイエス・キリストは受肉を解消する」

「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」

どれも60年くらい前(1950年代~60年代)のファン・ルーラーの発言です。

失言や軽口やジョークではありません。

用意周到に、神学的に徹底的な熟考を経たうえで語られたものでした。

しかし、当時はずいぶん叩かれたようです。

まあ、仕方ないですね。

彼はもちろんこれらのことを意図があって言っています。

ある特定の言説に対する明確な批判をこめて、これらの命題を主張しました。

60年前のオランダにインターネットがあったら、

ファン・ルーラーのブログやツイッターは

しょっちゅう「炎上」していたことでしょう。

最近は「炎上ビジネス」というのもありますね。

でも、ファン・ルーラーは、その種の悪どい仕掛け人ではありませんでした。

1970年12月に62歳で亡くなりました。生前は神学者としては孤立無援でした。

でも、今は違います。

今では、オランダでは20世紀の「三大」神学者の一人と呼ばれています。

「炎上」や孤立を恐れず、真理を追い求め、揺るがなかったからではないか。

ぼくはこういう人を尊敬します。オランダにかぶれているのではありません。

2013年6月10日月曜日

医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ

医薬品のインターネット販売については、全面解禁でいいと思いますよ。

一般市民としては、とにかく安きゃいいんですよ。

不況の中、どれだけ追い詰められた生活をしているか、分かってるんでしょうかね。

医者も薬局も、病院も製薬会社も、その人たちの利益を守って来た政治家たちも、もう十分すぎるほどもうけたでしょ。これ以上どれだけもうけたいんでしょうかね?

もうけてもうけて、持ってない人間を見くだして。なにが楽しいんでしょうかね。

要らない医者とか、要らない薬局とか、少し淘汰される必要もあるんじゃないでしょうかね。

そりゃおカネ持っている人は長生きするでしょうよ。手厚い医療と、手厚い看護を受けられますからね。

そういう人たちだけが特権的に生き残る社会になっていくことがお望みなら、まあ別にそれもいいんでしょうけどね。

でも、上の人たちだけが生き残った社会は、競争もっと激しくなりますよ。

「下には下がいる」とか言いながら、下の人たち見て、見くだして、慰められることなんて、無くなりますよ。

ほんと、たいへんですな、上の人たちは。

ぼくらは、早く死ねますよ。ありがたや、ありがたや。

自主オフ日は「自叙伝ツイート」

「自叙伝ツイート」と呼んでおきます。とくに脈絡はありません。

だけど、逆に言わせてもらえば、

ソーシャルで「自分のこと」を書くのを自主規制してしまうと、

書けること何が残るんだろ?と思いますけどね。

個人情報保護の観点からいえば、自分以外の人について、めったなことは書けない時代です。

唯一残るとしたら「公人の批判」かな。だけど、それだけに限定した使い方というのも味気ない。

というわけで、今日は自主オフ日です。気分はかなり逃避気味。デトックス。

自己中で申し訳ありません。

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関口 康 @ysekiguchi
ぼくは相当すきま人生だと思ってきたけど、すきまの探し方に二種類あるとふと気づきました。その区別を字にするのは難しい。従来「ノーマル」とされてきた領域の外にすきまを見つける人もいるけど、ぼくはそうじゃない。月並みだけど「灯台下暗し」。陳腐すぎて誰も寄りつかないからすきまの宝庫です。

関口 康 @ysekiguchi
こういうの書くと、心理学とかやってる方には、ぼくの性格や背景などをすぐ見抜かれちゃうのかもしれませんが、ぼくは子どもの頃からほとんど常に、修学旅行とかに行くと、最後の一人が寝落ちするまで起きて話し、いちばん最後に寝るタイプでした。それが何を意味するのかは、ぼくには分かりません。

関口 康 @ysekiguchi
「根拠のない自信をもっていて、どうにもならないくらい高慢臭を放っているんだけど、生き方はヘタで行き当たりばったりな人」か、それとも「物腰ソフトなベビーフェイスで近づいてくるので軒先を貸すと戦術的・戦略的に根こそぎ母屋をもって行く人」か、どちらか選べと言われると、う~んどっちかな。

関口 康 @ysekiguchi
数ページならともかく一冊の本を翻訳するとなると、切れ目ない数週間・数か月の「作業に没頭できる時間と空間」が不可欠と痛感。毎週日曜日の説教をしている牧師は、翻訳は定期的に中断せざるをえない。両立できる人は、脳内の「メモリ」のサイズが相当大きいのでしょう。ぼくはすぐ固まっちゃいます。

関口 康 @ysekiguchi
質問を受けたのでそれに答えるべく話しはじめると、ぼくが話しはじめた途端、チラチラ時計を見る人がいる。それも一人二人ではなく、けっこういるような気がするので、質問を受けるたびに「もう答えまい」と決意する。ぼくの答え方が悪いんでしょうけど、そんなにつまんない?(汗)

2013年6月9日日曜日

世界は激しい不条理で満ちています


ローマの信徒への手紙3・1~8

「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」

今日もまたローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に書かれていることを一言でまとめるのは難しいです。まるで目の前にいる人たちと対話しているかのような書き方です。原稿などは書かないで、全くのアドリブでフリートークをしているようです。話の筋があっちに行ったりこっちに行ったりしています。

それはもちろん、一つの可能性ではあります。しかし、私だけの感想ではありません。私以外にも今日の個所にパウロが対話している姿を見出している人はいます。一つだけ証拠を挙げておきます。それは、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(1~2節)以下にパウロが書いているくだりです。

「あらゆる面からいろいろ」というのは文字通り「たくさんのこと」という意味しかありません。しかし、これが面白いことになっています。パウロは、ユダヤ人の優れた点をたくさん指摘できますと言いながら、実際に指摘しているのは一つの点だけです。「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」というこの点だけです。第二や第三の優れた点を探しても見つかりません。

たくさん言えますよ、と言いながら、一つのことしか言っていません。こういうのは、原稿として書くとまずい文章であることに気づきます。しかし、もしパウロが、原稿なしのフリートークをしていると考えることができるなら、こういう矛盾は大目に見ることができます。

本当にパウロは、ただ一つのことしか言っていません。ユダヤ人の優れた点は、彼らに神の言葉がゆだねられたことにあります。神の言葉とは聖書の言葉です。彼らには聖書があります。その証拠は、彼らが割礼を受けていることです。彼らは聖書の御言葉に基づいて割礼を受けました。これは先週の個所に書かれていたことの繰り返しです。

しかし、彼らは割礼という外見上のしるしを持っているにもかかわらず、彼らの内面において神に背いている。罪を犯している。それでパウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・28~29)と書いたのです。

ですから、この「内面がユダヤ人であること」が「神の御言葉をゆだねられている人であること」と同じ意味になります。逆の順序で言えば、神の御言葉である聖書の教えに忠実に従って生きている人々こそ「ユダヤ人」と呼ばれるにふさわしい人々であるとパウロは言っています。しかし、現実のユダヤ人はその意味での「ユダヤ人」ではないと言っているのです。

しかし、そうしますと、その次に必ず問題になることがあることをパウロは知っています。それは、ユダヤ人に聖書の御言葉をおゆだねになった神は、彼らが神に背く者になるであろうということを、あらかじめ見抜くことがおできにならなかったのか、という問題です。つまり、責任の所在は聖書の御言葉をゆだねる相手を選び間違えられた神の側にあるのではないのか、という問いです。

そのような問いが人々の心の中に浮かんでくるということはパウロには分かっていました。そのあたりのことを取り上げているのがパウロの次の言葉です。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない」(3~4節)。

ここでパウロが「神の誠実」と言っているのは、神がユダヤ人に神の御言葉である聖書の御言葉をおゆだねになったことを指しています。神は、御自身の御言葉をおゆだねになった相手である人間を信頼されるのです。ユダヤ人なんか信じられるかと、はなから疑い、ばかにし、斜めから付き合うというようなことをなさらず、彼らをどこまでもまっすぐに見てくださり、信頼してくださり、どこまでも誠実に向き合ってくださったのです。結果的にユダヤ人は神に背いて生きる者になりました。しかし、それはユダヤ人を信頼した神のせいなのか、つまり、神が悪いのか、神がばかなのか。そういうふうに言うことはできないはずであると、パウロは言っているのです。

もちろん、悪いのは「ユダヤ人」のほうです。神の御言葉をゆだねられるほどに神から信頼されているのに、その神を裏切ってしまう、そういうことになってしまう人間が悪いのです。信頼した神の側が悪いという理屈は成り立ちません。そのあたりのことをパウロは次のように言っています。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)。

なぜ神が悪いという話になってしまうのでしょうか。裏切るのは人間です。罪を犯すのは人間です。しかし、わたしたちはついそこで自己弁護をしたくなります。次のようなことを考えはじめてしまいます。

「だって、神さまなのでしょう。神さまが人間をお造りになったのでしょう。そうであれば、もし神さまが人間に罪を犯してもらいたくないのであれば、そもそも人間を、罪など犯すことができない存在にお造りになればよかったではありませんか。しかし、そうはなさらず、人間を、罪を犯すことができる存在にお造りになったのは、神ではありませんか。だったらやはり、人間をそのような者としてお造りになった神が悪いのである。我々のせいにされても困りますよね」とかなんとか、

そういうふうに、どこまでも自分の罪の責任を神になすりつける屁理屈をこねることになるでしょう。

しかし、それは違うと、パウロは言いたいのです。その理屈はおかしいです。完全なる責任転嫁です。そのような理屈がまかり通るならば、人はどんどん罪を犯すようになるでしょう。

「私が罪を犯したのは私のせいではありません。神が私のことを、罪を犯さざるをえない人間にお造りになりましたので、私は罪を犯しているのです。わたしたちが罪を犯すことは、神の御心なのです。だから、罪の責任は神さまがすべてとってくださいます。私のことを責められても全くのお門違いです」とかなんとか、

こんなふうな話になっていってしまうでしょう。

このような責任転嫁の論理をあやつって人が罪を犯すことを是認し続けようとする人間の心の中の悪連鎖を、パウロとしては何とかして断ち切ろうとしているのです。そのことを、声を大にして訴えているのです。それが今日の個所に書かれていることの主旨です。

続く個所に書かれていることも、内容的には同じことの繰り返しです。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょうか。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

ここで言われていることを理解するのは少し難しいかもしれませんが、丁寧に考えれば理解できると思います。

罪を犯した人間に対して、神はやはり、怒りを発せられるし、裁きを行われるのです。もしそうでないならば、神は人間が罪を犯すことを見て見ぬふりなさっていることになり、事実上、罪を犯すことを許しておられることになります。そうなりますと、神はいわば人間と共犯者であるということになってしまいます。それは結局、「やはり悪いのは神である。神がばかなのである」という話になってしまいます。しかし、そういうことはありえないでしょうと、パウロは言いたいのです。

しかし、それでは、人間はなぜ罪を犯すことができるのでしょうか。先ほども触れましたが、もし神が人間を、罪を犯すことが不可能な存在にお造りになっていれば、不可能なことを可能にする人間が一人もいなければ、この世界に罪など無かったのではないか、という理屈に対して、わたしたちはどう答えればよいのでしょうか。

ここから先は、非常に謎めいた部分に立ち入ることになります。神はなぜ人間を、罪を犯すことができる存在に創造されたのでしょうか。もし神がそのような者として人間を創造なさらなかったら、殺人も戦争もない、罪も悪もない世界になったかもしれないのに。これを世界の不条理の問題と呼ぶことができるかもしれません。

聖書はこの問いかけに、はっきり答えを出してくれているようでもあり、そうでないようでもあります。しかし、とにかく一つだけははっきりしています。それは、神は人間を機械仕掛けのロボットや、全く意志を持たない操り人形のような存在としてお造りになったわけではない、ということです。

石(いし)には意志(いし)はないと思います(だじゃれを言っているのではありません)。しかし、人間には意志があります。神は人間に意志を与えてくださいました。それでは、なぜ神は人間に意志をお与えになったのでしょうか。

神の願いは、わたしたち人間が自分の意志を用いて、自由に喜んで感謝して神の御言葉に従う生き方を選びとってほしいということです。「せざるをえない」から神に従うのであるとか、「させられている」からしているとか、そういうことではなく、自発的にうれしそうに従ってほしいのです。

そのように神が人間に願われたことに、わたしたちは感謝すべきです。この私を、全く意志のないロボットや操り人形のようなものではない存在として造ってくださった神にわたしたちは感謝すべきです。しかし、その感謝を忘れて懲りずに罪を犯してしまうのがわたしたち人間でもあります。

ここまで言ってもなお、屁理屈極まりないことを言い出す人がいることも、パウロは知っています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしは罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(7~8節)。

何を言っているのでしょうか。意図は次のようなことです。神が人間を信頼してくださっていることが「神の誠実」であるというならば、神の信頼を人間が裏切り続け、罪を犯し続けることによって「神の誠実」が際立つことになるでしょう。だったら、神さまが誠実な方であることを際立たせるために、わたしたちはどんどん罪を犯しましょう、という話です。

これは完全に、話のすり替えです。お話になりません。

(2013年6月9日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月7日金曜日

「第10回 カール・バルト研究会」(ニコ生神学部で生放送)は無事終了しました!(動画あり)

「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は

無事終了しました。

「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!

(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063

(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766

※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。

「第10回 カール・バルト研究会」報告(ニコ生神学部生出演)

「第10回 カール・バルト研究会」(グーグルプラス ハングアウト)は

無事終了しました。

「ニコ生神学部」で生放送を視聴してくださった皆様に感謝いたします!

(動画 その1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140685063

(動画 その2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv140691766

※視聴するには「ニコニコ生放送」のアカウント(無料)を取得していただく必要があります。

「デフレか、リフレか」と言われても「はぁ?」なぼくです


これは昨夜の食事です。

妻(保育士)は保育園の夜勤。三人で食べました。

用意したのはぼくですが、自作してません。すいません。

サラダ以外はスーパーのお総菜です。

サラダもすでに千切りされているパックものです。

ぼくがしたのは、トマトを切ったことだけです。

おっと、とんかつも切りました。ソースかけた。

経済学は分かりません。

「デフレか、リフレか」と言われても「はぁ?」です。

でも、そうね、

ものが安いと、自作が億劫になるかもしれませんね。

モチベが上がらないです。

2013年6月6日木曜日

日本に「宗教ブーム」が起こってもキリスト教への順風にはならないだろうと痛感する今日この頃です

ぼくが最近、痛感(?)していることは、

もし仮に、21世紀の日本で「宗教ブーム」なるものが起こっても、キリスト教への順風にはならないでしょ、ということです。

何十年か前までのヨーロッパの教会のように税金(教会税)で支えられてきたのではない、

信者の純粋に自発的な参加によって営まれる教会形態をもつ、

アメリカ経由の日本教会は、

その歴史のほぼ初めから、一種の自由競争原理が事実上持ち込まれた形で営まれてきたわけですから、

ブームが来ると、必ずや「勝ち負け」が問題になりはじめる。

だけど、この自由競争原理における「勝敗」という事の決め方が、どうにもこうにも教会にそぐわない。

うちの教会の年間予算規模はいくら、会員数いくら、教会の歴史何年。

ぼくらは上から何番目。

だから、何?

そういうこと言わなきゃ、まだいいんですけどね。互いが互いを尊重しあう自由選択原理ならば。

でも、そういうふうにはなりにくいですよね。数字はリアル。無視はできない。

「それは宗教です」というのが、今ではほとんど悪口の意味でしか言われなくなっていることを、ぼくはやっぱり悲しいと思っています。

教会というかキリスト教が「宗教」というラベルでカテゴライズされることには釈然としないものが、ぼくにもあります。

でも、その思いはたぶん、

仏教や神道やその他の教義・教説とはクオリティが違うので、というような(鼻もちならない)発想から出ている可能性があります。ぼくの場合は、です。

「宗教じゃない」と言ってみたところで、じゃあ何なのかと、看板をいろいろ掛け替えてみても、

結局、仏教や神道、あるいはイスラム教やヒンズー教と同じあるいは近接したラベルを貼られることになるだろうと思います。

オランダの大学の例で言えば、

やってることは結局「神学部」と同じだと思うんですけど、

faculteit van godgeleerdheid(神学部)のgodgeleerdheidは「宗教」(religie)の意味でもあるので、

キリスト教以外の宗教も含めた「宗教学部」になりました。

それは19世紀くらいの話です。

20世紀になると、事実上同じ内容のことをlevens- en wereldse beschauungen(人生観・世界観)とか呼び替えてみたり、

さらに最近では、geesteswetenschap(精神科学)をやってます、というような看板の掛け替えをやっているところもあるようです。

でも、発想の根本は古代からほとんど変わっていないので、なんだかな、と忸怩たる思いが残り続けます。

「宗教ブーム」が眉唾ものだと言いたいのではありません。

キリスト教への順風にはならないでしょと、上に書いた文字どおりのことを、ただ考えているだけです。

2013年6月5日水曜日

大学の教壇にゲストで立たせていただけることになりました


どうなることやら予測がつかないので、成り行きに任せていました。

いえ、その、まあ、今年度の(やや個人的なほうの)予定の話です。

PTA関係の活動はすべて引退。大会は無役。中会もわりとのんびり。

今月末と来月初めの2回、

人生初の(そして最後の)大学の教壇にゲストで立たせていただけることになりました。

あとはじっくり腰を据えて、ローマの信徒への手紙の連続講解説教でしょ、

そしていよいよファン・ルーラーの翻訳だなあ、と思っていた...

...のですが、

う~ん、ちょっと方向が変わって来たかも。

今年の後半も楽しくなりそうです。

(でも気が重い。うぅ)

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2013年6月4日火曜日

「今の日本ではキリスト者だからという理由で迫害されることはない」のですが


「今の日本ではキリスト者だからという理由で迫害されることはない」という言葉は、人口に膾炙していると思うし、ぼくもまあ、たまに言います。

で、そういう言葉を口にしているときのぼくたちは、だいたいちょっとヘラヘラ笑っている。

それが悪いわけではない。

ですが、どう言ったらいいのか、表現しにくいのですが、なんとも言えない違和感が、いつもつきまといます。

「人畜無害ですね」と言われているのとほぼ同義語だよな、と思うのに。

「あなたがたが何を言っても、何をしても、大勢に影響はありませんね」と見られていることを意味しているんじゃないかなと思うのに。

「まあ、今ぐらいの程度でやめといてね。それ以上になると叩くからね」と、ほとんど無言で警告されている面もあると思うのに。

まあ、人畜無害ですよ。大勢に影響ない。各個人の心の中の、密やかな趣味の範囲内。

でも、そこでなんとなくヘラヘラ笑ってしまう、ぼくたちのその顔が、ちょっとだけ悔しい気がしなくもありません。ぼくはね。

真剣でないという意味ではないんですけどね。真剣にヘラヘラ笑っている?という感じですかね。

あくまでもぼくの感覚です。

言い方を換えれば、今の日本でキリスト者や教会が迫害を受けないのは、今のまま放置しておいてもこの国を動かす力にはなりえないと思われているからじゃないでしょうか、という意味です。

Facebookのお友達が紹介しておられたので知りましたが、この国の「宗教分布図」は参考になると思います。

この分布状況は、これから100年経っても200年経っても変わらないだろうと思われているから、日本では今のところ迫害もされない。

今でも教会が迫害を受けている国や地域は、教会を放置するとその国を変えてしまうのではないかと思われているから、迫害を受けている。

違いますかね。

迫害は無いほうが、それは有難いし、助かります。

ですが、「かすりもしない」と思われている状態で(ヘラヘラ)笑っているのもどうなんだろうと考え込んでしまった、朝っぱらから憂うつな書き込みでした。

2013年6月3日月曜日

クレムリンの夜景を見ながら

クレムリンの夜景を見ながら

「悲愴」第2楽章を聴いている

電池が切れた牧師がひとり

ぼく、なんで泣いてるんだろ?




【ネタバレ】

今夜、ベートーベンの「悲愴」の第二楽章を聴いて涙が出たのは本当です。

でも、You Tubeの動画ではなく、ほぼ毎日、教会にピアノの練習に来ている、長男の友人(高3)が練習していた「悲愴」第二楽章を聴いてのことです。

急に胸に迫るものがあり、感動しました。

この曲の魅力もさることながら、練習している彼のひたむきさを感じて、ぐっと来ました。

2013年6月2日日曜日

外見と内面は分裂しやすいものです


ローマの信徒への手紙2・25~29

「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはストレートです。「割礼」の話をしています。割礼はユダヤ人の男性が生まれてすぐ受けるものです。それはユダヤ人であることの外見上のしるしです。

しかし、パウロは言います。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(25節)。これはどういうことでしょうか。ユダヤ人が割礼を受けることの意義は、割礼を受けなければならないと聖書が命じているとおりを行っていることを示すことにあるのであり、つまり聖書の教えに忠実であることのしるしであるはずである。ところが、実際の彼らはそうではないと、パウロは言いたいのです。

彼らは聖書の教えに忠実でない。至るところで違反し続けている。彼らの心の中は神に背く思いでいっぱいである。それなのに、彼らは外見上のしるしを持っていることを誇りにする。まるで自分は世界の中で最も聖書の教えに忠実であるかのように言う。しかし、実際はそうではない。もし彼らが聖書の教えに忠実でないならば、外見上のしるしは無効である。割礼を受けていないのと同じである。そのようにパウロは言いたいのです。

彼は逆のことも書いています。「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の言葉を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから」(26~27節)。

割礼を受けていない人とは、ユダヤ人以外の人を指しますので、異邦人です。それは生まれたときから聖書に基づく宗教教育を受けるというようなことをしていない人です。両親または片親が、聖書の宗教とは異なる宗教を持っていたとか、あるいは何の宗教も持っていない人であり、子どもの教育において聖書の宗教の立場に立つということをしたことがなく、子どもたちもそのようなことを教えられたことがない。そして、割礼というような外見上のしるしを持っていない人、それが異邦人です。

しかし、たとえ、生まれにおいても育ちにおいてもそのような経験が全く無かったような人でも、聖書の教えを学ぶことはできます。そして、聖書に示されている神を信じ、神の教えに従って生きる決心と約束をし、そのような生活を始めることができるし、続けることができます。そういう人たちは、実際には割礼を受けてはいないけれども、神の目から見れば、事実上割礼を受けているのと同じ扱いを受けて然るべきでしょうとパウロは言いたいのです。かなり過激な言い方でもあると思います。

しかも、パウロは、とくに異邦人が割礼を受けるべきかどうかという問題については一家言持っている人でした。そのことが使徒言行録の15章に記されています。パウロのいわゆる第一回伝道旅行が終わった後、エルサレムで世界初の教会会議が開かれました。そこに集まったのは使徒たちでした。その会議にパウロも出席しました。

パウロとしては、異邦人たちにキリスト教を宣べ伝え、その人々がイエス・キリストを信じ、洗礼を受ける決心と約束をし、教会生活を始めた場合、その人々にそれ以上の負担をかけてはならないと考えていました。

ところが、そのパウロの考えに反対する人たちがいました。彼らの主張は、異邦人が洗礼を受けてキリスト者になった場合、その人はさらに割礼を受けなくてはならないというものでした。そうでなければ不十分である、洗礼と割礼はワンセットであると彼らは考えました。

なぜ彼らがそのように考えたのかは、はっきりとは分かりません。しかし、一つ思い当たることがあります。わたしたちが教会で受ける洗礼は、わたしたちの外見上のしるしにはならないという問題です。

西暦一世紀の教会の洗礼は、いまわたしたちの教会で行っているような形式とは異なるものでした。わたしたちの洗礼はいわゆる滴礼と言い、頭の上に少量の水を注ぐだけです。しかし、西暦一世紀の教会の洗礼は浸礼と言い、実際の川に行って全身を水に浸すというようなやり方でした。現代の教会の中にも、西暦一世紀の教会のやり方にならって、浸礼を行っている教会もあります。しかし、日本キリスト改革派教会で浸礼を行っている教会があると聞いたことはありません。

しかし、滴礼にせよ浸礼にせよ、それを受けたからといって、わたしたちの体に外見上のしるしが残るということはありません。もしかしたら、西暦一世紀のエルサレム会議の中でパウロに反対して、洗礼だけでは足りない、割礼を受けなければならないと主張した人たちは、そのことを嫌がったのかもしれません。

洗礼は外見上のしるしにはならない。そうだとすれば、もし迫害を受けた場合、私は神など信じていないし、教会になど通っていないと、言い逃れることができるかもしれない。自分の都合で、自分の信仰を隠すことができるかもしれない。

しかし、もし彼らが洗礼だけではなく割礼をも受け、外見上のしるしを身に帯びることになれば、言い逃れはできなくなる。そこまで行かなければ、本物の信仰者とは言えない。このような理由から、すべてのキリスト者は割礼を受けるべきであると、その人々は主張したのではないでしょうか。これはあくまでも私の想像にすぎません。別の理由があったかもしれません。

しかしパウロはそのような考え方には立ちませんでした。すべてのキリスト者が割礼を受ける必要はないと主張しました。イエス・キリストに対する信仰をもって生きることに外見上のしるしは不要である。そのようなしるしを持っているということで安心してしまうことは危険であると考えました。

なぜ危険なのかといえば、そのような外見上のしるし自体が、一種の偶像になってしまうからです。このしるしがあるから、私はもう大丈夫。このしるしを持っていない人々は、しるしを持っているわたしたちよりも劣っている。このような考え方をしはじめた途端、その信仰は堕落しはじめるのです。

もっともパウロ自身は割礼を受けていました。彼はユダヤ人の家庭に生まれたからです。ですから、彼は自分自身の割礼を否定しているわけではありませんし、否定することはできません。割礼は一度受けると、二度と取り消すことはできないからです。

また、ユダヤ人である人が割礼を受けることに反対しているわけでもありません。割礼を受けた人は、割礼を受けていない人よりも信仰的に優れているという考え方を持っていなかっただけです。

パウロが批判しているのは、今はまだ割礼を受けていない異邦人がキリスト教の洗礼を受けた場合、それに加えて割礼をも受けなければならないと、異邦人キリスト者たちに要求するユダヤ人キリスト者たちの押しつけがましさです。それをパウロが嫌がったのです。

エルサレム会議の結果は、パウロの立場を認めるものでした。人はただイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるのであり、割礼を受けることはその人が救われているかどうかのしるしではない。そのように西暦一世紀の教会会議は決議しました。その決議は今に至るまで有効です。

しかし、この論争の火種は、エルサレム会議が終わってからもしばらくの間、くすぶり続けたのではないかと思われます。ローマの信徒への手紙はその会議のずっと後に書かれたものですが、今日の個所に書かれていることの中にも、その論争の残した禍根が反映されていると見ることができます。

わたしたちが忘れてはならないことは、パウロ自身もユダヤ人であったということです。しかし、彼は自らもそうであるユダヤ人に対して、たいへん厳しい言葉を書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(29節)。

ユダヤ人たちにとって割礼を受けているということは、誇りであるようです。どういうふうに誇るのか具体的な場面が思い浮かびませんが、とにかくそのようなものであるようです。しかし、外見を誇るだけで内面が伴わない人はユダヤ人ではない。自分たちが何ものかであるかのように誇る資格はないと、パウロは言っているのです。もっと謙遜になれと言っているのです。そのことは、もちろん私も賛成です。パウロの言うとおりだと思います。

しかし、ここで一つ考えさせられることがあります。

私自身は、キリスト者が割礼を受けるべきであるなどと言いたいわけではありません。全く違います。しかし、先ほど少し申し上げましたように、わたしたちが教会で受ける洗礼は、外見上のしるしにはなりません。わたしたちの頭や体に、洗礼の水が今でもついたままということはありません。

洗礼式の写真を撮れば、それが証拠になるということはあるかもしれません。あるいは、もちろん、わたしたちが洗礼を受けるということは教会の会員になるということを意味しているのであり、教会の会員名簿にわたしたちの名前が登録されますので、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、教会に問い合わせていただけば確認することはできます。

しかし、わたしたちの洗礼式に立ち会ったとか、教会の会員名簿を見たとか、そういうことをしたことがない人の前で、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、ある意味で全く分からない面があるということも否定できません。

意地悪な言い方かもしれませんが、隠す気になれば隠せます。自分の心の中で無かったことにすれば、そういうふうにしてしまうことも全くできないとは言えないのです。

それが何を意味するのかということは、今日は申し上げないでおきます。しかし私は、そのことを悪いことだとは思っていません。

わたしたちの洗礼は外見上のしるしにならない。わたしたちが信仰をもって生きているかどうかは、割礼や入れ墨、あるいはネックレスやペンダントや服装のようなもので見せびらかすことはできない。

だからこそ、わたしたちに徹底的に問われるのは、わたしたちの内面であるということは、わたしたちにとって悪いことではなく、良いことであると私は思うのです。

わたしたちにとって重要なことは徹底的に内面性であるということを明らかにするために、パウロの言葉を次のように言い換えてみるとよいのです。

「外見上のキリスト者がキリスト者ではなく、また、肉に施された外見上の洗礼(そんなものはないのですが!)が洗礼ではありません。

 内面がキリスト者である者こそキリスト者であり、文字ではなく“霊”によって心に施された洗礼こそ洗礼なのです。

 その誉れは人からではなく、神から来るのです」。

(2013年6月2日、松戸小金原教会主日礼拝)