ローマの信徒への手紙3・21~26
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
最初に申し上げておきますが、今日の個所は非常に難しいところです。しかし、非常に大切な個所でもあります。この個所にローマの信徒への手紙の心臓があると言っても決して過言ではありません。この個所の難しさは、短い言葉で書かれていることに関係していると思われます。詳しく丁寧に説明する必要がある、奥深い内容を持つ真理が、簡潔な言葉で要約されているのです。
ですから、ご安心ください。さっぱり分からないとお感じになる方は御自分を責めないでください。パウロの言葉が足りていないのです。たくさんのことがぎゅっと詰まった言葉が書かれているのです。そういうふうに考えてくださって構いません。勇気づけられるのは、そのように解説している注解書があることです。「この個所は難しい」と書いています。だから、どうかご安心ください。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と書かれています。「ところが今や」という言葉に、パウロは深い意味を込めています。その意味を説明するために何ページも割いている注解書があるほどです。私自身には、それほど深い意味を読みとる力はありませんので、単純なことを申し上げておきます。
それは、「今」という言葉が一つの時間を表わす言葉であるとしたら、「今」と対比されるのは「昔」であるということです。あるいは「現在」に対する「過去」です。そのような意味での「昔」あるいは「過去」に対する「今」あるいは「現在」のことをパウロは書いているのです。
「過去」においてはどうだったのかについては、すでに学んだ個所に書かれていました。特に今日の個所に直接関係しているのは直前の次の御言葉です。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3・20)。
繰り返し申し上げてきたことですが、この手紙の中でパウロが「律法」と書いている言葉は、ほとんど「聖書の御言葉」という言葉で言い換えることができます。そのルールはここでも当てはめることができます。次のように言い換えることができます。「聖書の御言葉を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。聖書の御言葉によっては、罪の自覚しか生じないのです」。
このように言い換えますと驚かれる方は必ずおられると思います。「聖書の御言葉を実行することが間違っていると言いたいのか」と反発されてしまうかもしれません。その反発は、ある意味で当然のことだと思います。
しかし、「聖書の御言葉を実行すること」が間違っていると言いたいのではありませんが、「律法を実行すること」と結果は同じであると言わざるをえません。律法を実行することも、聖書の御言葉を実行することも、その結果として生じるのは罪の自覚だけだからです。
それは「やってみれば分かる」としか言いようがありません。聖書に書いてあることをそのとおりに実行してみてください。それで分かるのは、聖書のとおりに実行することは不可能であるということです。もしそれが不可能であることが分からないとしたら、その人は聖書のとおりに実行していないのです。
なぜ結果が同じになるのでしょうか。わたしたちが聖書の御言葉を実行しようとすると、罪の自覚が生じます。その自覚の内容は、書いてあるとおりを守ること、遵守することは難しいことであり、できないことであるということです。
なぜ難しいのでしょうか。なぜ不可能なのでしょうか。何か例を挙げてお話しすれば、少しは話が分かりやすくなるかもしれません。聖書の御言葉そのものでなくてもいいです。最も単純で簡単なことでもいいです。たとえば、「私は毎朝5時に目を覚まします」と誓いを立てるとします。その誓いを何があっても守る。自分が病気になろうと、家庭や仕事との関係で生活上の変化や困難が起ころうと、天変地異が起ころうと、自分で立てた誓いを自分で破ることができない。それを守り抜こうとする。
しかし、それは実際には不可能であるということはお分かりになるはずです。さまざまな悪条件が重なることは人生の中にはいくらでもあります。天変地異もある。家庭や仕事との関係で悩むことはいくらでもあります。どちらが優先されるべきかと選択を迫られ、苦しむことはいくらでもあります。
そして、その場合はどちらを選んでも、罪の自覚が生じることになるでしょう。自分の誓いのほうを優先すれば、家族や仕事を犠牲にしてしまったことに苦しむでしょうし、家族や仕事を優先すれば、自分の誓いを裏切ったことに苦しむでしょう。しかし、それがわたしたちの現実なのです。
今申し上げたことはほんの一例です。しかし、これだけでも、わたしたちにとっては「時間を守る」というような単純で簡単な誓いを守ることさえ難しいことであるし、できないことであるということをお分かりいただけるはずです。
しかし、まだ納得していただけないかもしれません。今あげた例は「自分で立てた誓い」であると言いました。しかし、聖書に書かれていることは、神との約束であり、誓いである。人間の誓いは、神との約束とは次元が違うことである。神との約束は絶対に破ってはならない。次元が違う話を持ち込んで一緒くたにするのはけしからん、というふうに叱られてしまうかもしれません。
しかし、そのことについても私は、結果は同じであると言わざるをえません。神との約束であろうと、人間の誓いであろうと、それをわたしたちは完璧に守ることはできません。できると思い込むこと自体が間違いです。なぜ間違いなのかといえば、そこには必ずごまかしがあるからです。「完璧」の意味を自分流に広げたうえで、「自分は完璧である」と言い張っているだけです。
そしてそれは、他人に厳しく自分に甘い生き方にもなっていくでしょう。それは考えれば考えるほど最悪の結末でもあります。パウロが書いている「律法によっては、罪の自覚しか生じない」というのが自分自身の罪の自覚であれば、まだましです。しかし、完璧主義的な生き方を他人に押しつけることをしてしまいますと、他人に罪の自覚を生じさせるだけで、自分は少しも悪くないと思い込むことにもなります。
自分には自分流の「完璧」でいいのだと、自分を甘やかす。しかし、それは聖書の基準からはかけ離れている。それでいて他人には聖書の基準の「完璧」を押しつけているだけです。そういうことをしはじめると、その人はもはや、他人を地獄の苦しみに突き落とすだけで自分は平気な顔をしている邪悪な存在でしかありません。
しかし、いまお話ししていることは、先週学んだ個所までに書かれていたことです。それは「昔」であり、「過去」です。「ところが今や」(21節)と、パウロは続けているのです。
「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)。この文章も難しいです。しかし、難しいのは複数の文章が入り組んでいるからです。理解可能な文章にするためには、入り組んだ複数の文章を切り離す必要があります。していただきたいことは、「しかも律法と預言者によって立証されて」という一文を隠して「律法とは関係なく」と「神の義が示されました」を続けて読んでみることです。
これでもまだ分かりにくいでしょうか。「律法(聖書と読み替えることができる)とは関係なく」とは、噛み砕いて言えば「聖書の御言葉を完璧に実行することによってではなく」ということです。
「神の義」という言葉の意味も説明する必要があります。これは神だけの話ではなく、神と人間との関係の話です。神とわたしたち人間との間の正常な関係のことを指しています。
正常な関係があるということは、異常な関係もあるということです。ノーマルに対するアブノーマルです。しかし、最初から異常な関係だったわけではありません。最初は、そして本来は、正常な関係でした。しかし、正常な関係が壊れました。人間が罪を犯して神に背いたときに壊れました。正常な関係が罪によって異常な関係になりました。しかし、その関係がもう一度正常な関係へと回復されること、これが「救い」です。その神と人間との正常な関係のことを、パウロは「神の義」と呼んでいるのです。
しかし、その「神の義」、すなわち神と人間との間の正常な関係が回復されることがどのようにして起こるのかという問いに対するパウロの答えは、わたしたちが「律法」、すなわち聖書の御言葉を完璧に実行するという方法によってではないというものです。それが「律法とは関係なく、神の義が示された」と言われている意味です。
そういう方法ではない、別の方法が神御自身によって備えられた。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)と書かれている方法です。
ここでご理解いただきたいことは、パウロの言う「イエス・キリストを信じる信仰」は、私が申し上げている意味での「完璧主義」とは対立するものであるということです。完璧主義がわたしたちを自由にすることはありません。完璧主義は、わたしたちを追い詰め、心も体も破壊します。
しかし、だからと言って私は、聖書を読まなくてもよいというようなことを申し上げているのではありません。聖書は読むべきです。聖書に書かれていることを完璧に守ることができなくても、聖書は読むべきです。しかし、この本を読むとわたしたちはどうなるのかといえば、この私がいかに神の言葉を実行することができないか、神との約束を守ることができないかを自覚することができるだけです。そのことを自覚できるまで徹底的に聖書を読み、聖書の御言葉を実行することが必要です。
しかし、それではわたしたちは、自分の罪を自覚した後、どうすればよいのでしょうか。罪を自覚したうえで開き直りなさいと言っているのではありません。自分の罪深さを胸裂けるばかりに悔いる必要があります。しかしそれは、「自分は駄目だ駄目だ」と自己卑下し、自分を責めるだけの憂うつな人生を送りましょうという意味ではありません。自分の罪を自覚するということは、この私を罪の中から救い出してくださる方(それが「救い主」)が必要であると自覚することです。
救い主であるイエス・キリストを信じ、すがる。それが新しい道です。それによってわたしたちは神との正常な関係に戻ることができます。そのとき神は、もはや怒っておられません。明るく笑っておられます。温かい笑顔でわたしたちを見つめてくださっています。
(2013年6月23日、松戸小金原教会主日礼拝)