2013年6月23日日曜日

教会の責任は重いものです


テモテへの手紙一5・17~25

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています。長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です、そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。」

こういう個所をどのように読むかは、本当に悩むところです。

パウロは非常に率直に書いています。ちょっとストレートすぎです。しかしそのことも、この手紙の宛て先がパウロの親しい後輩伝道者テモテであると考えれば、納得できます。ごく個人的な関係の中でのやりとりであることは明白です。

パウロとしては、このやりとりが自分が亡くなった後に公になるとは考えていなかったのではないでしょうか。しかも、それが新約聖書に収められ、二千年後の今でも読み継がれるものになるとは。

この個所でパウロが何を言っているのかを説明させていただきます。しかし、最初にお断りしておきたいことは、これは私の意見ではないということです。パウロの意見です。どうか誤解なさらぬようにお願いいたします。

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たち」(17節)というのは、御言葉と教えのためにがんばっている長老と、サボっている長老とがいるという話ではありません。

「御言葉を教えのために労苦している長老」とは、日本キリスト改革派教会における職務名で言えば、「教師」のことです。わたしたちの言うところの「宣教長老」です。「宣教長老」に対して「治会長老」がいます。治会長老がいわゆる「長老」です。

ですからパウロが書いているのは、「宣教長老」である「教師」は「二倍の報酬を受けるにふさわしい」ということです。ここで「報酬」とは、明らかに給料のことです。わたしたちの教会では「謝儀」と呼んでいますが、「給料」と呼んでも間違いではありません。

そのあとに続く「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という文章の意味は、牛は人間の畑仕事を手伝いながら畑のものを食べている、ということです。要するに、腹が減っては仕事はできない、という意味です。牧師の仕事も牛と同じである、ということです。

それを「二倍」受けるにふさわしいというのは、他の仕事に就いている人たちの二倍という意味だと思います。しかし、これは厳密な話ではなく、大雑把な話です。それは具体的にどの職業の人たちの二倍なのかとか、それは具体的に言うといくらぐらいになるのかというように、神経質に突き詰めるような読み方は間違っています。これは具体的な話というよりも、気持ちの問題ではないでしょうか。

また、この個所を読む際に重要だと思われることは、これを書いているパウロも、この手紙の宛て先であるテモテも「教師」であるということです。その教師同士が「ぼくたちの仕事は他の人の二倍の報酬を受けるにふさわしい」と言い合っているのですから、これは要するに愚痴です。実際に人の二倍の謝儀を受けとっているわけではなかった可能性のほうが高い。

先ほど私が「これは私の意見ではなくて、パウロの意見である」と申し上げたのは、パウロの権威を借りて私が皆さんに何ごとかを要求しているわけではありませんという意味です。

日本の教会の牧師たちの生活がいま非常に深刻な状態にあることは事実です。しかし今日の個所のようなところは、しかめっつらしながら読むような個所ではありません。教師たちは、愚痴をこぼしながらも、何とかかんとかやっています。

「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります」と書かれています。

この「長老」は、わたしたちでいえば宣教長老と治会長老の区別のない、両方を合わせた「長老」のことです。それは教会の運営責任者です。小会・中会・大会の人たちです。この人々は教会運営の全責任を負っています。「責任」という漢字は「責められることを任される」と書きます。責任者とは、内外からのいろいろな苦情や批判を聞き、重く受けとめ、改善する立場の人です。

たとえば、教会の中に問題が起こった。そのことを小会に訴える人が、小会自身の責任も同時に問うことがありえます。「牧師や長老たちがちゃんとやってくださらないから、こういうことになった」と言われます。それだけではなく、牧師や長老は教会の中では目立つ場所にいますので、長所だけではなく、短所や欠点がよく見える。批判の対象にされやすい立場です。

だからこそ、教会の中で長老たちに反対する訴えは、「二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません」という話になります。個人的な恨みが教会で公の問題にされるようなことがあってはならないということです。そういうことをしはじめると、教会が壊れてしまうからです。

「神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい」(21~22節)。後輩テモテに対する親心を感じます。

そして、次の個所は、なんと聖書の中に「お酒を飲みなさい」という言葉が明言されている(!)個所があるということで有名です。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(23節)。

しかし、この個所は変なふうに悪用されてはならないと思います。どんどんお酒を飲みましょうと、そのようなことをパウロが言っているわけではありません。また、ぶどう酒に病気(病名不明)を治す薬効があるのかどうか、また本当にそのような(ぶどう酒には薬効があるというような)意味でパウロが書いているのかどうかも分かりません。私は違うと思っています。

パウロが言いたいことは、教会の仕事はたいへんなのだから、あまり神経質にならずに大らかにやりましょう、お酒の少しくらい飲んでもいいんじゃないの、というくらいのことを言って、気分が沈みがちの後輩を励まそうとしている、ただそれだけではないかと、私は思う。そのくらいの、のんびりした言葉として読むくらいでちょうどよいと思います。

パウロが言いたいことは、教会の責任は重いということです。教会の責任だけが重いということではありません。また、牧師の責任だけが重いということでもありません。長老・執事の責任とか、小会・執事会の責任とか、そういうことだけでもない。一全体としての教会に与えられた責任は重いのです。

神が地上に教会をお立てになったのは、教会の存在と働きを通して、神御自身が働いてくださるためです。教会の働きが、神のみわざなのです。神は教会の働きを用いて、地上でお働きになるのです。

ですから、そのようにして神のみわざに参加する教会の働きは、光栄な職務であり、働きなのです。喜んで感謝して神に仕えることが、わたしたちにふさわしいことです。

じくじくと恨みつらみを言い、口を開けば愚痴だ批判だ、というのは暗い。

明るく楽しい教会、そして、公明正大な教会として歩んで行くことが、わたしたちに最もふさわしいことです。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日夕拝)