「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)と書かれています。これはどういう意味でしょうか。その説明から始めます。
先週の個所でパウロは、わたしたち人間が罪の中から救い出されるために唯一残された道を教えていました。それは、わたしたちが神の言葉である聖書の教えを完璧に実行するという道ではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる道です。それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」(24節)与えられる神の義です。
「無償で与えられる」ということは、人間の側からのいかなる支払いも、神はお受け取りにならないということです。神は人間のいかなる買収にも応じられません。人間がどれだけ支払ったから、どれだけがんばったから、どれだけたくさんのささげものをしたから、だから神は人間を救うということではありません。たくさん支払った人にはそれなりの見返りがあるということであれば、神と人間の関係は商売の関係になります。商売が悪いと言っているのではありません。神とわたしたち人間との関係はそのようなものではないと言っているのです。
わたしたちの支払いの多寡に応じて神の態度が変わるということであれば、神がわたしたち人間に与えてくださる救いの恵みには松・竹・梅の三種類か、それ以上の種類があるということになります。天国が、ものすごくがんばった人用の部屋と、少しがんばった人用の部屋と、がんばらなかった人用の部屋に分かれていることになります。
しかし「何の差別もありません」(22節)。支払う力のない人にも多く支払うことができた人と全く同じ部屋が用意されています。神の御子イエス・キリストが父なる神のみもとから地上の世界に遣わされて行ってくださった贖いの御業は、イエス・キリストを信じるすべての人に平等の神の義を約束してくれるのです。
こういう話をした後にパウロは「人の誇りは取り除かれた」(27節)と書いていますので、どういう意味であるか、もうお分かりでしょう。「人の誇り」とは人間の努力の証しです。しかし、その努力の多寡は、人が神に救われるかどうかに関係ないことだとパウロは言う。そのように言われると、私はこれまで一生懸命がんばって生きてきた、誰にも負けないほどの努力をしてきたと思っている人たちは傷つくのです。「もうやってられない」と自暴自棄になり、投げやりになることがありうるのです。
人の誇りが取り除かれる、つまり、わたしたちが神に救われることに関して努力の価値が失われるのは、「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)とパウロは続けています。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。
神はわたしたちの買収に応じる方ではありません。天国の問題はお金で解決することはできません。また、これは私にとっても厳しい話になるのですが、この地上において神を信じて生きる信仰生活を何年続けてきたかは、天国においては関係ありません。教会において多くの奉仕をなし、献身した人と、今際の床でわずか数分、わずか数秒、イエス・キリストを信じる信仰を告白した方とは全く同じ天国に受け入れられるのです。
47歳の私は47年教会生活を送ってきました。6歳のクリスマスに成人洗礼を受けましたので、洗礼を受けてから41年経っています。しかし、神は「だから何なのだ」と私に問いかけます。そのようなことを私のプライドにすることを神御自身が許してくださらないのです。
教会生活を長く続けることには意味はないと申し上げているのではありません。意味はあります。ないはずがありません。しかし、その意味は、ただひたすら、これからイエス・キリストへの信仰をもって歩みはじめる人たちを歓迎し、受け入れ、祝福し、心から喜ぶことにあるのです。
なぜパウロは、このようなことを言わなくてはならないのでしょうか。人間はもっと努力すべきである。「神と教会にたくさん奉仕し、ささげものをし、やるべきことをしっかりやらないと、天国には行けません」と教えるほうが教会にもっと人が集まるのではないでしょうか。「がんばらない人は地獄行きですよ」と威嚇するほうが、不安や恐怖心にかられて教会生活を熱心に続ける人たちが増えるのではないでしょうか。
しかし、パウロの考えはそのようなものではありません。真の教会はそのような方法を選んではいけません。悪質な宗教ビジネスの手口です。そのようなやり方を神が許してくださいません。神が求めておられるのは、脅しや不安や恐怖に怯えて集まって来る人ではありません。全くの自由において神を愛し、隣人を愛して生きる、喜びと感謝にあふれている人をお求めになるのです。
「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に神は唯一だからです」(29~30節)とパウロは続けています。話が突如として飛躍して、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が出てきたようでもありますが、もちろん関連があります。
繰り返し申し上げているとおり、パウロが言う意味での「ユダヤ人」とは幼い頃から聖書に基づく教育を受け、安息日のたびに神殿や会堂に集まり、礼拝をささげ、奉仕を行ってきた人々です。そのこと自体は素晴らしいことですし、人から責められるようなことではないし、自分自身の誇りにすることが許されることでもあります。しかし、だからといって、「神はユダヤ人だけの神でしょうか」、そうではないでしょうと、パウロは言っているのです。ユダヤ人だけが「神」を専有すること、独り占めすることはできません。
この「神」を「教会」と言い換えてもほとんど同じ結論になると思います。教会はユダヤ人だけの教会でしょうか。教会は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人たちだけの専有物でしょうか。初めて教会を訪ねる人、これからイエス・キリストを信じる信仰を求め、そういう人生を今から始めたいと願っている人のための教会でもあるのではないでしょうか。そして、そのような人のための神でもあるのではないでしょうか。そのようにパウロは言いたいのだと思います。なぜならパウロは「異邦人のための伝道者」であろうとしましたから。
「異邦人」とは異教徒です。幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けるどころか、そういうことは何も知らない、習ったことも触れたこともない人々です。軽んじる意味で言うのではありませんが、聖書の宗教に限って言えば、その人々は“子ども”です。誰からも教えてもらったことがないのですから仕方がありません。
その人々が聖書を読んだとき、いろいろと素朴な疑問が出てくるのは当然です。教会生活が長い人々が聞くとびっくりするような誤読や誤解をすることがあるのは当然です。あるいはまた、その人々が教会に通い始め、聖書を読み始めるより前から信じていたことや受け容れていたことを抱えたまま、引きずったまま、教会に通い、聖書を読むことになりますから、その人たちの心の中で聖書の教えとそれ以外の教えが混ざり合い、混乱・混同し、どこまでが聖書の教えで、どこからはそうでないかの区別がつかない状態になることも当然です。
ですから、そのような人々に対して教会がしなければならないことは、混合・混乱・混同した状態にあるその人々の心の中にあるものを、解きほぐすことです。それは、もつれあい、からみあった糸をほぐすようなことです。そして、先ほど申した意味での聖書的な宗教教育については“子ども”の状態の人々に、時間と労力を惜しみなく注ぎ、手とり足とり教えていくしかありません。そういうことを面倒くさがるような人は「異邦人のための伝道者」にはなれません。
だから私は、依然として圧倒的な「異邦人の国」である日本の教会がなすべきことは、子どもたちの先生のような仕事であるととらえています。何も知らない“子ども”に手とり足とり、そもそもの物事の成り立ちから、噛んで含んで教え、伝える仕事です。
パウロが言いたいことは、わたしたちにとって厳しい話なのだと思います。わたしたちは、イエス・キリストの教会に来る前から聖書の知識を持っていて、そんなことはもう分かっている、耳にたこができるほど聞きました、というような人々だけを集めて、それで教会にたくさん人が集まったということで満足しているようでは足りないのです。「伝道」とは、全くの異邦人、全くの異教徒をイエス・キリストを信じる信仰へと導き、洗礼を授けることです。そのことがわたしたちにできているだろうかと自らに問わなくてはなりません。
有限なる人間、有限なる教会は、無限の神をとらえることができません。天地万物の創造者である全能の神は、宗教的に熱心な人たちだけの専有物ではありません。わたしたちは世に出ていく必要があります。そこで「伝道」する必要があるのです。
(2013年6月30日、松戸小金原教会主日礼拝)