2013年6月16日日曜日

わたしたちの体は自分の思うように動きません


ローマの信徒への手紙3・9~20

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。この手紙の1章18節から今日お読みしました3章20節までの個所にパウロが書いていることのほとんどすべては、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人である、ということです。それ以外のことは言っていないと断言できるほどです。

ユダヤ人がどうした、異邦人がどうした、という話は出てきました。しかし、それらの話題の結論は、わたしたち人間はとにかくひたすら罪人であるということに尽きます。

最初に少し、これまでのおさらいをしておきます。「ユダヤ人」と「異邦人」の区別は、聖書の御言葉を神からゆだねられているかどうかという点にあります。幼い頃から聖書を学んできた人のことを「ユダヤ人」と言い、そうでない人のことを「異邦人」と言うのです。

聖書を学んだことがない異邦人は、神の御心は何であるかということを、聖書という書物を通して、その中に書かれている文字を通して確認したことがあるわけではないので、それはある意味で、神の御心など全く知る由もないという立場にあると言ってもほとんど間違いないわけです。

しかし、パウロはその異邦人に対しても、厳しい態度をとります。聖書を読んだことがなくても、神の御心を書かれた文字で確認したことがなくても、わたしたち人間は神から良心を与えられているので、たとえおぼろげではあっても善悪の判断くらいできる、とパウロは主張します。聖書を読んだことがないから、神の御心など知らないから、だから善悪の判断ができなかった。私は知らないうちに罪を犯してしまいましたなどという弁解は全く成り立ちようがない、と言っているのです。

聖書を読んだことがない異邦人に対してさえこれだけ厳しいのですから、聖書をいつも学んでいるユダヤ人に対しては、パウロは容赦ありません。聖書を知っている人たちに、善悪の判断ができないはずがないからです。それなのに、彼らは罪を犯し続けている。彼らは、知らないうちに罪を犯しているのではなくて、それがいかに罪深いことであるかを十分に知った上で、あえてその垣根を越えて罪を犯している。「確信犯」とはまさにそのような人のことを言うのです。

しかし、そのような状態にあるユダヤ人たちが自分たちの立場を弁護し、かつ異邦人に対する自分たちの優位性を主張するために、自分たちは聖書の教えに忠実であるということを示すための「割礼」を受けていることをひけらかす。しかしパウロは、外見上の割礼などどうでもよいものであると言います。神が問題にされるのは、わたしたち人間の内面です。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・29)と書いてあるとおりです。

このようにしてパウロは、ユダヤ人と異邦人の両方の問題を取り上げて、両方とも罪深いと言っています。どちらのほうがより罪深いだろうかと問うことは難しいかもしれません。しかし、先ほどもちょっと触れましたが、知らずに犯す罪と、知っていて犯す罪とでは、どちらのほうが悪意性が強いかということは考慮に値することです。悪意というのは心の中の事柄ですので、体の外からはっきり見えるものではありませんが、いろいろな仕方で証拠を見つけていくことは可能です。

しかし、そうは言いましても、わたしたちは、まさか毎日毎日、凶悪犯罪を実行に移しているわけではありません。そのようなことをしながら、日常生活をごく普通に平凡に送っていくことは不可能です。凶悪犯罪をもてはやす意図はありませんが、あれは一つの仕事です。用意周到な計画性なしには決して成し遂げることができません。平凡な日常生活を犠牲しなければ実行不可能です。その意味でも、わたしたちは普通の生活をしているかぎり、凶悪犯罪を行うことは無理だと思います。

「あなたの存在そのものが罪である。あなたには生きている価値もない。いまただちに生きるのをやめて死になさい」。そのような激しい罵声を常に浴びせられ続けなければならないほどの罪をすべての人間が抱えているというようなことではありません。私は今、そのような話をしているのではありませんし、パウロもそのようなことまで書いているわけではありません。

もし百歩譲って、そういうことをパウロが書いていると考えなければならないということを客観的に認めざるをえないことになったとしても、だからといって、あなたは罪深い存在である。それゆえ、あなたは生きること自体、存在すること自体を否定されなければならないというようなことを言われなければならないのは、だれか特定の人ではなく、すべての人間であると言わなくてはなりません。

いま申し上げていることの意味は、わたしたちは今日の個所のパウロの言葉を用いて自分以外の誰かを批判することはできません、ということです。すべての人間の中には、あなた自身も含まれているからです。私もあなたも、すべての人も、神の前で「私には罪がない」と言い張ることはできない、ということをパウロは述べているのです。

そのことをパウロは改めてはっきりした言葉で書いています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない』」(9~10節)。ここでパウロが引用しているのは、旧約聖書の詩編14編です。

パウロが詩編14編を引用している理由は、書かれていません。しかし、この引用によって分かることは、すべての人間が例外なく罪人であるという思想は旧約聖書の時代からすでにあり、かつそれが新約聖書に受け継がれたものでもあるということです。そしてこの聖書の教えをキリスト教会も受け継いでいます。すべての人間は例外なく罪人です。しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招いてきました。そのことをわたしたちは聖書に基づいて告白してきたのです。

しかしまた、私はここで、いくつか別の視点から考えておかなければならないことがあると思っています。そのことを申し上げますと、私の話がかえってややこしくなってしまうかもしれませんが、それはやむをえないことです。

パウロが書いているのは、すべての人間は例外なく罪人であるということです。しかし、それは決して単純な話ではありません。非常に複雑な話です。このことについて単純な結論を出してしまうことができるのであれば、パウロはこの手紙を長々と書く必要はなかったでしょう。3章20節までで終わりにすればよかったでしょう。しかし、この手紙は16章まで続きます。それはパウロが人間の罪について、まだ書くことが山ほどあると考えていた証拠であると言えます。

そして、ここでわたしたちが考えなければならないことは、すべての人間が例外なく罪人であるという聖書の教えは、わたしたちにとって慰めの言葉ではないということです。

それはどういう意味か。すべての人が罪人であるならば、どうせみんな同じなのだから、わたしたちは自分の罪を避けがたい運命としてとらえればよい。そこから逃れることができる人は誰もいないのだから、せいぜいお互いの傷を舐め合うか、お互いに慰め合うか、お互いの足を引っ張り合って生きていけばよい。そのようにして、みんなが罪にまみれた生活を続けていけばよい。これは完全な開き直りです。

しかしパウロは、そういう結論を考えているわけではありません。すべての人間は罪人であるという聖書の教えを、わたしたちはそのような考え方のために悪用してはならないのです。

実際問題としてわたしたちは、罪の状態のままでとどまっていて、よいことは一つもありません。やはりわたしたちは、その状態から救い出されなければなりません。だれかと自分を比較して、自分のほうがまだましだと分かったところで、わたしたちがまだ罪の中にとどまっているなら問題は解決していません。パウロはわたしたちを罪の中にとどまるように導こうとしているのではないのです。

言わなければならないことは、まだあります。パウロが詩編14編から引用していることについて、先ほど私はこれが旧約聖書の教えであり、新約聖書とキリスト教会が受け継いでいると説明しました。それはそのとおりです。しかし、誤解しないでいただきたいのは、わたしたちが罪人なのは、聖書と教会がそのように教えているからそうである、というふうな事情であるというわけではない、ということです。

それはどういうことか。わたしたちは本当は罪人ではないのに、聖書と教会がわたしたちに一方的に無理やりそのようなレッテルを貼っているだけだ、ということではないという意味です。大したことでもないことを聖書と教会がやたらと大げさに言い立てて、わたしたちに罪の濡れ衣を着せようとしている、とかなんとか、そんなふうに思われると困るのです。

それは順序が逆です。正しい順序は、聖書と教会がそのことを教えるよりも前から、わたしたちは罪深かった、ということです。わたしたちは教会に通い、聖書を読むよりも前からすでに、しなければならないことをせず、してはならないことをしてきたのです。しかし、わたしたちは聖書を読むことによって、それに気づかされたのです。自分の罪を自覚したのです。

今日の個所の最後に「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)と書かれています。ここでも「律法」とは聖書のことです。聖書を読むと、わたしたちは神の前でいかに罪深いかを自覚させられます。なぜなら「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」(20節)。

今日の説教の題に「わたしたちの体は自分の思うように動きません」と書かせていただきました。その意味は、わたしたちは良いことをしようとしても、わたしたちの心の中の罪が邪魔をして罪深いことをしてしまう、ということです。

この手紙の中のもう少し後に出てくる言葉を先取りしていえば、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7・18)ということが、わたしたちの身に起こるのです。

この矛盾した状態からわたしたちは救い出される必要があります。その突破口は、イエス・キリストを信じる信仰であるとパウロは続けます。この続きは次回お話しいたします。

(2013年6月16日、松戸小金原教会主日礼拝)