2013年6月9日日曜日

世界は激しい不条理で満ちています


ローマの信徒への手紙3・1~8

「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」

今日もまたローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に書かれていることを一言でまとめるのは難しいです。まるで目の前にいる人たちと対話しているかのような書き方です。原稿などは書かないで、全くのアドリブでフリートークをしているようです。話の筋があっちに行ったりこっちに行ったりしています。

それはもちろん、一つの可能性ではあります。しかし、私だけの感想ではありません。私以外にも今日の個所にパウロが対話している姿を見出している人はいます。一つだけ証拠を挙げておきます。それは、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(1~2節)以下にパウロが書いているくだりです。

「あらゆる面からいろいろ」というのは文字通り「たくさんのこと」という意味しかありません。しかし、これが面白いことになっています。パウロは、ユダヤ人の優れた点をたくさん指摘できますと言いながら、実際に指摘しているのは一つの点だけです。「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」というこの点だけです。第二や第三の優れた点を探しても見つかりません。

たくさん言えますよ、と言いながら、一つのことしか言っていません。こういうのは、原稿として書くとまずい文章であることに気づきます。しかし、もしパウロが、原稿なしのフリートークをしていると考えることができるなら、こういう矛盾は大目に見ることができます。

本当にパウロは、ただ一つのことしか言っていません。ユダヤ人の優れた点は、彼らに神の言葉がゆだねられたことにあります。神の言葉とは聖書の言葉です。彼らには聖書があります。その証拠は、彼らが割礼を受けていることです。彼らは聖書の御言葉に基づいて割礼を受けました。これは先週の個所に書かれていたことの繰り返しです。

しかし、彼らは割礼という外見上のしるしを持っているにもかかわらず、彼らの内面において神に背いている。罪を犯している。それでパウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2・28~29)と書いたのです。

ですから、この「内面がユダヤ人であること」が「神の御言葉をゆだねられている人であること」と同じ意味になります。逆の順序で言えば、神の御言葉である聖書の教えに忠実に従って生きている人々こそ「ユダヤ人」と呼ばれるにふさわしい人々であるとパウロは言っています。しかし、現実のユダヤ人はその意味での「ユダヤ人」ではないと言っているのです。

しかし、そうしますと、その次に必ず問題になることがあることをパウロは知っています。それは、ユダヤ人に聖書の御言葉をおゆだねになった神は、彼らが神に背く者になるであろうということを、あらかじめ見抜くことがおできにならなかったのか、という問題です。つまり、責任の所在は聖書の御言葉をゆだねる相手を選び間違えられた神の側にあるのではないのか、という問いです。

そのような問いが人々の心の中に浮かんでくるということはパウロには分かっていました。そのあたりのことを取り上げているのがパウロの次の言葉です。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない」(3~4節)。

ここでパウロが「神の誠実」と言っているのは、神がユダヤ人に神の御言葉である聖書の御言葉をおゆだねになったことを指しています。神は、御自身の御言葉をおゆだねになった相手である人間を信頼されるのです。ユダヤ人なんか信じられるかと、はなから疑い、ばかにし、斜めから付き合うというようなことをなさらず、彼らをどこまでもまっすぐに見てくださり、信頼してくださり、どこまでも誠実に向き合ってくださったのです。結果的にユダヤ人は神に背いて生きる者になりました。しかし、それはユダヤ人を信頼した神のせいなのか、つまり、神が悪いのか、神がばかなのか。そういうふうに言うことはできないはずであると、パウロは言っているのです。

もちろん、悪いのは「ユダヤ人」のほうです。神の御言葉をゆだねられるほどに神から信頼されているのに、その神を裏切ってしまう、そういうことになってしまう人間が悪いのです。信頼した神の側が悪いという理屈は成り立ちません。そのあたりのことをパウロは次のように言っています。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)。

なぜ神が悪いという話になってしまうのでしょうか。裏切るのは人間です。罪を犯すのは人間です。しかし、わたしたちはついそこで自己弁護をしたくなります。次のようなことを考えはじめてしまいます。

「だって、神さまなのでしょう。神さまが人間をお造りになったのでしょう。そうであれば、もし神さまが人間に罪を犯してもらいたくないのであれば、そもそも人間を、罪など犯すことができない存在にお造りになればよかったではありませんか。しかし、そうはなさらず、人間を、罪を犯すことができる存在にお造りになったのは、神ではありませんか。だったらやはり、人間をそのような者としてお造りになった神が悪いのである。我々のせいにされても困りますよね」とかなんとか、

そういうふうに、どこまでも自分の罪の責任を神になすりつける屁理屈をこねることになるでしょう。

しかし、それは違うと、パウロは言いたいのです。その理屈はおかしいです。完全なる責任転嫁です。そのような理屈がまかり通るならば、人はどんどん罪を犯すようになるでしょう。

「私が罪を犯したのは私のせいではありません。神が私のことを、罪を犯さざるをえない人間にお造りになりましたので、私は罪を犯しているのです。わたしたちが罪を犯すことは、神の御心なのです。だから、罪の責任は神さまがすべてとってくださいます。私のことを責められても全くのお門違いです」とかなんとか、

こんなふうな話になっていってしまうでしょう。

このような責任転嫁の論理をあやつって人が罪を犯すことを是認し続けようとする人間の心の中の悪連鎖を、パウロとしては何とかして断ち切ろうとしているのです。そのことを、声を大にして訴えているのです。それが今日の個所に書かれていることの主旨です。

続く個所に書かれていることも、内容的には同じことの繰り返しです。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょうか。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

ここで言われていることを理解するのは少し難しいかもしれませんが、丁寧に考えれば理解できると思います。

罪を犯した人間に対して、神はやはり、怒りを発せられるし、裁きを行われるのです。もしそうでないならば、神は人間が罪を犯すことを見て見ぬふりなさっていることになり、事実上、罪を犯すことを許しておられることになります。そうなりますと、神はいわば人間と共犯者であるということになってしまいます。それは結局、「やはり悪いのは神である。神がばかなのである」という話になってしまいます。しかし、そういうことはありえないでしょうと、パウロは言いたいのです。

しかし、それでは、人間はなぜ罪を犯すことができるのでしょうか。先ほども触れましたが、もし神が人間を、罪を犯すことが不可能な存在にお造りになっていれば、不可能なことを可能にする人間が一人もいなければ、この世界に罪など無かったのではないか、という理屈に対して、わたしたちはどう答えればよいのでしょうか。

ここから先は、非常に謎めいた部分に立ち入ることになります。神はなぜ人間を、罪を犯すことができる存在に創造されたのでしょうか。もし神がそのような者として人間を創造なさらなかったら、殺人も戦争もない、罪も悪もない世界になったかもしれないのに。これを世界の不条理の問題と呼ぶことができるかもしれません。

聖書はこの問いかけに、はっきり答えを出してくれているようでもあり、そうでないようでもあります。しかし、とにかく一つだけははっきりしています。それは、神は人間を機械仕掛けのロボットや、全く意志を持たない操り人形のような存在としてお造りになったわけではない、ということです。

石(いし)には意志(いし)はないと思います(だじゃれを言っているのではありません)。しかし、人間には意志があります。神は人間に意志を与えてくださいました。それでは、なぜ神は人間に意志をお与えになったのでしょうか。

神の願いは、わたしたち人間が自分の意志を用いて、自由に喜んで感謝して神の御言葉に従う生き方を選びとってほしいということです。「せざるをえない」から神に従うのであるとか、「させられている」からしているとか、そういうことではなく、自発的にうれしそうに従ってほしいのです。

そのように神が人間に願われたことに、わたしたちは感謝すべきです。この私を、全く意志のないロボットや操り人形のようなものではない存在として造ってくださった神にわたしたちは感謝すべきです。しかし、その感謝を忘れて懲りずに罪を犯してしまうのがわたしたち人間でもあります。

ここまで言ってもなお、屁理屈極まりないことを言い出す人がいることも、パウロは知っています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしは罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(7~8節)。

何を言っているのでしょうか。意図は次のようなことです。神が人間を信頼してくださっていることが「神の誠実」であるというならば、神の信頼を人間が裏切り続け、罪を犯し続けることによって「神の誠実」が際立つことになるでしょう。だったら、神さまが誠実な方であることを際立たせるために、わたしたちはどんどん罪を犯しましょう、という話です。

これは完全に、話のすり替えです。お話になりません。

(2013年6月9日、松戸小金原教会主日礼拝)