ぼくが最近、痛感(?)していることは、
もし仮に、21世紀の日本で「宗教ブーム」なるものが起こっても、キリスト教への順風にはならないでしょ、ということです。
何十年か前までのヨーロッパの教会のように税金(教会税)で支えられてきたのではない、
信者の純粋に自発的な参加によって営まれる教会形態をもつ、
アメリカ経由の日本教会は、
その歴史のほぼ初めから、一種の自由競争原理が事実上持ち込まれた形で営まれてきたわけですから、
ブームが来ると、必ずや「勝ち負け」が問題になりはじめる。
だけど、この自由競争原理における「勝敗」という事の決め方が、どうにもこうにも教会にそぐわない。
うちの教会の年間予算規模はいくら、会員数いくら、教会の歴史何年。
ぼくらは上から何番目。
だから、何?
そういうこと言わなきゃ、まだいいんですけどね。互いが互いを尊重しあう自由選択原理ならば。
でも、そういうふうにはなりにくいですよね。数字はリアル。無視はできない。
「それは宗教です」というのが、今ではほとんど悪口の意味でしか言われなくなっていることを、ぼくはやっぱり悲しいと思っています。
教会というかキリスト教が「宗教」というラベルでカテゴライズされることには釈然としないものが、ぼくにもあります。
でも、その思いはたぶん、
仏教や神道やその他の教義・教説とはクオリティが違うので、というような(鼻もちならない)発想から出ている可能性があります。ぼくの場合は、です。
「宗教じゃない」と言ってみたところで、じゃあ何なのかと、看板をいろいろ掛け替えてみても、
結局、仏教や神道、あるいはイスラム教やヒンズー教と同じあるいは近接したラベルを貼られることになるだろうと思います。
オランダの大学の例で言えば、
やってることは結局「神学部」と同じだと思うんですけど、
faculteit van godgeleerdheid(神学部)のgodgeleerdheidは「宗教」(religie)の意味でもあるので、
キリスト教以外の宗教も含めた「宗教学部」になりました。
それは19世紀くらいの話です。
20世紀になると、事実上同じ内容のことをlevens- en wereldse beschauungen(人生観・世界観)とか呼び替えてみたり、
さらに最近では、geesteswetenschap(精神科学)をやってます、というような看板の掛け替えをやっているところもあるようです。
でも、発想の根本は古代からほとんど変わっていないので、なんだかな、と忸怩たる思いが残り続けます。
「宗教ブーム」が眉唾ものだと言いたいのではありません。
キリスト教への順風にはならないでしょと、上に書いた文字どおりのことを、ただ考えているだけです。