2013年6月2日日曜日

外見と内面は分裂しやすいものです


ローマの信徒への手紙2・25~29

「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはストレートです。「割礼」の話をしています。割礼はユダヤ人の男性が生まれてすぐ受けるものです。それはユダヤ人であることの外見上のしるしです。

しかし、パウロは言います。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(25節)。これはどういうことでしょうか。ユダヤ人が割礼を受けることの意義は、割礼を受けなければならないと聖書が命じているとおりを行っていることを示すことにあるのであり、つまり聖書の教えに忠実であることのしるしであるはずである。ところが、実際の彼らはそうではないと、パウロは言いたいのです。

彼らは聖書の教えに忠実でない。至るところで違反し続けている。彼らの心の中は神に背く思いでいっぱいである。それなのに、彼らは外見上のしるしを持っていることを誇りにする。まるで自分は世界の中で最も聖書の教えに忠実であるかのように言う。しかし、実際はそうではない。もし彼らが聖書の教えに忠実でないならば、外見上のしるしは無効である。割礼を受けていないのと同じである。そのようにパウロは言いたいのです。

彼は逆のことも書いています。「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の言葉を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから」(26~27節)。

割礼を受けていない人とは、ユダヤ人以外の人を指しますので、異邦人です。それは生まれたときから聖書に基づく宗教教育を受けるというようなことをしていない人です。両親または片親が、聖書の宗教とは異なる宗教を持っていたとか、あるいは何の宗教も持っていない人であり、子どもの教育において聖書の宗教の立場に立つということをしたことがなく、子どもたちもそのようなことを教えられたことがない。そして、割礼というような外見上のしるしを持っていない人、それが異邦人です。

しかし、たとえ、生まれにおいても育ちにおいてもそのような経験が全く無かったような人でも、聖書の教えを学ぶことはできます。そして、聖書に示されている神を信じ、神の教えに従って生きる決心と約束をし、そのような生活を始めることができるし、続けることができます。そういう人たちは、実際には割礼を受けてはいないけれども、神の目から見れば、事実上割礼を受けているのと同じ扱いを受けて然るべきでしょうとパウロは言いたいのです。かなり過激な言い方でもあると思います。

しかも、パウロは、とくに異邦人が割礼を受けるべきかどうかという問題については一家言持っている人でした。そのことが使徒言行録の15章に記されています。パウロのいわゆる第一回伝道旅行が終わった後、エルサレムで世界初の教会会議が開かれました。そこに集まったのは使徒たちでした。その会議にパウロも出席しました。

パウロとしては、異邦人たちにキリスト教を宣べ伝え、その人々がイエス・キリストを信じ、洗礼を受ける決心と約束をし、教会生活を始めた場合、その人々にそれ以上の負担をかけてはならないと考えていました。

ところが、そのパウロの考えに反対する人たちがいました。彼らの主張は、異邦人が洗礼を受けてキリスト者になった場合、その人はさらに割礼を受けなくてはならないというものでした。そうでなければ不十分である、洗礼と割礼はワンセットであると彼らは考えました。

なぜ彼らがそのように考えたのかは、はっきりとは分かりません。しかし、一つ思い当たることがあります。わたしたちが教会で受ける洗礼は、わたしたちの外見上のしるしにはならないという問題です。

西暦一世紀の教会の洗礼は、いまわたしたちの教会で行っているような形式とは異なるものでした。わたしたちの洗礼はいわゆる滴礼と言い、頭の上に少量の水を注ぐだけです。しかし、西暦一世紀の教会の洗礼は浸礼と言い、実際の川に行って全身を水に浸すというようなやり方でした。現代の教会の中にも、西暦一世紀の教会のやり方にならって、浸礼を行っている教会もあります。しかし、日本キリスト改革派教会で浸礼を行っている教会があると聞いたことはありません。

しかし、滴礼にせよ浸礼にせよ、それを受けたからといって、わたしたちの体に外見上のしるしが残るということはありません。もしかしたら、西暦一世紀のエルサレム会議の中でパウロに反対して、洗礼だけでは足りない、割礼を受けなければならないと主張した人たちは、そのことを嫌がったのかもしれません。

洗礼は外見上のしるしにはならない。そうだとすれば、もし迫害を受けた場合、私は神など信じていないし、教会になど通っていないと、言い逃れることができるかもしれない。自分の都合で、自分の信仰を隠すことができるかもしれない。

しかし、もし彼らが洗礼だけではなく割礼をも受け、外見上のしるしを身に帯びることになれば、言い逃れはできなくなる。そこまで行かなければ、本物の信仰者とは言えない。このような理由から、すべてのキリスト者は割礼を受けるべきであると、その人々は主張したのではないでしょうか。これはあくまでも私の想像にすぎません。別の理由があったかもしれません。

しかしパウロはそのような考え方には立ちませんでした。すべてのキリスト者が割礼を受ける必要はないと主張しました。イエス・キリストに対する信仰をもって生きることに外見上のしるしは不要である。そのようなしるしを持っているということで安心してしまうことは危険であると考えました。

なぜ危険なのかといえば、そのような外見上のしるし自体が、一種の偶像になってしまうからです。このしるしがあるから、私はもう大丈夫。このしるしを持っていない人々は、しるしを持っているわたしたちよりも劣っている。このような考え方をしはじめた途端、その信仰は堕落しはじめるのです。

もっともパウロ自身は割礼を受けていました。彼はユダヤ人の家庭に生まれたからです。ですから、彼は自分自身の割礼を否定しているわけではありませんし、否定することはできません。割礼は一度受けると、二度と取り消すことはできないからです。

また、ユダヤ人である人が割礼を受けることに反対しているわけでもありません。割礼を受けた人は、割礼を受けていない人よりも信仰的に優れているという考え方を持っていなかっただけです。

パウロが批判しているのは、今はまだ割礼を受けていない異邦人がキリスト教の洗礼を受けた場合、それに加えて割礼をも受けなければならないと、異邦人キリスト者たちに要求するユダヤ人キリスト者たちの押しつけがましさです。それをパウロが嫌がったのです。

エルサレム会議の結果は、パウロの立場を認めるものでした。人はただイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるのであり、割礼を受けることはその人が救われているかどうかのしるしではない。そのように西暦一世紀の教会会議は決議しました。その決議は今に至るまで有効です。

しかし、この論争の火種は、エルサレム会議が終わってからもしばらくの間、くすぶり続けたのではないかと思われます。ローマの信徒への手紙はその会議のずっと後に書かれたものですが、今日の個所に書かれていることの中にも、その論争の残した禍根が反映されていると見ることができます。

わたしたちが忘れてはならないことは、パウロ自身もユダヤ人であったということです。しかし、彼は自らもそうであるユダヤ人に対して、たいへん厳しい言葉を書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(29節)。

ユダヤ人たちにとって割礼を受けているということは、誇りであるようです。どういうふうに誇るのか具体的な場面が思い浮かびませんが、とにかくそのようなものであるようです。しかし、外見を誇るだけで内面が伴わない人はユダヤ人ではない。自分たちが何ものかであるかのように誇る資格はないと、パウロは言っているのです。もっと謙遜になれと言っているのです。そのことは、もちろん私も賛成です。パウロの言うとおりだと思います。

しかし、ここで一つ考えさせられることがあります。

私自身は、キリスト者が割礼を受けるべきであるなどと言いたいわけではありません。全く違います。しかし、先ほど少し申し上げましたように、わたしたちが教会で受ける洗礼は、外見上のしるしにはなりません。わたしたちの頭や体に、洗礼の水が今でもついたままということはありません。

洗礼式の写真を撮れば、それが証拠になるということはあるかもしれません。あるいは、もちろん、わたしたちが洗礼を受けるということは教会の会員になるということを意味しているのであり、教会の会員名簿にわたしたちの名前が登録されますので、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、教会に問い合わせていただけば確認することはできます。

しかし、わたしたちの洗礼式に立ち会ったとか、教会の会員名簿を見たとか、そういうことをしたことがない人の前で、わたしたちが洗礼を受けているかどうかは、ある意味で全く分からない面があるということも否定できません。

意地悪な言い方かもしれませんが、隠す気になれば隠せます。自分の心の中で無かったことにすれば、そういうふうにしてしまうことも全くできないとは言えないのです。

それが何を意味するのかということは、今日は申し上げないでおきます。しかし私は、そのことを悪いことだとは思っていません。

わたしたちの洗礼は外見上のしるしにならない。わたしたちが信仰をもって生きているかどうかは、割礼や入れ墨、あるいはネックレスやペンダントや服装のようなもので見せびらかすことはできない。

だからこそ、わたしたちに徹底的に問われるのは、わたしたちの内面であるということは、わたしたちにとって悪いことではなく、良いことであると私は思うのです。

わたしたちにとって重要なことは徹底的に内面性であるということを明らかにするために、パウロの言葉を次のように言い換えてみるとよいのです。

「外見上のキリスト者がキリスト者ではなく、また、肉に施された外見上の洗礼(そんなものはないのですが!)が洗礼ではありません。

 内面がキリスト者である者こそキリスト者であり、文字ではなく“霊”によって心に施された洗礼こそ洗礼なのです。

 その誉れは人からではなく、神から来るのです」。

(2013年6月2日、松戸小金原教会主日礼拝)