ちょっと慰められました。え、「何が?」って。
日本キリスト改革派教会ではお馴染みのアメリカ人神学者ルイス・ベルコフ(Louis Berkof [1873-1957])について調べる必要が生じましたので、Wikipediaの「ルイス・ベルコフ」を開いてみましたところ、そこに書いてあったことが(これまでの執筆者がたには失礼ながら)ほとんど内容の無いものであり、間違った記載も多かったので、かなり書き加えてしまいました。
それで、私は今日そのことを実は初めて認識したのですが、ベルコフがカルヴィン神学校の教授として初めて教義学の担当者になったのは、なんと彼が53歳(?!)のときだったようです。
年齢の話をしますといろんな方面に差し障りが出てくるかもしれませんが、でも、私はやはり驚きを隠すことができません。
今でも世界中で読み継がれ、その輝きを失っていない、あの名著『組織神学』(最初のタイトルは『改革派教義学』)の著者であるあのベルコフが、53歳まで教義学の担当者でなかったとは。
ベルコフのカルヴィン神学校教授としての最初の担当は聖書学であったということはカルヴィン神学校のホームページに記されていることです。それはずっと前に見たおぼえがあります。しかし、私がうっかり見落としていたのは、彼が聖書学を担当した期間です。ごく数年の短い間だけだったに違いないと、勝手に思い込んでいました。
ところが、それはなんと20年間でした。ベルコフが53歳になった1926年にやっと教義学の担当者となり、その仕事を71歳になる1944年までの18年間続けました。彼の神学校教授としての在任期間はトータルで38年間ですが、そのうちの半分以上は聖書学に携わっていたというわけです。
こういう事情ですから、もし仮に「ルイス・ベルコフは教義学者だったのか、それとも聖書学者だったのか」という問いを立てることができるとすれば、もしかしたら彼は後者、つまり「聖書学者」と称されるべき存在なのかもしれません。教義学者としてよりも、聖書学者としてのキャリアのほうが二年も長かったのですから。それが分かって、びっくり仰天した次第です。私一人が知らなかっただけかもしれませんが。
しかし、いちばん驚いたのは、今書いたことではなく、上に書いた点でした。彼が53歳まで教義学の担当者でなかった件。
そういえば、カール・バルトが『教会教義学』第一巻第一分冊を出版したのは1932年ですから、彼はすでに46歳だったはずです。ちなみに、私はいま(いまだに)45歳です。あ、いま、不覚にも「・・・ぼくも間に合うかもしれない」と思ってしまったじゃないですか!
私は、神学校のような場所ではいまだかつて一度も教えたことがありません。そういう場所や立場に興味を持ったことが全くありませんし、たぶんそういう仕事(とくに学内行政のような仕事)には全く向いていませんので、別に「教えてみたい」わけではありません。しかし、何らかの仕方での「教義学」の執筆ということについては、20台の頃から、かなり強い関心を抱いてきました。それで最初に取り組んだのが、ファン・ルーラーの翻訳でした。
もし私に何らかの「教義学」を書くことが許される日が来たら、それは日本の教会のほとんどの人が読んだことがないような新しいものでなければ意味が無い。でも、それは私の仕事ではないかもしれない。私はファン・ルーラーの翻訳だけで、しかもその途中で、ほんのわずかな断片だけを遺すだけで、人生が終わりになるかもしれないし、たぶんそうだろう。もしそうであるならば、私はファンルーラーだけに専念すればよいかもしれない。誰かにそれを読んでいただいて、その人に「教義学」を書いてもらうほうがよいかもしれない。
こんなことを縷々考えながらこの10年ほどを過ごしてきましたが、私はまだ、(えへへ)45歳です。ベルコフが組織神学の教授になる53歳まで、あと8年も残っているではありませんか。
こういうちょっとしたことで人は元気になるものです。最近、気が重い仕事が重なり、げっそりしていました。すでに53歳を過ぎている方々を落ち込ませるつもりはありませんが、「まだ間に合うかもしれない」という思いは、我々の人生にとって、元気に生きるために、(たとえ間に合わなくても)大事なものです。
「夢をあきらめるな!」と受験予備校のCMのような言葉づかいは、牧師のセリフとしてはどうかなあと疑問に思わないでもありません。しかし、自分の夢に何らかの(どんな小さなことでも)根拠を見出して、自分を鼓舞しながら生きることの意味が、このところ少しずつ分かりはじめたような気がしています。