2009年4月13日月曜日

裸の理性の行方(2)

それではあなたは「再生理性」をどう考えるのかというご質問をいただきました。

私はバリバリ二重予定論者ですので、カイパーらがそう呼ぶ意味での「再生者」と「非再生者」とを区別することには何ら躊躇がありません。

そして、「再生者」の理性と「非再生者」の理性は異なる結論を出すようになるだろうと主張することにも、異存はありません。

ただし私はカイパーのようないわゆる堕落前予定論者ではありません。神が初めから「再生者」と「非再生者」の二種類の人間を創造なさったというふうな信じ方はしていません。初めに神は「はなはだ善き人間」をただ一種類だけ創造してくださったのです。

ですから「再生者」の理性と「非再生者」の理性は、もともとは一つのものです。初めから二種類の理性があったわけではないのです。もともと一つであった(堕落前の)理性は、blossen Vernunft(「たんなる」または「裸の」理性)とカントが呼んでいるものと一致するはずです。

ですから、もともと一つであった(堕落前の)理性は、いわば「共通理性」でしょうし、「普遍理性」と言ってもよいかもしれません。

そして問題は、この「裸の理性」は、再生後は消失するのか、それとも残存するのかです。

私は、それは残存していると信じています。

・前記の意味での「共通理性」を否定することによって「再生理性」を絶対視すべきでないと思うからです。

・「キリスト教的物理学」と「裸の理性に基づく物理学」とがそれぞれ異なる結論を出す(?)としても、内容面で大きな差はないと思うからです。

・「再生理性」に基づく教育を行うべきキリスト教主義(私立)学校の教師のほうが「裸の理性」に基づく教育を行うべき国公立学校の教師よりもエライとも思えないからです。いったん堕落が起こると、キリスト教主義学校の崩れ方のほうがひどい。自浄作用がない。