2009年4月14日火曜日

裸の理性の行方(3)

誤解のないように申し上げておきますが、私自身はカント主義者ではありません。最初に書いたことの趣旨も(ぜひよく読んでいただきたいのですが)、ごく短い言葉で「近代精神」の思想史的淵源についての説明をしただけです。



今日の日本社会の中でこの意味での「近代精神」と全く付き合わずに生きていける人は、よほど頑丈な壁に囲まれたシェルターかゲットーの住人であるか、人を人とも思わない強靭で排他的な宗教思想の持ち主か、そうでなければかなり鈍感な人です。



また「理性はblos(裸)のまま保ち続けてよいのです」と書いたのも言葉が足りなかったかもしれませんが、もう少しきちんと書くならば「イエス・キリストへの信仰を告白している人々であっても、その中に『裸の理性』に端を発する(いわば過去の)様々な認識が残り続けていると思われるのですが、それを無理に否定したり排泄したり隠匿したりする必要はありません」という意味です。



それと、最初の記事は、ある人に宛てて書いたメールをコピーしたものです。つまり、その人と私との間でだけ理解し合っている文脈(コンテクスト)があるものです。その相手はキリスト者です。キリスト者でない人の話をしているのではありません。



そしてその相手は、詳しくは書けませんが日本では第一位と言われる国立大学の医学部を卒業した医師です。その人が「科学的理性」を全面的に否定しなければ、なんぴとも(改革派の)キリスト者であってはならないのかと悩んでおられたので、「そんなことはないと思いますよ」という意図で申し上げたまでです。



私はと言いますと、「科学的理性」を全面的に肯定しながら同時にキリスト者でありうると信じています。両者の間に矛盾や論理的不整合があってもよいのです。そんなの、どうということはない。



矛盾も論理的不整合も一切存しない、すきっとクリアな思想を持ちうるのは、全知全能の神だけです。なんと幸せなことに、我々自身はなんら神ではありません。矛盾だらけのことを語ろうが考えようが、それで人から責められる筋合いにはありません。