「ああヤバい!もうこんな時間かよ。ちっ」と、たった今、我に帰りました。本当はしなければならない仕事(週報原稿の作成です、すみません)を忘れるほど今朝から没頭して読みふけっていた本を、後ろ髪をグイグイひかれながら、そろそろ閉じなければなりません。
今朝、佐川急便が届けてくれたAmazon.co.jpからの荷物、その箱の中から取り出した二冊の本に、昼食を食べるのも忘れそうなほど没頭していました(まあ食べましたが)。
遅ればせながら(本当に「遅ればせながら」)羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)とその続編『学問とは何か』(2008年)(いずれもミネルヴァ書房)をやっと読みはじめることができました。
羽入先生のような大部の著(二冊合わせて八百頁強もある!)を書く力は私にはありませんが、ヴェーバーには言いたいことがかねがね山ほどあったので、「よくぞ言ってくださった」と肯けることばかりです。
ただ、読みはじめた動機としては、まもなく私が書かねばならない小さな作文のための資料の一つに加えうるかどうかを知りたかっただけです。マックス・ヴェーバーというこの人自身(≠この宗教社会学者が研究対象としているプロテスタンティズムと近代精神の関係という問題群)、あるいは羽入先生自身、さらには現在羽入先生との間で激しい論争を続けているらしい折原浩氏という東京大学名誉教授な人自身には、直接的には何の関心もありませんでした(それ自体は申し訳ないことでした。とくに羽入先生ごめんなさい。)
私がまもなく書かねばならない作文そのものは本当に短いものであるため、ネタばらしをしはじめると結局すべてを書いてしまいそうなのでやめますが、今日読みはじめて分かったことは、ヴェーバーの議論のなかで私が問題に感じてきた点に羽入先生は触れておられないようだということでした。ネタはかぶらないと分かり、ひとまずほっとしているところです。
それでも少しだけネタばらししますと、話はごく単純です。これは私の作文の論旨のすべてではなくほんの一部分にすぎないことですが、重要だと思っているポイントを最も短く言えば、ヴェーバーが「カルヴァンおよびカルヴァン主義の中心教理(zentrale dogma)としての予定論」という(現在のカルヴァンおよびカルヴァン主義研究では淘汰克服されているという意味で「古い」)見解を議論の根本に据え、まさにその一点からすべての議論を演繹的に展開していき、ありもしない歴史ドラマをでっち上げていったことの持つ「犯罪性」です。
このヴェーバーの議論で迷惑を被った人(とくに改革派教会の人々)は多いと思います。私は羽入先生ほどの強い心臓も論述能力も持ち合わせておらず、この件に関する一書を物することはできませんし、「マックス・ヴェーバーの犯罪」というタイトルをつけることまでは気が引けます。それでも、私の小さな作文にはせめて「マックス・ヴェーバーは迷惑だ」というサブタイトルくらいは付けてみたいものだと、ひそかに計画しているところです。