羽入辰郎先生の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)と『学問とは何か』(2008年)との二冊が我が家に届いて三日目になりますが、家族や教会のみんなに申し訳ないほどハマりっぱなしです。読書にふけるほどの時間的な余裕があるはずもないのに、本を閉じている間も気になって気になって仕方がありません。
読みふけりながら、もちろんいろんなことを考えさせられています。内容にまで立ち入ったことを書ける段階にはまだありませんが、一つ改めて悟らされつつあることは、ともかく「ヴェーバー学」なるものは無いな、ということです。
神学のあり方に関して前々から気づかされていたことは、「オリゲネス学」も「テルトゥリアヌス学」も「アウグスティヌス学」も無いし、「ルター学」も「カルヴァン学」も「ウェスレー学」も無いし、「バルト学」も「ボンヘッファー学」も「ファン・ルーラー学」も無いな、ということでした。
あるのは「神学」だけです。「教義学」はあると思うし、「倫理学」も「弁証学」もあります。また「聖書神学」も「歴史神学」も「組織神学」も「実践神学」もあります。「キリスト教学」はあってもよいでしょう。しかし、特定の個人名を冠する「学」があるとはどうしても考えられません。オリゲネスもテルトゥリアヌスもアウグスティヌスも、ルターもカルヴァンもウェスレーも、バルトもボンヘッファーもファン・ルーラーも、教会に仕えつつ(このうちバルトは「教会に通っていなかった」と指摘せざるをえませんが)、教会の学としての「神学」、とりわけ「教義学」に取り組んだのです。
他方、「宗教社会学」はあると思うし、「歴史哲学」もあります。ヴェーバーもトレルチもトクヴィルも、それらの「学」を営みはしたと思います。しかし「ヴェーバー学」は無い。「トレルチ学」も「トクヴィル学」も無い。「『ヴェーバー学者』とか呼ばれている人ってどゆこと?」と疑問に思うばかりです。
「夏目学」とか「太宰学」とか「芥川学」とかいうのが実在するでしょうか。どこか変です。ちと気色悪い。