「第二ラウンド」の意味が誤解されそうだと分かりましたので付言しておきます。
「第二ラウンド」とは日本基督教団の創立(三十余派の旧教派の合同)そのものの是非であると、そのように表現することも全く不可能であるとは言えません。しかしそうなりますと、それはもっぱら日本基督教団の外部からの第三者的な論評であるということで処理されてしまい、そのような無責任な言葉は傾聴に値しないという一言で片づけられてしまいます。
しかし、私自身は、その種の(教団の外からの第三者的な)論評は、はっきり言って嫌いです。あまり良いたとえではありませんが、「できちゃった婚」で生まれちゃった子どもに向かって「できちゃうべきではなかった」とか「生まれちゃうべきではなかった」とか言うのに似ています。そのような言い草を私は(自分なりの定義をしながら)「原理主義」と呼んでいます。
現実に生じている事実から目を背け、「そもそも、こうあるべきだった」とか「あのとき、ああすべきでなかった」などと語る。それは言っても意味のないことですし、現に存在するものを否定しているのですから、事実上「死ね」と言っているのと同じことです。
従って、私自身は「第二ラウンド」という言葉をそのような意味で用いることはありませんし、また東神大関係者が用いる場合も、そのような意味ではありません。
それでは「第二ラウンド」とはどういう意味かと言いますと、合同教会としての日本基督教団の中の各個教会における旧教派的伝統というものを「生かす」(つまり「多様性尊重の道を選ぶ」)のか、それとも「殺す」(つまり「強制的同質化の道を選ぶ」)のかの戦いであるということです。
だれもが知っている事実は、たとえ日本基督教団であっても、各個教会の現実は(本人たちがどれほど否定しようとも)色濃く「教派主義的な何か」です。
同じ日本基督教団の中で、ある教会は「連続講解説教」をしている。ある教会は「ハイデルベルク信仰問答」で受洗準備会をしている。ある教会の洗礼式には「浸礼槽」が用いられる。ある教会の聖餐式は「恵みの座」に跪いて行う。ある教会は礼拝の中で「異言」を語る。
少なくとも1990年代の前半までの日本基督教団は、そのような多様性を尊重してきました。 ところが、その後の教団に大きな変化が起こりました(と私は受けとりました)。「強制的同質化」(Gleichschaltung)は言い過ぎかもしれませんが、「教団は合同教会なのだから」という分かりやすいが無内容の殺し文句をもって各個教会の「教派主義的なるもの」に対して弾圧的発言を繰り返す人々が台頭してきたのです。