2009年4月12日日曜日

復活された救い主の釘跡


ヨハネによる福音書20・24~29

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹にいれてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

イースターおめでとうございます。今日はわたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。今朝は早天祈祷会を行いました。日曜学校の野外礼拝も行いました。午後は祝会を行います。みんなで楽しく過ごしたいと願っています。

しかしまた、今わたしたちが行っている礼拝は、召天者記念礼拝として行っています。先に召された方々の在りし日を偲び、ご遺族のうえに深い慰めがありますように祈るための礼拝です。

そのような礼拝においてもわたしたちは楽しく過ごしましょうと言いますとき、感覚的には不謹慎であると思われてしまうところがあるかもしれません。イエスさまは復活したのかもしれないが、私の大切な人は復活していない。私は置き去りにされたままである。だから、私は少しも楽しくない。そのようにお感じになる方がおられるかもしれません。それは無理もないことです。

しかし、これは先週もお話ししたことですが、イエスさまの復活を信じることができる人は、わたしたち自身の復活を信じることができるのです。復活するのはイエスさまだけではなく、わたしたち自身も復活するのです。そしてもちろん、先に召された大切な人も復活するのです。そのことを信じてよいのです。

しかし、それではなぜわたしたち自身の復活を信じることが楽しいことなのでしょうか。死んだ人が復活するということが、どうして愉快なことなのでしょうか。それは恐ろしいことではないのでしょうか。この点はよくよく考えてみる必要があるでしょう。

この問題は重要なものですので、このままずっと考えていくこともできます。しかし、まずは今日開いていただきました聖書の個所を見ていただきたいと思います。この個所に記されていますのは、イエス・キリストが復活されたという知らせを聞いたとき、十二人の弟子の一人であるトマスがそれを疑ったという、実際に起こった歴史上の出来事です。

ここで皆さんに安心していただきたいことは、死んだ人が復活するという話を信じることができないのは今に始まったことではありませんということです。科学的な理性や知識をもっている現代人はそれをなかなか信じることができないが、そのようなものをもっていなかった大昔の人々はそれを信じることができましたというふうに単純に解決することはできません。

そして驚くに値することは、言い方は少しおかしいかもしれませんが、いわばトマスの疑い方です。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

このトマスの言葉を前にして、私はいろんなことを考えさせられました。たくさんありすぎてまだうまく整理できないのですが、考えさせられたことは大体次のようなことです。

第一の点は、トマスはどのようなことを期待していたのだろうかということです。自分自身はまだ見ていない、復活なさったイエスさまの体に触ってみたい。もしそれに触ることができたなら、信じることもやぶさかではない。ここまではまだ理解できます。しかしトマスが要求していることは、イエスさまの体についているはずの釘跡に自分の指を差し入れてみたい、わき腹にも手を入れてみたいということでした。

考えさせられたことは、もし私ならこんなふうな要求はしないだろうということです。人の体に触るといっても、最大限許されるとしても、せいぜい手を握るとか背中を叩くことくらいではないでしょうか。「あなたの鼻の穴に私の指を入れさせてください」とお願いする人がいるでしょうか。「あなたの傷口にこの指を入れさせてください」とお願いするのは、どこかおかしくないでしょうか。

まだ死んでいない、生きている人に対してでさえ、そのようなお願いは普通の感覚なら決してしないはずです。トマスは何をしたかったのでしょうか。私には理解できません。とはいえ、これはあくまでも私個人の感覚です。しかし世界は広い。人の体の傷口に指を差し入れてみたいと願う人々もいるかもしれないことに気づかされました。

思い当たるのは、二つのグループの人々です。第一は警察の人々です。現場検証をする。倒れている人の傷口を探し、その中に指を差し入れる。深さ何センチと調書をとり、報告する。第二はお医者さんたちです。説明は不要でしょう。

私は、この人々のことまでどこかおかしい人だと言いたいわけではありません。むしろ自分の職務に忠実な人です。そして強いて言えばですが、トマスの疑い方は、言ってみれば、今私が挙げました警察の人々かお医者さんたちの感覚に近いものがあるかもしれないとも思うのです。この件に関して私が考えたことは、ここまでです。

考えさせられた第二の点は、なぜトマスは傷口にこだわったのだろうかということです。これについては、ある程度分かります。神学的には重要な問いです。はっきり言えそうなことは、トマスがこだわったのは、少し難しい言い方をすれば、十字架の上で息をひきとられたあの方と、復活したと言われているその存在が、同じかどうかという点、つまり、両者に連続性があるのかないのかという点であったということです。

あえて驚かせるような言い方をいたしますが、イエス・キリストの弟子たちのグループ、それはほとんど教会と呼んでもよいものですが、その人々の関心は宗教的なことでした。彼らは宗教団体であったと言ってもよいのです。ですから、復活についても、それは宗教的な事柄であるということであれば理解できるものがあると考えた面もあったはずです。

しかしその場合にも問題は、今考えている連続性の有無です。それが宗教であるということであれば、人が死んだら別の姿でよみがえるという話なら、納得はできなくても理解はできるという場合があるでしょう。体がない霊の姿でよみがえる。あるいは、人間ではない存在、たとえば天使とか悪魔とか、星とか動物とか。そういうことなら、オハナシとして聞くことができるものがあるかもしれません。

ところが、トマスが聞いた話は、イエスさまを見たということでした。はたしてそれは本当にイエスさまなのでしょうか。十字架の上で血を流して死んだあの方の、あの体が、また動いているというのでしょうか。いくらなんでも、それはありえない。こんなふうに思って、トマスは非常に違和感を覚え、疑ったのではないかと思われます。

しかし、そのトマスの前にも、イエスさまは現われてくださいました。そして彼はそのイエスさまのお姿を見て信じることができました。

「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」(26節)とあります。途中の説明をすべて省略して結論だけ申せば、この日はおそらく日曜日でした。家の中にいたというのも、ただ身を寄せ合っていたというだけではなく、おそらくはわたしたちと同じように日曜日の礼拝を行っていたのだと思われます。

「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」(同上節)とあります。これはもちろん、戸にはみな鍵がかけてあったのに、その鍵をあけてイエスさまが入ってこられたという意味ではありません。どこからともなく入ってこられたのです。ということは、十字架のイエスさまと復活のイエスさまとの両者の関係は、単純な連続性ではないということです。鍵がかかっている部屋の外から内へと入ることができる、そのような体、それが復活されたイエスさまの体であるということです。

しかし、イエスさまはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」もちろんこれは、指と手を伸ばし触ってみたら、そこには傷口がありませんでしたという話ではありません。そこには間違いなく、生々しい釘跡があったのです。ですから、連続性もあったのです。つまり、あの十字架にかけられた方が、全く同じ方が、復活されたのです。

しかし、書かれていないのではっきり断言することができないことがあります。それは、はたしてトマスが実際にイエスさまの傷口に指を差し入れたかどうかです。「差し入れた」とも「差し入れなかった」とも書かれていません。どちらでしょうか。

断言できないことを断言すべきではありません。しかし、私はどちらかといえば、差し入れなかったのではないかと考えます。その根拠になりうるのは「わたしを見たから信じたのか」(29節)というイエスさまの御言葉です。「その指を釘跡に入れたから信じたのか」とは言われていません。自分の目で見たこと、また自分に向かって語りかけられたイエスさまの御言葉を聞いたことで、トマスは信じることができたのです。

繰り返しますが、その場面はおそらく日曜日の礼拝でした。そこで行われていたことは、今わたしたちが行っているのと基本的に同じことです。賛美を歌い、聖書を学び、祈りをささげる。その中で彼らは、復活されたイエスさまを見た。そして、イエスさま御自身の言葉を聞いたのです。その見ること、聞くことを通して、十字架にかけられたときの釘跡をもつリアルな体をもつイエスさまとの出会いを果たしたのです。

イースターがなぜ喜びなのか、なぜ今日は楽しいお祝いの席なのかという問いに、そろそろ答えなければなりません。おそらくそれはイエスさまと同じようにわたしたち自身も復活するからであるというだけでは十分な答えにはなりません。先週申し上げたとおり、復活自体は救いでも解決でもないからです。イエスさまを殺した人々は殺人者として復活するのです。彼らは神の裁きを受けるために復活するのです。しかし、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、教会のメンバーになった人々は、そのような人として、すなわちキリスト者として復活するのです!

日曜日の礼拝の中でイエスさまとの出会いを果たした「疑うトマス」が「信じるトマス」へと変えられました。この日トマスは「疑うトマス」として復活するのではなく「信じるトマス」として復活することが約束されたのです!

しかし、一つ重要な点を忘れることができません。復活されたイエスさまの体に釘跡があったことの意味は、まさに連続性であるという点です。それは、わたしたち自身の復活にもそのまま当てはまります。「信じる者」になったトマスは、しかし、「疑うトマス」であった頃のことを無かったことにすることはできません。わたしたちも同じです。わたしたちが犯した罪や、わたしたちの体や心に残る傷。それらは復活のとき残ったままです。わたしが今死んだら「太った関口」として復活するでしょう。すべてを無かったことにはできません。変身願望は復活によっては満たされません。それでいいのです!

わたしたちの人生の中に無駄な要素は一つもないのです。苦労も涙も。命がけの戦いも。ですから、イースターにおいて最終的に重要なことは、復活なさったイエス・キリストと共に永遠に生きることを約束された救いの喜びのなかで、わたしたちがありのままの自分自身を愛することができるようになることなのです。

(2009年4月12日、松戸小金原教会主日礼拝)