2009年4月12日日曜日

裸の理性の行方(1)

4月5日(日)の説教の中で私が強調したかったことは、「信仰とは、納得しようがするまいがそう思うと決めてしまうことである」ということとほとんど一致していますが、微妙な違いもあります。



はっきり申し上げることができる歴史的事情としては、18世紀の哲学者インマヌエル・カントの一書に『たんなる理性の限界内の宗教』(Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)というタイトルが付けられているとおり、宗教の中にある理性がとらえきれない要素については「沈黙する」というルールを守ることが近代精神の特質であり続けてきたという点を挙げることができると思います。



カント的な限界設定には良い面もあると私は信じています。理性に対して破壊的に作用する宗教がしばしば凶暴化・狂熱化する危険があることは、わたしたちにとっては体験済みの事実ですから。



理性はblos(裸)のまま保ち続けてよいのです。納得できないことは、納得する必要がないし、納得すべきでもないのです。「疑うトマス」のままであってもよい。「疑うトマス」がいなかったら今日の諸科学は決して起こり得なかったでしょうし、飛行機やロケットが空を飛びまわる時代も見ることができなかったでしょうし、新しい文化的発展など望むべくもなかったでしょう。



私の申し上げたいことは、宗教的教義による科学的理性の否定ではないのです。それは中世の暗黒時代への逆戻りです。「常に改革し続ける教会」(ecclesia semper reformanda)の道ではありません。



私の趣旨を少しややこしく言い直せば、「復活」も「再臨」も、全く未知の将来に起こる出来事であるゆえに、(たった一回限り二千年前に起こったとされるユダヤ人イエスの復活についての使徒的証言を除いては)わたしたちが過去に体験済みの事実から得たデータをもとにして「帰納的に」(inductive)ないし「ア・ポステリオリに」(a posteriori)類推することができない事柄であるということです。



しかし、それにもかかわらず(それがいくら問うても分かりっこないことであるにもかかわらず)、わたしたち人間(21世紀の人間も然り!)は「死んだらどうなるのか」、「私の魂はどこに行くのか」と問い続けるわけです。考えるのをやめろと言われても考えてしまう。この問いはすべての人類の霊的ニードなのだと思います。



その場合に、です。わたしたち教会としては、あるいは牧師としては、人々の霊的ニードに応えることを拒否し、「そんなことはどのみち分かりっこないことなんだから、問うこと自体をやめましょう。理性などは一刻も早く捨ててしまいましょう。そのうえで、神という不可視的存在に絶対的に帰依しましょう」と、一種の思考停止を奨励するほうがよいか。



いや、そうではなく、「聖書にはこんなふうに書いてあります。実をいえば、私にも信じきれない面がたくさんあるのです。でも、悪いことを信じるよりは、良いことを信じるほうがハッピーではありませんか。科学的・論理的に描出されるカタストロフィ(地球温暖化、環境破壊、核戦争、人類滅亡)の物語も『必ずそうなる』とか『絶対に不可避的』などと言い出すや否や、その人の話は一種の信仰と化し、一種の宗教と化しているのですから」と笑いながら語るほうがよいか。



私は後者のほうが「理性的」であると思っているのです。