2009年4月19日日曜日

天から与えられなければ


ヨハネによる福音書3・22~30

「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。』ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。』」

今日、たった今、Sさんの洗礼式を行うことができました。本当にうれしいことです。準備のための勉強会のときご本人がお話しくださったことは、この日を迎えることができたのは長年の求道生活の結果であるということでした。これまでのすべてを導いてくださった神さまに、心から感謝いたします。

繰り返し申し上げてきましたとおり、わたしたちが洗礼を受けるということと、わたしたちが教会のメンバーになるということは、内容的には全く等しいことです。決して別のことではありません。洗礼式は入会式です。これは入り口なのであって出口ではないし、ゴールでもありません。信仰生活の開始または出発、それが洗礼式です。

そして、信仰生活とは教会生活です。教会と全く無関係であるような信仰生活はありません。教会には通わないが信仰はあると、どうしても言いたい人がいるかもしれません。そのようにどうしても言いたい人々に向かってどのように言えばわたしたちの立場を理解していただけるでしょうか。

教会には通わないが信仰はあるというのは、一人の神学者(ファン・ルーラー)の言葉を借りて言うなら、「音楽は聞くがコンサートには行かないというのと同じ」です。わたしたちが自分独りの部屋でCDを聴いて楽しむ。またはDVDでもよいでしょう。そのこととコンサートに行くことは同じである、少しも変わりはないと言われてしまえばそれまでです。しかし、演奏者たち、あるいは音楽家たちは、全く違うと言うでしょう。わたしの音楽は録音ではなく、生(ライヴ)で聴いてほしいと、きっと願うでしょう。

また、独りの部屋で聖書を読み、参考書を読む。あるいは独りの部屋で賛美歌を歌う。独りで祈りをささげる。それで十分であると言われればそれまでです。しかしそれで本当に満足できる人はいないということを、わたしたちは知っています。信仰生活は教会生活なのです。今申し上げたようなことすべては、独りですることではなく、教会のみんなと一緒にすることなのです。

このことは、しつこく言う必要はないことかもしれません。しかし、たとえば、わたしたちが持っているこの賛美歌のほとんどに、なぜ和音がつけられているのかを考えてみていただくとよいでしょう。ひとりでコーラスができるという人はすごい能力の持ち主なのかもしれませんが、なんだか寂しい感じもします。また、独りの部屋で祈ることは大事なことではあります。しかし、いつでもどこでも独りで祈っていると、それは単なる独り言と全く区別がつかなくなっていくでしょう。

聖書もそうです。断言できることは、この聖書という書物は、独りで読んでもほとんど全く理解できないようにできているものです。なぜなら、聖書は教会の書物だからです。つまり、これは教会の具体的な状況が前提されている書物なのであって、その前提を抜きにしてこれを読もうとしても理解できるはずがないのです。

しかし、です。「洗礼を受けて信仰生活を始めるとは教会のメンバーになることです」と申し上げますと、必ずと言ってよいほど一つの典型的な誤解に陥ってしまう人々がいるということを知らずにいるわけではありません。それはたしかに誤解なのですが、「火の無いところに煙は立たず」と言われますように、全く根拠のない、根も葉もない誤解であるとも言い切れないものがあることを否定できません。

それはどういう誤解なのかということを今日は考えてみたいと願っています。実を言いますと、今申し上げました問題が、今日お読みしました個所で扱われているのです。

ここに記されていますことは、わたしたちの救い主イエス・キリストが弟子たちと共に神の国の福音を宣べ伝える宣教のみわざを開始されて間もなくの頃に起こった出来事です。イエスさまは人々に洗礼を授けておられました。ところが、それと同じ頃に、イエスさまに洗礼を授けたことで知られるあのバプテスマのヨハネも洗礼を授けていたのです。

このことが何を意味するのかと言いますと、イエスさまが伝道活動を開始されたときにヨハネは自分自身の伝道活動をやめたわけではなかったということです。全く同じ時期に、いわば同時並行的に、イエスさまもヨハネも、それぞれ別々に洗礼を授けていたのです。

ところが、です。そのことで厄介な問題が起こってきたようなのです。それはどのような問題だったのかと申しますと、要するにイエスさまが洗礼を授ける人の数が増えていくことによって、ヨハネが洗礼を授ける人の数が減っていったということです。そしてその様子を知ったヨハネの教会の人々が、非常に腹を立てはじめたのです。「みんながあの人の方に行っています」と、ヨハネに向かって文句を言いだしたのです。

彼らが言いたかったことは、おそらく次のようなことであると思われます。「ヨハネ先生、あなたが洗礼を授けたあのイエスという人の教会が流行りはじめたせいで、こちらの教会は減る一方です。こちらが減っているのは、あなたがあのイエスという人に洗礼を授けてしまったせいではありませんか。そしてあなた自身は自分の伝道をすっかりサボるようになってしまったからではありませんか。ヨハネ先生、あなたもなんとかしてください」。

先ほど申しました誤解とは、まさにこの点に関係しています。洗礼を受けるとは教会のメンバーになることです。洗礼を受けた人の数だけ教会のメンバーがいます。そのことは誤解でも何でもなく、紛れもない事実です。しかし、そこにすぐにでも一つの誤解が紛れ込んできます。ただしそれは完全な誤解であるとは言い切れないものでもあります。この点にこの問題のとらえ方の難しさもあります。それは要するに、教会が人に洗礼を授ける理由ないし動機が、他の教会あるいは他の宗教団体との、数ないし量にかかわる単純かつ純粋な競争心に基づくものになってしまうのだということです。

私は今とてもややこしい言い方をしてしまいました。もっと分かりやすく言い直します。ヨハネの教会の人々が陥った誤解ないし罠は、要するに、洗礼を純粋かつ単純に人集めという次元だけでとらえてしまったということです。別の言い方をすれば、「天から」という視点を失い、すべてを全く地上的な次元でだけとらえきってしまったということです。

もちろん彼らに対する同情の余地はたくさんあるのです。はっきり言えそうなことは、ヨハネの教会の人々は自分たちの教会の人数がだんだん減っていくことに対して強い危機感を覚えたに違いないということです。

かつては人がたくさん集まっていた。活発な活動もできていた。そのことに喜びや誇りも感じていた。しかし、今は寂しいかぎりである。閑古鳥が鳴いている。そしてこちらの教会が今やすっかり寂しくなった原因を考えてみると、どうやら自分たちの先生が洗礼を授けたあのイエスという人が始めた新しい伝道所に人がどんどん集まり、そちらのほうで洗礼を受ける人が増えてきたからだということが、次第に明らかになってきた。それではわたしたちのほうもがんばって伝道しましょうという話になれば、それはそれで良い結果を生みそうなものですが、現実はそのようにスムーズに進んで行きませんでした。ヨハネの教会の人々の怒りの矛先は、彼らの先生に向かいはじめたのです。

本来はこちらに来るべき人々があちらのほうにどんどん盗られているというふうに彼らは事柄を認識しました。まるでデパートの安売り競争でもあるかのように。勝った負けたを争う純粋な競争原理を、伝道という事柄の中にストレートに持ち込んでしまったのです。あるいは縄張り争い。こちらの領域をあちらの人々が侵した。境界線を踏み越えてきた。我々の陣地に土足で入り込み、こちらの人々を奪って行った。

こういう考え方、ないし物事の捉え方を、こと教会に関する事柄の中へとストレートに持ち込むことがどれほど事柄にそぐわないかということについては、説明する必要はないでしょう。仮に百歩譲って、あちらの教会が増えたせいでこちらが減った、というような因果関係が証明できたとしても、だからといってあちらを恨んだりこちらに腹を立てたりするというのは、ほとんどそれは逆恨みのようなものです。

伝道とは競争でしょうか。教会の存在理由は単なる人集めでしょうか。もちろん、そのような面が全くないと言い張ることはできません。伝道は人集めではないと言い切るべきではありません。人が集まっているところが教会なのであって、人が一人もいないところは教会ではないのです。

しかし、たとえばあの伝道者パウロが、洗礼という事柄にあからさまな競争原理が持ち込まれることに対して非常に強い警戒心を抱いていた形跡があります。コリントの信徒への手紙一1・14以下に次のように記されています。

「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(一コリント1・14~17)。

ここにパウロが書いていることには明らかに誇張や矛盾があります。そのことをわたしたちは認めるべきです。すべてを真に受けるべきではありません。だれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝しますというようなことを大っぴらに言い張る伝道者は、おそらく失格者です。しかしパウロの意図はよく分かります。私は洗礼を何人に授けたというようなことがまるで伝道者自身の手柄でもあるかのように受け取られることを、パウロは非常に嫌ったのです。そんなことのためにわたしは伝道者になったのではない!そんなことのために教会が立っているのではない!そのように言いたかったのです。

バプテスマのヨハネは謙遜な人でした。自分の教会の先生が優柔不断にふるまっているように見える、その姿に腹を立てた教会の人々に対して、まあまあ落ち着いてくださいと言っているかのようです。

ヨハネが彼らに言っています。わたし自身はメシア(=キリスト)ではありませんよと言ったじゃないですかと。

あなたがたは花嫁であり、救い主イエス・キリストは花婿である。結婚生活はこれから始まる。私ヨハネはあなたがたの介添人にすぎない。これからあなたがたは救い主イエス・キリストと生涯を共にする夫婦となり、家族となるのだと。

「わたしの弟子」ではなく、「イエス・キリストの弟子」が増えること、そしてイエス・キリストの教会のメンバーが増えることを、わたしは喜んでいるのですと。

わたしたちも、このヨハネのように語れるようになりたいものです。

(2009年4月19日、松戸小金原教会主日礼拝)