「牧師養成と教会と神学の関係」については、いちおう私なりの考えがあるといえばありますが、いまだかつて披瀝して批判を請うたことがありませんので、他の人たちとは一致しないかもしれません。十分に整理もできていません。
私の考えるところによれば、教会の牧師(=「牧会」をする人=「説教」だけしていればよいわけではない人)になるために必要なのは、重要な順として(1)実践力、(2)自活力(いろんな意味での)、(3)神学的論理、であると思います。
牧師の現実によく似ていると思われるのは、小学校や中学校や高等学校の先生たちの現実です。または幼稚園の先生と言うべきかもしれない。
求められるのは、要するに、キリスト教について何の知識もない人々に、イロハのイの字から・手取り足取り、教え聞かせる力がある人。 教会は宣教の最前線(アヴァンギャルド)なのですから。
小・中・高の先生は、通常「教科書を書く人」ではありません。「教科書を書く人」は、ダンゼン大学の先生たちでしょう。
というか、「教科書を書く仕事」に関心がある人たちは、小・中・高の先生になるべきではないと思います。大学の先生になるべきです。
こう書くのは、小・中・高の先生よりも大学の先生のほうが「上」だという意味ではありません。役割が違うと言っているだけです。「教科書を書く人」と「その教科書を用いて教える人」は分業すべきだと言っているだけです。
しかし、このたとえには明らかな限界があります。教会の場合は、牧師の視座から見た教会の現実を知らない人には、「牧師の教科書」は決して書くことができません。牧師をやったことがない人にそれは書けません。
事実、いわゆる一流の(改革派系)教義学者たちには皆、教会での牧会経験があります。20世紀の人でいえば、カール・バルト然り、ファン・ルーラー然り、ベルカウワー然り、ユルゲン・モルトマン然りです。
しかし、日本の大学の先生たちの中に、小・中・高の先生を体験してから大学の先生になるというコースを辿る人がどれくらいいるでしょうか。一人もいないとは思いませんが、私はそのような人を寡聞にして知りません。
ところが、牧師と神学者の関係は、いわばそのようなものです。
「神学の教科書を書く仕事」(神学者)は「その教科書を用いて教える仕事」(牧師)をしたことがある人でなければできません。
また、教会をサボってガリベンしなければ論文の一つも書けないような人の書いた教科書などお話しにもなりません。言語道断、唾棄すべきものです。
しかしまた、それと同時に、「教科書を書く仕事」と「教科書を教える仕事」は分業すべきでもあると、非常に矛盾したことも言わなくてはならないのです。