2009年4月5日日曜日
イエス・キリストを十字架につけた人々の自己矛盾
ヨハネによる福音書19・13~16
「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。」
来週の日曜日がイースターです。わたしたちの救い主イエス・キリストは死者の中から復活されました。そのことを覚えて感謝すること、それがイースターにおいてわたしたちがなすべきことです。
しかしイースターの意義はそれだけではありません。イエス・キリストは真の神であると同時に真の人間でもあります。そのためイエス・キリストの復活は「死んだ人間の復活」であるとも語ることができます。聖書に教えられていることはイエスさまだけが復活するのであってわたしたち人間は復活しないということではありません。わたしたち人間自身もイエスさまと同じように復活するのです。そのことを信じて覚えることもイースターの意義なのです。召天者記念礼拝の目的は、故人を追悼することではなく、すべての死者の復活を覚えることにあるのです。
しかしこの話は、もちろんあまり単純なものではありません。イエス・キリストの復活にせよ、わたしたち人間の復活にせよ、それを信じる際に最初の大前提として理解すべきことは、復活させてくださるのは神であるということです。
復活を信じるとは復活させてくださる神を信じることです。「神は信じないが、復活は信じる」とか「永遠の命には興味があるが、神には興味がない」というような言い方は成り立たないのです。復活を信じる人は神を信じる必要があります。イースターにおいて信じられるべきは端的に神なのです。来週の日曜日に祝われるべきことは、イエスさまを復活させてくださったし、わたしたち人間をも復活させてくださるでありましょう神の恵みの偉大さなのです。
また、もう一つの大前提は、復活とはわたしたちの信仰であるということです。
イエス・キリストの復活については、それを自分の目で見たとか自分の手で触ったと証言している人々がいますので、信仰であるというよりは事実であると言うほうがよいかもしれません。しかし残念なことは、わたしたち自身はイエス・キリストの復活を自分の目で見ていないということです。また、わたしたちのうち誰一人として、だれかが復活する様子を見たことがあると言える人もいません。
わたしたちにできることは、イエスさまの復活を自分の目で見たとかイエスさまの復活の体を手で触った人々が書き遺した言葉を信じることだけです。そしてわたしたち人間自身の復活を信じることができるだけです。たとえば、復活の事実を「科学的に」証明するというようなことは、わたしたちにはできないことです。
ですから、ひどく冷めた言い方をお許しいただけば、復活は信仰以上のものではありません。しかし、信仰以下のものでもありません。そうであることのどこが悪いというのでしょうか。
わたしたちにとって大切なことは「何を信じるか」です。どんな人でも必ず、いろんなことを信じながら生きています。わたしたち人間は、信仰という要素を全く持たないでは生きていません。たとえば、今日、わたしたちの頭の上にミサイルが飛んでくるかもしれません。しかし飛んでこないかもしれません。それは「必ず」飛んでくるとか「絶対に」飛んでくるとか言いだすところに信仰の要素が入り込んでくるのです。「私は何も信じていない」と言い張る人もいますが、その人の話の中身をよくよく聞いてみると、至るところに信仰の要素が見当たるのです。
ですから、言い方はおかしいかもしれませんが、私がぜひお勧めしたいことは、どうせ信じるなら良いことを信じようではありませんかということです。わたしたちはどのみち何かを信じながら生きているのです。もしそうであるなら、暗いこと、悲惨なこと、最悪の結果を信じるのではなく、明るいこと、希望に満ちたこと、最善の結果を信じようではありませんか。
実際のわたしたちは、そんなこと信じなくてもよいようなことや信じるべきではないことをすっかり信じ込んで生きているようなところがあります。たとえば、わたしたちには「悪魔の存在を信じる」ということがありえます。しかし聖書的にいえば悪魔を「信じる」必要はありません。悪魔はわたしたちの信仰の対象ではないからです。わたしたちの信仰の対象は神だけなのです。
しかし、いま私が申し上げたような考え方は、多くの人々にとってはそれを手に入れるためにかなり苦労が必要なものであるということは分かっているつもりです。人間の心は放っておけば、どんどん悪いものをため込んでいくからです。悪いこと、暗いこと、後ろ向きなことばかりが焼き付いて離れない。早く忘れるほうがよいようなことが忘れられず、まるで澱のように心の中に沈澱していくのです。その行きつく先は心の病です。
しかし、繰り返し申せば、復活を信じるとは神を信じることです。死んだ人が復活することを信じるとは死の向こう側に希望を見出すということです。復活を信じるとはわたしたちの人生には絶望はないのだと確信をもって生きることです。どうせ信じるなら、このようなことを信じようではありませんか。この信仰がわたしたちを、絶望と憂鬱から救い出してくれるのです。
さて私はこれまで、イースターにおいてわたしたちが信じるべきことをお話ししてきました。けれどもイースターは来週です。今日はまだイースターではありません。これまでの話は、来週話すべきことだったかもしれません。しかしそれを今日お話ししたことにはもちろん意味があります。
今日お開きいただきました聖書の個所では、イエス・キリストはまだ復活しておられません。十字架にもかけられてもいません。ここに描かれているのは、十字架にかけられる前にポンティオ・ピラトのもとで行われた裁判の様子です。そして、まだ激しい苦しみの中におられるイエスさまのお姿です。
教会は伝統的にイエス・キリストは「わたしたちのために死んでくださった」と語ってきました。この言い方が間違っているわけではありません。しかし、聖書を読むかぎり、この出来事はどう見てもイエス・キリストは「殺された」と言わざるをえないことも事実です。イエス・キリストは「殺された」というこの表現は、たとえば、以前皆さんと共に長く学んだ使徒言行録の、とくに使徒ペトロの言葉の中に何度か出てきます。「わたしたちのために死んでくださった」イエスさまは「殺された」方でもあるのです。
この点でわたしたちが考えるべきこと、また避けて通れないことは、イエス・キリストの復活を信じることは、単純に「死んだ人の復活」ということにとどまらないということです。むしろそれは「殺された人の復活」であると言わなくてはなりません。そして同時に考えざるをえないことは、イエス・キリストを殺したのは誰なのかという問題です。
殺すとは殺人です。それは激しい罪です。伝統的にいえば、殺人の罪は死をもって処罰されるべきものです。先ほどは、イースターにおいて信じるべきことは「死んだ人の復活」であると申しました。それをわたしたちは「殺された人の復活」と呼び換えることもできます。しかしここに問題があります。それは、殺されたイエス・キリストを「殺した」人々は復活するのだろうかという問題です。
聖書的に正しい答えを言うなら、イエス・キリストを「殺した」人々も復活するのです。しかし同時にそれと同時に言わなければならないことは、イエス・キリストを殺すという自分自身の行為を「罪」であると認識することなく、したがって、自分の罪を反省したり悔い改めたりしないままで死んだ人は、殺人者である人のままで復活するのだということです。そして復活した後、その人は神の御前で審判を受け、イエス・キリストを殺した罪を厳しくとがめられ、断罪されて、永遠の死へと裁かれるのです。これこそが聖書の教えなのです。
このあたりで先週までお話ししてきたことが関係してきます。イエスさまがニコデモに向かって語った「地上のこと」とは、わたしたち人間は地上の人生の中で救い主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、信仰生活を始めるべきことであると、私は繰り返し申しました。死んだ後に洗礼を受けることはできないし、信仰生活を始めることもできません。
復活とは、いわば、わたしたち人間が地上の人生の中で得たものを取り戻すことを意味しています。もしそうだとしたら、信仰をもって生きた人は信仰者として復活するのです。そしてそれと同時に、先ほども申し上げましたとおり、イエス・キリストを殺したことを反省も悔い改めもしなかった人は、殺人者として復活するのです。
地上の人生を終えて死ぬ人のすべてが、(背中に羽の生えた)天使になるわけではないのです。神によって復活させていただける人間は、すべて自動的に善人になるわけではありません。わたしたちは地上で生きたように死ぬのです。しかしそれだけではなく、わたしたちは地上で生きたように復活するのです。
ですから、ここで申し上げておくべきことは、復活そのものは(罪からの)救いでも解決でもないということです。復活が希望であると語ることができるのは、神を信じ、救い主イエス・キリストを信じている人々だけです。地上の人生の中で信仰を与えられ、罪から救われた人々にとってだけ、復活は希望であり、喜びなのです。信仰の無い人々にとっては、復活は裁きであり、断罪なのです。そのことを忘れることも無視することもできないのです。
今日開いていただいた個所に描かれているのはイエス・キリストを殺した人々の姿です。ローマの総督ポンティオ・ピラトと、その前に集まっていたユダヤ教団の指導者、そして彼らによって扇動された群衆たちの姿です。
ピラトは群衆たちの暴動を恐れて、自己保身のために自分の正義を曲げてユダヤ教団の指導者たちの思惑に乗ってしまいました。ここには、そのピラトの非常に弱く哀れな姿が描かれています。
群衆は、理性を失い、ただひたすら感情的に凶暴化した状態の中でイエス・キリストを殺すことをピラトに要求しました。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と大合唱している彼らの姿は、ひどく恐ろしいものです。彼らのうち一人でも、自分自身がイエスさまの立場に立ってみれば、どのような思いになるだろうかと考えてみたでしょうか。もしそのことを少しでも考えてみれば、このようなひどい言い方は決してできないだろうと思わずにいられません。
ユダヤ教団の指導者、とくにここに描かれているのは祭司長たちですが、彼らが言った言葉は「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」です。しかし、ユダヤ人には彼ら自身の王がいました。また、当時のローマ皇帝が「王」と呼ばれているときの意味は「神」であるということをユダヤ人たちは知っていました。つまり、祭司長たちが言っていることは、事実上、「わたしたちにはローマ皇帝の他には神はいない」と言っているのと同じなのです。彼らはでたらめを語ったばかりか、まことの神を否定したのです。
人は生きたように死にます。また生きたように復活するのです。殺人者は殺人者として復活するのです。わたしたちはその人々の真似をしてはなりません。イエス・キリストを信じて、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けて、新しい人生を始めようではありませんか。
(2009年4月5日、松戸小金原教会主日礼拝)