2009年4月8日水曜日

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(11)

教区・支区・分区が(長老主義的な意味での)「教会会議」として機能することがありえない日本基督教団の中では、何かコトが起こったときには「信徒の立場で」、つまりおそらくは「一個人としての立場で」断固として戦うか、そうでなければ別の教団・教派へと移るかしかないんです、選択肢は。

でも、そのどちらの道を選んでも「そういうやり方ってキリスト者としてどうよ?」とカウンターパンチが飛んでくる。「愛がない」とか「冷たい」とか「自分の筋を通すことにしか興味ねえのか」とか、それこそ「信徒の分際で牧師様に向かって物申すとは、何をか言わんやだ」とか、いろいろ言われる。

私はですね、そういうことを口にして自己保身を図るクダラネエ牧師にだけはなりたくなかったんです。

そして実際の日本基督教団は、かつても・今も・これからも、各個教会の現実においては色濃く「教派主義的なるもの」のままであり続けるでしょう。

だって、考えてもみてください。

たとえば、聖餐式を(ローマの伝統に則って)「恵みの座」で行うか、(ツヴィングリ式に)会衆席まで個別に運ぶかは、どう考えてもあれか・これかです。「両方同時に行う」という芸当はおそらく決して成り立ちません。

あるいは、説教を「万人救済主義」に立って語るか、「特定救済主義」(いわゆる予定論)に立って語るかも、たぶんあれか・これかです。「両方同時に語る」という芸当ができる人は、天才か、そうでなければ自己統合が極度に難しくなっている人です。

現実の各個教会は、すべて「教派主義的なもの」で満ち満ちています。それらすべてをローラーでおしつぶし、「一つの日本基督教団」にしようとすることは事実上不可能であり、現実離れしたイデア的空想であり、虚しい思弁にすぎません。

また、各個教会の教派主義的現実に対して弾圧的に機能する「一つの日本基督教団」の理念形そのものは、それこそまさに実のところは「教派主義的なもの」を一歩も超えていなかったりするものであったとかになると、もはや笑止です。

「教派主義的なるもの」を小馬鹿にして笑う人々に言いたいですよ。あなたがたは、ご自分たちが笑っておられるそれを何一つ、一ミリたりとも超えられていないですよと。笑えば笑うほど自分の無知と恥をさらすだけですよと。