2009年4月17日金曜日

ともかく「ヴェーバー学」は無い(3)

私の脳みその中身はうんと単純にできていまして、「ヴェーバー学」(≠「ヴェーバー論」、「ヴェーバー研究」、「ヴェーバー理解」など)は日本語としてオカシイでしょうに、ということばかりがどうしても気になるのです。



神学では「バルト学」とかって、口が裂けても言わないようなところがあります(「言わせねえよ」というやつです)。



もちろん神学にもいろいろあるわけですが、改革派系の神学、とくにいわゆる律法の第三用法(キリスト教的倫理規範としての律法)を強調するグループのそれの場合には第一戒・第二戒あたりが常にアクティヴに機能し続けていますので、一個人の過度の祭り上げや偶像化や神格化のようなことが起こることに対する警戒心や監視を怠ることはないでしょう。



「ダヴィンチ学」とか「アインシュタイン学」とか「ハイデガー学」とか「ヴィトゲンシュタイン学」なんて言葉さえ、私は寡聞にして知らない。ひょっとしたら、日本も広いので、そういうたぐいの「学」がどこかにあるのかもしれませんが、もしそういうのに出会った日には、なんて異様な言葉づかいなのかと驚愕し、日本語をナメンナヨ、と怒りはじめることでしょう。



それなのに、なぜマックス・ヴェーバーだけが「ヴェーバー学」なのかが、私には全く理解できないのです。



「丸山眞男学」ってあるんですか? この際「野口英世学」でも何でもいいや。あればぜひ教えてください。確認できたら、この「ヴェーバー学」批判をただちに撤回します。



他の誰にも許されていないのに「ヴェーバー学」だけが許されると私は考えたくありません。