2009年4月26日日曜日

御父は御子にすべてを委ねられた


ヨハネによる福音書3・31~36

「『上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。』」

わたしたちが今行っていますようにヨハネによる福音書を前から順々に学んでいきますと、今日の個所のようなところも避けて通ることができません。しかし、この個所を読む人のだれもが感じるでありましょうことは、ここに書かれていることは非常に難しいことのようだということです。その場合の「難しい」の意味は、ここで用いられている表現があまりにも抽象的すぎるので具体的にいったいどのようなことをイメージすればよいのかが分からない、というあたりにあるように思われます。

ヨハネによる福音書が明らかにしていることは、このような難しい言葉をわたしたちの救い主イエス・キリスト御自身がおっしゃったのだということです。しかし、他の三つの福音書(いわゆる共観福音書)には、今日の個所に記されているようなイエスさまの言葉は全く出てきません。ヨハネによる福音書だけに出てくるという意味でこの個所のイエスさまの言葉は「ヨハネ的特徴」をもっていると言えなくもありません。

しかし、わたしたちは、今日の個所を前にして「この個所は難しい」と言うだけで手をこまねいているわけにも行きません。何とか少しでも理解しておく必要があります。ここで語られていることは何なのかをできるだけ正しくとらえて、分かりやすくお話ししなければなりません。しかし、そうすることが難しいと感じます。

結論的なことから先に言ってしまえば、この個所にはキリスト教信仰の根幹にかかわる真理が語られています。言い方を換えれば、キリスト教がなぜキリスト教なのかという点にかかわる事柄、すなわち、キリスト教をキリスト教にするものがここにあります。それはどういうことなのかについて説明してみたいと願っております。

イエスさまは「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」と語っておられます。「上から来られる方」とは、神の御子なる救い主イエス・キリストのことです。「上から来られる」も「天から来られる」も同じ意味です。「神から来られる」と言い直すこともできます。「神に属する」も同じです。イエス・キリストは父なる神のもとから地上に来られた方なのです。それに対して「地から出る者」とか「地に属する者」と言われているのは、わたしたち人間のことです。地上に生きている全人類のことです。

ここで用いられている「上から、天から、神からのもの」という表現と「地から出る」とか「地に属する」という表現は反対のことを意味しているのであり、両者が比較される関係に置かれていることは明らかです。しかし、読み間違いが起こってはならないゆえに注意すべきことは、「地から出る」とか「地に属する」の意味を、ただちに「汚らわしい」とか「罪深い」とか「悪に満ちた」というようなこととしてとらえてしまうことは間違いであるということです。少なくともこの部分ではそのような意味で理解しないほうがよいと思われます。

ここで語られていることは、「地に属する者」は「上から」または「天から」来られた方の語る言葉を「受け入れない」ということだけです。イエス・キリストの語る言葉を受け入れない人はやっぱり汚らわしいとか罪深いという話になってしまうかもしれませんが、ここでの「受け入れない」は「受け入れることができない」です。それはまるで外国語、あるいは宇宙語(?)を聴いているような感じがするので、すぐには理解できそうもないというくらいの話に近いことです。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される」とあるとおりです。

神の言語と地上の言語は異なるのです。人間は神の言語を理解できないのです。しかし、「理解できないのです」と言うだけで済ませるわけには行きません。理解できない言葉を理解できるようにするために、翻訳という手続きを経る必要があります。神の言語が人間の言語へと翻訳されなくてはならないのです。

そしてこの話が、今日の個所で私自身が最も重要であると受けとめている点につながります。キリスト教がなぜ「キリスト教」なのかという問いに対する答え、つまりキリスト教をキリスト教にするものがあるのは35節のみことばです。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」。

ご承知のとおり、ここで「御父」とは天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった創造者にしてわたしたち全人類の父なる神のことです。「御子」とは、わたしたちの救い主イエス・キリストのことです。ですから35節のみことばにおいては、その両者、すなわち、御父と御子との関係がどのようなものであるかが語られているのです。

両者の関係はどのようなものなのでしょうか。ここには「御父」が「その手に」、つまり御子の手に「すべてをゆだねられた」と語られています。天地万物の創造者である御父が「すべて」を御子イエス・キリストにゆだねられたのです。ゆだねるとは、任せること、託すことです。委任すること、委託すること、任命すること、あるいは任職することです。わたしたちが何かの委員になるというときの「委」の字の意味です。父なる神は、御自身が取り組んでこられた仕事のすべてを、そしてその仕事を通して関係をもってきたすべての存在、人や物を、御子イエス・キリストに託されたのです。

父なる神のみわざとは、大きく分けると、創造と摂理の二つです。「創造」とはこの世界を神がお造りになったことです。しかし、神は世界をお造りになっただけで放置される方ではありません。それを保ち、治め、管理してくださる方でもあります。その神の保ち、治め、管理してくださる働きを、わたしたちは「摂理」と呼ぶのです。

御父が御子に委ねられた「すべて」の中には、もちろんわたしたち自身の存在も入っています。また、今ここにいるわたしたちだけでなく、過去の世界に生きた人々も、そしてこれから生まれてくる子どもたちも含まれています。

ただし、創造のみわざはすでに完了していますので、御父が御子に委ねられたのは主に摂理のみわざです。わたしたちの存在を保ち、治め、管理する摂理のみわざのすべてが、イエス・キリストに委ねられたのです。イエス・キリストにおいて神のすべてのわざが行われるのです。それが意味していることは、神とはどういうお方か、神のみわざとは何なのかを知りたい人は、イエス・キリストの姿を見れば分かるのだということです。

この点が、先ほど申しました、神の言葉が翻訳される必要があるという点にかかわってきます。御子の姿は具体的です。地上における歴史上の一人物です。イエス・キリストの姿は神を信じない人々の目にも見えました。このひとりの人の姿が、神の言葉を、わたしたち人間に理解可能な言語へと翻訳しているのです。

御子が流してくださった血と汗と涙は、わたしたちが流す血と汗と涙と同じものです。「わたしたちの血は赤いが、御子の血は青い」というようなことはありえません。また、御子が生きられた世界は、わたしたちが生きているこの世界と同じものです。ベツレヘムも、ガリラヤ湖も、エルサレム神殿も、すべては実在しています。わたしたち自身がその場所に行くこともできます。イエスさまが歩かれたのと同じ道を歩くことができます。すべては現実そのものです。

それがわたしたちの信じている宗教の本質です。わたしたちの信仰は、ただ単なる神を信じているというようなものではなく、あの歴史上の一人物であるイエスというこの方のお姿と、この方の歴史的・現実的・地上的・具体的なお働きの中に現されたものを通して知りうる神を信じているのです。つまり、わたしたちの信じている神は、単なる神というようなものではなく、イエス・キリストという鏡に映った神であり、イエス・キリストという眼鏡を通して見える神なのです。

わたしたちの宗教は、ただ単なる神信仰ではなく、イエス・キリスト教なのです。まさにこれこそが「御父が御子にすべてを委ねられた」と言われている意味であり、キリスト教をキリスト教にするものであると語ることができるでしょう。

ややこしい話をすることをお許しください。御父と御子の関係に対してわたしたち改革派教会は、17世紀以来、一つの呼び名をつけてきました。「贖いの契約」(pactum salutis/ Covenant of Salvation)といいます。この「贖いの契約」という概念は、わたしたち改革派教会が特別に重んじてきたウェストミンスター信仰告白などに登場する「わざの契約」(foedus operum/ Covenant of Works)と「恵みの契約」(foedus gratiae/ Covenant of Grace)とに並ぶいわば第三の契約概念として、重要な意味と位置づけを与えられてきました。

「わざの契約」とは、堕落前のアダムと神との間で交わされた契約です。「わざ」の意味は、神がアダムに課された命令の内容です。すなわち、もしわたしの命令をあなたが守るという条件を満たすならば、わたしはあなたの命を守ってあげますと、神はアダムに約束してくださったのです。ところが、アダムはその命令に背いて罪を犯し、堕落しました。しかし、神は、命令に背いて罪を犯したアダムを憐れんでくださり、「恵みの契約」を結びなおしてくださいました。つまり、「恵みの契約」とは、堕落後のアダムと神との間で交わされた契約であるということになります。

このように、「わざの契約」も「恵みの契約」も、神と人間との間の契約であることには変わりありません。ところが、「贖いの契約」とは、父なる神と御子イエス・キリストとの間の契約であるという点で、前二者とは性質を異にするものです。それを神学的に突き詰めて言えば、御父も御子も同じひとりの三位一体の神御自身であるということになります。

つまり「御父が御子にすべてを委ねる」とは、結局のところ、三位一体の神の内部(?)における話であるということになります。この「贖いの契約」の内容は、厳密に考えていきますとどこまでも深く難しい問題になっていきますので、深入りすることは控えなければなりません。とにかくご理解いただきたいことは、今日の個所に出てくる、御父が御子にすべてを委ねるという話は、キリスト教信仰における重要な点であるということです。


しかし、なぜこのようなことが重要なのかについては、どうしても触れておかねばなりません。とくに旧約聖書を学ぶ人々がしばしば感じることは、(父なる)神という方は人間に裁きと滅びをもたらす、とても恐ろしい方であるということです。実際にそのように言われることが、たびたびあります。ところが、新約聖書に示されている神の姿は、間違いなく、愛と憐れみに満ちた方です。それでは両者の関係はどうなっているのかという疑問が、わたしたちの心の中に避けがたく起こってくるのです。

そのときに、です。このいわゆる「贖いの契約」という点が重要な意味を持ち始めるのです。「わたしたちの父なる神は決して恐ろしい方ではない」ということを説明するために、この点を考える必要が生じるのです。

繰り返し申せば、わたしたちの宗教は単なる神信仰ではなく、イエス・キリスト教です。イエス・キリストの十字架と復活において示された神の愛を信じる宗教です。父なる神のすべてのみわざは、イエス・キリストにおける愛の中で理解されるべきです。そのことを今日、皆さんになんとかご理解いただきたいと願いました。

しかし、かなり難しい話になりましたので、これくらいにしておきます。

(2009年4月26日、松戸小金原教会主日礼拝)