2009年4月6日月曜日

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(9)

小学校などの先生でも「勉強しない人」や「倫理的に問題ある人」、けっこういますよね。教え方がひどくて、モンスターペアレンツに突き上げられたりするダメ教師たち。この人々に対する文科省的な対応としては、従来的にはほとんどもっぱら「人事異動」で何とかしてきた。最近では「教員免許の定期更新」や「再研修制度」でしょうか。牧師の場合も、これに似たことを考えるとよいのかもしれません。

しかし、たとえば日本基督教団の場合は、各個教会の上に立つ上部政体であるべきところ(教団、教区、支区・分区)に今私が書いたような文科省的対応ができるほどの権限はありませんよね。「勉強しない牧師」であろうと「倫理的に問題ある牧師」であろうと「異端」であろうと、その人を辞めさせることや変わって(替わって)もらうことは誰にもできない。出て行ってもらいたければ私刑的つるしあげ(いわゆるリンチですね)でもするしかないし、それでも動かない場合は不満を持つ教会員の側が出ていくしかない。

しかし、その種の私刑的対応や離脱行為は「クリスチャンとしてどうよ?」という殺し文句で糾弾されることしばしばで、それをする側に(生涯消えない)罪悪感が残ったりする。どっちが悪いのか、わけわからなくなる。

はっきり言っておきますが、日本基督教団の教団は長老主義的な意味での「大会」ではあり(なり)えないし、教区や市区・分区は「中会」ではあり(なり)えません。そのことを過去68年の日本基督教団の歴史が証明していると思います。

だからこそ、日本基督教団の中で長老主義を重んじようとする人々は「連合長老会」を作ろうとします。その考えや意図はごもっともなものです。しかし、牧師の人事に関する事柄はきわめて法的な、しかも、宗教法人法的なものです。「連合長老会」は任意の団体ですので「宗教法人日本基督教団○○教会」にかかわりえません。

日本キリスト改革派教会も、日本キリスト教会も、そして日本基督教団の連合長老会も、不完全な長老主義しか実現できておらず、理想形には程遠いことは認めざるをえません。しかし、断言できることは、日本キリスト改革派教会と日本キリスト教会は、日本基督教団の連合長老会の方々に対して深い関心と同情を持ち続けているということです。

ですから私は、長老主義を重んじたいという願いから日本基督教団の連合長老会系の教会で主に仕える道をお選びになる方々のことは、お世辞でなく尊重してきたつもりです。

しかし、教団連長の諸教会が「宗教法人日本基督教団」の法規のもとに統治されている状態にとどまっておられるかぎり、日本キリスト改革派教会としても日本キリスト教会としても、法的・政治的な意味での公的なアクセスの取りようがないんです。一緒の勉強会くらいなら何年でも何十年でも続けられるんですけどね。

本当のところをいえば、日本キリスト改革派教会と日本キリスト教会と教団連合長老会との公的な「フェデレーション」を作りたいんです。これはかなり真面目な話です。しかし、そのためにはやはり、連長のみなさんが教団を飛び出す勇気を持っていただく他はないような気がしていますが、これはこんなところに書くことではないかもしれません。

問題は、連長の皆さんにとって「一緒にはできない」相手とは誰なのかです。20年くらい前の東京神学大学あたりで使われはじめたタームを持ち出すとしたら、いわゆる教団問題(事の本質から言えば「東神大紛争」)には「第一ラウンド」と「第二ラウンド」があるのです。

「第一ラウンド」は、1969年問題とも言われてきたものです。社会派とか何とか呼ばれた人々との戦いです。「無差別聖餐問題」などもこの文脈に属します。この戦いはすでに終わっているか、あるいはまもなく終わるでしょう。外面的には熾烈な戦いの様相を呈してきたことを私も体験的に知っていますが、事の本質としては他愛のない、神学的には児戯にすぎない戦いです。

「第二ラウンド」は、隠喩的ないし暗示的に1941年問題と言うべきです。合同教会としての教団のそもそもの本質を問う。「教団の中に旧教派伝統を(≠が)残し(≠残り)続けるべきか」を問う。「教団は合同教会なのだから」という殺し文句で旧教派伝統を弾圧する人々を容認しうるかという問題です。

私の見方を率直に言わせていただけば、連長の皆さんは今のままでは「第二ラウンド」の戦いには負けるだろうと思っています。これを戦わなければならないほどのモチベーションが見当たらない、またはきわめて低いんじゃないかと。

「第二ラウンド」は神学的にはあまりにも深刻なものなので、まさに決死の覚悟が必要ですが、外面的には「敬虔の衣をかぶった論敵たち」との戦いになりますので、本質が見えにくいし、後味が悪い。いつまでも引きずるイヤーな罪悪感が残ります。