2009年4月26日日曜日
御父は御子にすべてを委ねられた
ヨハネによる福音書3・31~36
「『上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。』」
わたしたちが今行っていますようにヨハネによる福音書を前から順々に学んでいきますと、今日の個所のようなところも避けて通ることができません。しかし、この個所を読む人のだれもが感じるでありましょうことは、ここに書かれていることは非常に難しいことのようだということです。その場合の「難しい」の意味は、ここで用いられている表現があまりにも抽象的すぎるので具体的にいったいどのようなことをイメージすればよいのかが分からない、というあたりにあるように思われます。
ヨハネによる福音書が明らかにしていることは、このような難しい言葉をわたしたちの救い主イエス・キリスト御自身がおっしゃったのだということです。しかし、他の三つの福音書(いわゆる共観福音書)には、今日の個所に記されているようなイエスさまの言葉は全く出てきません。ヨハネによる福音書だけに出てくるという意味でこの個所のイエスさまの言葉は「ヨハネ的特徴」をもっていると言えなくもありません。
しかし、わたしたちは、今日の個所を前にして「この個所は難しい」と言うだけで手をこまねいているわけにも行きません。何とか少しでも理解しておく必要があります。ここで語られていることは何なのかをできるだけ正しくとらえて、分かりやすくお話ししなければなりません。しかし、そうすることが難しいと感じます。
結論的なことから先に言ってしまえば、この個所にはキリスト教信仰の根幹にかかわる真理が語られています。言い方を換えれば、キリスト教がなぜキリスト教なのかという点にかかわる事柄、すなわち、キリスト教をキリスト教にするものがここにあります。それはどういうことなのかについて説明してみたいと願っております。
イエスさまは「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」と語っておられます。「上から来られる方」とは、神の御子なる救い主イエス・キリストのことです。「上から来られる」も「天から来られる」も同じ意味です。「神から来られる」と言い直すこともできます。「神に属する」も同じです。イエス・キリストは父なる神のもとから地上に来られた方なのです。それに対して「地から出る者」とか「地に属する者」と言われているのは、わたしたち人間のことです。地上に生きている全人類のことです。
ここで用いられている「上から、天から、神からのもの」という表現と「地から出る」とか「地に属する」という表現は反対のことを意味しているのであり、両者が比較される関係に置かれていることは明らかです。しかし、読み間違いが起こってはならないゆえに注意すべきことは、「地から出る」とか「地に属する」の意味を、ただちに「汚らわしい」とか「罪深い」とか「悪に満ちた」というようなこととしてとらえてしまうことは間違いであるということです。少なくともこの部分ではそのような意味で理解しないほうがよいと思われます。
ここで語られていることは、「地に属する者」は「上から」または「天から」来られた方の語る言葉を「受け入れない」ということだけです。イエス・キリストの語る言葉を受け入れない人はやっぱり汚らわしいとか罪深いという話になってしまうかもしれませんが、ここでの「受け入れない」は「受け入れることができない」です。それはまるで外国語、あるいは宇宙語(?)を聴いているような感じがするので、すぐには理解できそうもないというくらいの話に近いことです。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される」とあるとおりです。
神の言語と地上の言語は異なるのです。人間は神の言語を理解できないのです。しかし、「理解できないのです」と言うだけで済ませるわけには行きません。理解できない言葉を理解できるようにするために、翻訳という手続きを経る必要があります。神の言語が人間の言語へと翻訳されなくてはならないのです。
そしてこの話が、今日の個所で私自身が最も重要であると受けとめている点につながります。キリスト教がなぜ「キリスト教」なのかという問いに対する答え、つまりキリスト教をキリスト教にするものがあるのは35節のみことばです。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」。
ご承知のとおり、ここで「御父」とは天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった創造者にしてわたしたち全人類の父なる神のことです。「御子」とは、わたしたちの救い主イエス・キリストのことです。ですから35節のみことばにおいては、その両者、すなわち、御父と御子との関係がどのようなものであるかが語られているのです。
両者の関係はどのようなものなのでしょうか。ここには「御父」が「その手に」、つまり御子の手に「すべてをゆだねられた」と語られています。天地万物の創造者である御父が「すべて」を御子イエス・キリストにゆだねられたのです。ゆだねるとは、任せること、託すことです。委任すること、委託すること、任命すること、あるいは任職することです。わたしたちが何かの委員になるというときの「委」の字の意味です。父なる神は、御自身が取り組んでこられた仕事のすべてを、そしてその仕事を通して関係をもってきたすべての存在、人や物を、御子イエス・キリストに託されたのです。
父なる神のみわざとは、大きく分けると、創造と摂理の二つです。「創造」とはこの世界を神がお造りになったことです。しかし、神は世界をお造りになっただけで放置される方ではありません。それを保ち、治め、管理してくださる方でもあります。その神の保ち、治め、管理してくださる働きを、わたしたちは「摂理」と呼ぶのです。
御父が御子に委ねられた「すべて」の中には、もちろんわたしたち自身の存在も入っています。また、今ここにいるわたしたちだけでなく、過去の世界に生きた人々も、そしてこれから生まれてくる子どもたちも含まれています。
ただし、創造のみわざはすでに完了していますので、御父が御子に委ねられたのは主に摂理のみわざです。わたしたちの存在を保ち、治め、管理する摂理のみわざのすべてが、イエス・キリストに委ねられたのです。イエス・キリストにおいて神のすべてのわざが行われるのです。それが意味していることは、神とはどういうお方か、神のみわざとは何なのかを知りたい人は、イエス・キリストの姿を見れば分かるのだということです。
この点が、先ほど申しました、神の言葉が翻訳される必要があるという点にかかわってきます。御子の姿は具体的です。地上における歴史上の一人物です。イエス・キリストの姿は神を信じない人々の目にも見えました。このひとりの人の姿が、神の言葉を、わたしたち人間に理解可能な言語へと翻訳しているのです。
御子が流してくださった血と汗と涙は、わたしたちが流す血と汗と涙と同じものです。「わたしたちの血は赤いが、御子の血は青い」というようなことはありえません。また、御子が生きられた世界は、わたしたちが生きているこの世界と同じものです。ベツレヘムも、ガリラヤ湖も、エルサレム神殿も、すべては実在しています。わたしたち自身がその場所に行くこともできます。イエスさまが歩かれたのと同じ道を歩くことができます。すべては現実そのものです。
それがわたしたちの信じている宗教の本質です。わたしたちの信仰は、ただ単なる神を信じているというようなものではなく、あの歴史上の一人物であるイエスというこの方のお姿と、この方の歴史的・現実的・地上的・具体的なお働きの中に現されたものを通して知りうる神を信じているのです。つまり、わたしたちの信じている神は、単なる神というようなものではなく、イエス・キリストという鏡に映った神であり、イエス・キリストという眼鏡を通して見える神なのです。
わたしたちの宗教は、ただ単なる神信仰ではなく、イエス・キリスト教なのです。まさにこれこそが「御父が御子にすべてを委ねられた」と言われている意味であり、キリスト教をキリスト教にするものであると語ることができるでしょう。
ややこしい話をすることをお許しください。御父と御子の関係に対してわたしたち改革派教会は、17世紀以来、一つの呼び名をつけてきました。「贖いの契約」(pactum salutis/ Covenant of Salvation)といいます。この「贖いの契約」という概念は、わたしたち改革派教会が特別に重んじてきたウェストミンスター信仰告白などに登場する「わざの契約」(foedus operum/ Covenant of Works)と「恵みの契約」(foedus gratiae/ Covenant of Grace)とに並ぶいわば第三の契約概念として、重要な意味と位置づけを与えられてきました。
「わざの契約」とは、堕落前のアダムと神との間で交わされた契約です。「わざ」の意味は、神がアダムに課された命令の内容です。すなわち、もしわたしの命令をあなたが守るという条件を満たすならば、わたしはあなたの命を守ってあげますと、神はアダムに約束してくださったのです。ところが、アダムはその命令に背いて罪を犯し、堕落しました。しかし、神は、命令に背いて罪を犯したアダムを憐れんでくださり、「恵みの契約」を結びなおしてくださいました。つまり、「恵みの契約」とは、堕落後のアダムと神との間で交わされた契約であるということになります。
このように、「わざの契約」も「恵みの契約」も、神と人間との間の契約であることには変わりありません。ところが、「贖いの契約」とは、父なる神と御子イエス・キリストとの間の契約であるという点で、前二者とは性質を異にするものです。それを神学的に突き詰めて言えば、御父も御子も同じひとりの三位一体の神御自身であるということになります。
つまり「御父が御子にすべてを委ねる」とは、結局のところ、三位一体の神の内部(?)における話であるということになります。この「贖いの契約」の内容は、厳密に考えていきますとどこまでも深く難しい問題になっていきますので、深入りすることは控えなければなりません。とにかくご理解いただきたいことは、今日の個所に出てくる、御父が御子にすべてを委ねるという話は、キリスト教信仰における重要な点であるということです。
しかし、なぜこのようなことが重要なのかについては、どうしても触れておかねばなりません。とくに旧約聖書を学ぶ人々がしばしば感じることは、(父なる)神という方は人間に裁きと滅びをもたらす、とても恐ろしい方であるということです。実際にそのように言われることが、たびたびあります。ところが、新約聖書に示されている神の姿は、間違いなく、愛と憐れみに満ちた方です。それでは両者の関係はどうなっているのかという疑問が、わたしたちの心の中に避けがたく起こってくるのです。
そのときに、です。このいわゆる「贖いの契約」という点が重要な意味を持ち始めるのです。「わたしたちの父なる神は決して恐ろしい方ではない」ということを説明するために、この点を考える必要が生じるのです。
繰り返し申せば、わたしたちの宗教は単なる神信仰ではなく、イエス・キリスト教です。イエス・キリストの十字架と復活において示された神の愛を信じる宗教です。父なる神のすべてのみわざは、イエス・キリストにおける愛の中で理解されるべきです。そのことを今日、皆さんになんとかご理解いただきたいと願いました。
しかし、かなり難しい話になりましたので、これくらいにしておきます。
(2009年4月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年4月19日日曜日
天から与えられなければ
ヨハネによる福音書3・22~30
「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。』ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。』」
今日、たった今、Sさんの洗礼式を行うことができました。本当にうれしいことです。準備のための勉強会のときご本人がお話しくださったことは、この日を迎えることができたのは長年の求道生活の結果であるということでした。これまでのすべてを導いてくださった神さまに、心から感謝いたします。
繰り返し申し上げてきましたとおり、わたしたちが洗礼を受けるということと、わたしたちが教会のメンバーになるということは、内容的には全く等しいことです。決して別のことではありません。洗礼式は入会式です。これは入り口なのであって出口ではないし、ゴールでもありません。信仰生活の開始または出発、それが洗礼式です。
そして、信仰生活とは教会生活です。教会と全く無関係であるような信仰生活はありません。教会には通わないが信仰はあると、どうしても言いたい人がいるかもしれません。そのようにどうしても言いたい人々に向かってどのように言えばわたしたちの立場を理解していただけるでしょうか。
教会には通わないが信仰はあるというのは、一人の神学者(ファン・ルーラー)の言葉を借りて言うなら、「音楽は聞くがコンサートには行かないというのと同じ」です。わたしたちが自分独りの部屋でCDを聴いて楽しむ。またはDVDでもよいでしょう。そのこととコンサートに行くことは同じである、少しも変わりはないと言われてしまえばそれまでです。しかし、演奏者たち、あるいは音楽家たちは、全く違うと言うでしょう。わたしの音楽は録音ではなく、生(ライヴ)で聴いてほしいと、きっと願うでしょう。
また、独りの部屋で聖書を読み、参考書を読む。あるいは独りの部屋で賛美歌を歌う。独りで祈りをささげる。それで十分であると言われればそれまでです。しかしそれで本当に満足できる人はいないということを、わたしたちは知っています。信仰生活は教会生活なのです。今申し上げたようなことすべては、独りですることではなく、教会のみんなと一緒にすることなのです。
このことは、しつこく言う必要はないことかもしれません。しかし、たとえば、わたしたちが持っているこの賛美歌のほとんどに、なぜ和音がつけられているのかを考えてみていただくとよいでしょう。ひとりでコーラスができるという人はすごい能力の持ち主なのかもしれませんが、なんだか寂しい感じもします。また、独りの部屋で祈ることは大事なことではあります。しかし、いつでもどこでも独りで祈っていると、それは単なる独り言と全く区別がつかなくなっていくでしょう。
聖書もそうです。断言できることは、この聖書という書物は、独りで読んでもほとんど全く理解できないようにできているものです。なぜなら、聖書は教会の書物だからです。つまり、これは教会の具体的な状況が前提されている書物なのであって、その前提を抜きにしてこれを読もうとしても理解できるはずがないのです。
しかし、です。「洗礼を受けて信仰生活を始めるとは教会のメンバーになることです」と申し上げますと、必ずと言ってよいほど一つの典型的な誤解に陥ってしまう人々がいるということを知らずにいるわけではありません。それはたしかに誤解なのですが、「火の無いところに煙は立たず」と言われますように、全く根拠のない、根も葉もない誤解であるとも言い切れないものがあることを否定できません。
それはどういう誤解なのかということを今日は考えてみたいと願っています。実を言いますと、今申し上げました問題が、今日お読みしました個所で扱われているのです。
ここに記されていますことは、わたしたちの救い主イエス・キリストが弟子たちと共に神の国の福音を宣べ伝える宣教のみわざを開始されて間もなくの頃に起こった出来事です。イエスさまは人々に洗礼を授けておられました。ところが、それと同じ頃に、イエスさまに洗礼を授けたことで知られるあのバプテスマのヨハネも洗礼を授けていたのです。
このことが何を意味するのかと言いますと、イエスさまが伝道活動を開始されたときにヨハネは自分自身の伝道活動をやめたわけではなかったということです。全く同じ時期に、いわば同時並行的に、イエスさまもヨハネも、それぞれ別々に洗礼を授けていたのです。
ところが、です。そのことで厄介な問題が起こってきたようなのです。それはどのような問題だったのかと申しますと、要するにイエスさまが洗礼を授ける人の数が増えていくことによって、ヨハネが洗礼を授ける人の数が減っていったということです。そしてその様子を知ったヨハネの教会の人々が、非常に腹を立てはじめたのです。「みんながあの人の方に行っています」と、ヨハネに向かって文句を言いだしたのです。
彼らが言いたかったことは、おそらく次のようなことであると思われます。「ヨハネ先生、あなたが洗礼を授けたあのイエスという人の教会が流行りはじめたせいで、こちらの教会は減る一方です。こちらが減っているのは、あなたがあのイエスという人に洗礼を授けてしまったせいではありませんか。そしてあなた自身は自分の伝道をすっかりサボるようになってしまったからではありませんか。ヨハネ先生、あなたもなんとかしてください」。
先ほど申しました誤解とは、まさにこの点に関係しています。洗礼を受けるとは教会のメンバーになることです。洗礼を受けた人の数だけ教会のメンバーがいます。そのことは誤解でも何でもなく、紛れもない事実です。しかし、そこにすぐにでも一つの誤解が紛れ込んできます。ただしそれは完全な誤解であるとは言い切れないものでもあります。この点にこの問題のとらえ方の難しさもあります。それは要するに、教会が人に洗礼を授ける理由ないし動機が、他の教会あるいは他の宗教団体との、数ないし量にかかわる単純かつ純粋な競争心に基づくものになってしまうのだということです。
私は今とてもややこしい言い方をしてしまいました。もっと分かりやすく言い直します。ヨハネの教会の人々が陥った誤解ないし罠は、要するに、洗礼を純粋かつ単純に人集めという次元だけでとらえてしまったということです。別の言い方をすれば、「天から」という視点を失い、すべてを全く地上的な次元でだけとらえきってしまったということです。
もちろん彼らに対する同情の余地はたくさんあるのです。はっきり言えそうなことは、ヨハネの教会の人々は自分たちの教会の人数がだんだん減っていくことに対して強い危機感を覚えたに違いないということです。
かつては人がたくさん集まっていた。活発な活動もできていた。そのことに喜びや誇りも感じていた。しかし、今は寂しいかぎりである。閑古鳥が鳴いている。そしてこちらの教会が今やすっかり寂しくなった原因を考えてみると、どうやら自分たちの先生が洗礼を授けたあのイエスという人が始めた新しい伝道所に人がどんどん集まり、そちらのほうで洗礼を受ける人が増えてきたからだということが、次第に明らかになってきた。それではわたしたちのほうもがんばって伝道しましょうという話になれば、それはそれで良い結果を生みそうなものですが、現実はそのようにスムーズに進んで行きませんでした。ヨハネの教会の人々の怒りの矛先は、彼らの先生に向かいはじめたのです。
本来はこちらに来るべき人々があちらのほうにどんどん盗られているというふうに彼らは事柄を認識しました。まるでデパートの安売り競争でもあるかのように。勝った負けたを争う純粋な競争原理を、伝道という事柄の中にストレートに持ち込んでしまったのです。あるいは縄張り争い。こちらの領域をあちらの人々が侵した。境界線を踏み越えてきた。我々の陣地に土足で入り込み、こちらの人々を奪って行った。
こういう考え方、ないし物事の捉え方を、こと教会に関する事柄の中へとストレートに持ち込むことがどれほど事柄にそぐわないかということについては、説明する必要はないでしょう。仮に百歩譲って、あちらの教会が増えたせいでこちらが減った、というような因果関係が証明できたとしても、だからといってあちらを恨んだりこちらに腹を立てたりするというのは、ほとんどそれは逆恨みのようなものです。
伝道とは競争でしょうか。教会の存在理由は単なる人集めでしょうか。もちろん、そのような面が全くないと言い張ることはできません。伝道は人集めではないと言い切るべきではありません。人が集まっているところが教会なのであって、人が一人もいないところは教会ではないのです。
しかし、たとえばあの伝道者パウロが、洗礼という事柄にあからさまな競争原理が持ち込まれることに対して非常に強い警戒心を抱いていた形跡があります。コリントの信徒への手紙一1・14以下に次のように記されています。
「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(一コリント1・14~17)。
ここにパウロが書いていることには明らかに誇張や矛盾があります。そのことをわたしたちは認めるべきです。すべてを真に受けるべきではありません。だれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝しますというようなことを大っぴらに言い張る伝道者は、おそらく失格者です。しかしパウロの意図はよく分かります。私は洗礼を何人に授けたというようなことがまるで伝道者自身の手柄でもあるかのように受け取られることを、パウロは非常に嫌ったのです。そんなことのためにわたしは伝道者になったのではない!そんなことのために教会が立っているのではない!そのように言いたかったのです。
バプテスマのヨハネは謙遜な人でした。自分の教会の先生が優柔不断にふるまっているように見える、その姿に腹を立てた教会の人々に対して、まあまあ落ち着いてくださいと言っているかのようです。
ヨハネが彼らに言っています。わたし自身はメシア(=キリスト)ではありませんよと言ったじゃないですかと。
あなたがたは花嫁であり、救い主イエス・キリストは花婿である。結婚生活はこれから始まる。私ヨハネはあなたがたの介添人にすぎない。これからあなたがたは救い主イエス・キリストと生涯を共にする夫婦となり、家族となるのだと。
「わたしの弟子」ではなく、「イエス・キリストの弟子」が増えること、そしてイエス・キリストの教会のメンバーが増えることを、わたしは喜んでいるのですと。
わたしたちも、このヨハネのように語れるようになりたいものです。
(2009年4月19日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年4月17日金曜日
ともかく「ヴェーバー学」は無い(3)
私の脳みその中身はうんと単純にできていまして、「ヴェーバー学」(≠「ヴェーバー論」、「ヴェーバー研究」、「ヴェーバー理解」など)は日本語としてオカシイでしょうに、ということばかりがどうしても気になるのです。
神学では「バルト学」とかって、口が裂けても言わないようなところがあります(「言わせねえよ」というやつです)。
もちろん神学にもいろいろあるわけですが、改革派系の神学、とくにいわゆる律法の第三用法(キリスト教的倫理規範としての律法)を強調するグループのそれの場合には第一戒・第二戒あたりが常にアクティヴに機能し続けていますので、一個人の過度の祭り上げや偶像化や神格化のようなことが起こることに対する警戒心や監視を怠ることはないでしょう。
「ダヴィンチ学」とか「アインシュタイン学」とか「ハイデガー学」とか「ヴィトゲンシュタイン学」なんて言葉さえ、私は寡聞にして知らない。ひょっとしたら、日本も広いので、そういうたぐいの「学」がどこかにあるのかもしれませんが、もしそういうのに出会った日には、なんて異様な言葉づかいなのかと驚愕し、日本語をナメンナヨ、と怒りはじめることでしょう。
それなのに、なぜマックス・ヴェーバーだけが「ヴェーバー学」なのかが、私には全く理解できないのです。
「丸山眞男学」ってあるんですか? この際「野口英世学」でも何でもいいや。あればぜひ教えてください。確認できたら、この「ヴェーバー学」批判をただちに撤回します。
他の誰にも許されていないのに「ヴェーバー学」だけが許されると私は考えたくありません。
2009年4月16日木曜日
ともかく「ヴェーバー学」は無い(1)
羽入辰郎先生の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)と『学問とは何か』(2008年)との二冊が我が家に届いて三日目になりますが、家族や教会のみんなに申し訳ないほどハマりっぱなしです。読書にふけるほどの時間的な余裕があるはずもないのに、本を閉じている間も気になって気になって仕方がありません。
読みふけりながら、もちろんいろんなことを考えさせられています。内容にまで立ち入ったことを書ける段階にはまだありませんが、一つ改めて悟らされつつあることは、ともかく「ヴェーバー学」なるものは無いな、ということです。
神学のあり方に関して前々から気づかされていたことは、「オリゲネス学」も「テルトゥリアヌス学」も「アウグスティヌス学」も無いし、「ルター学」も「カルヴァン学」も「ウェスレー学」も無いし、「バルト学」も「ボンヘッファー学」も「ファン・ルーラー学」も無いな、ということでした。
あるのは「神学」だけです。「教義学」はあると思うし、「倫理学」も「弁証学」もあります。また「聖書神学」も「歴史神学」も「組織神学」も「実践神学」もあります。「キリスト教学」はあってもよいでしょう。しかし、特定の個人名を冠する「学」があるとはどうしても考えられません。オリゲネスもテルトゥリアヌスもアウグスティヌスも、ルターもカルヴァンもウェスレーも、バルトもボンヘッファーもファン・ルーラーも、教会に仕えつつ(このうちバルトは「教会に通っていなかった」と指摘せざるをえませんが)、教会の学としての「神学」、とりわけ「教義学」に取り組んだのです。
他方、「宗教社会学」はあると思うし、「歴史哲学」もあります。ヴェーバーもトレルチもトクヴィルも、それらの「学」を営みはしたと思います。しかし「ヴェーバー学」は無い。「トレルチ学」も「トクヴィル学」も無い。「『ヴェーバー学者』とか呼ばれている人ってどゆこと?」と疑問に思うばかりです。
「夏目学」とか「太宰学」とか「芥川学」とかいうのが実在するでしょうか。どこか変です。ちと気色悪い。
2009年4月14日火曜日
マックス・ヴェーバーは迷惑だ
今朝、佐川急便が届けてくれたAmazon.co.jpからの荷物、その箱の中から取り出した二冊の本に、昼食を食べるのも忘れそうなほど没頭していました(まあ食べましたが)。
遅ればせながら(本当に「遅ればせながら」)羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)とその続編『学問とは何か』(2008年)(いずれもミネルヴァ書房)をやっと読みはじめることができました。
羽入先生のような大部の著(二冊合わせて八百頁強もある!)を書く力は私にはありませんが、ヴェーバーには言いたいことがかねがね山ほどあったので、「よくぞ言ってくださった」と肯けることばかりです。
ただ、読みはじめた動機としては、まもなく私が書かねばならない小さな作文のための資料の一つに加えうるかどうかを知りたかっただけです。マックス・ヴェーバーというこの人自身(≠この宗教社会学者が研究対象としているプロテスタンティズムと近代精神の関係という問題群)、あるいは羽入先生自身、さらには現在羽入先生との間で激しい論争を続けているらしい折原浩氏という東京大学名誉教授な人自身には、直接的には何の関心もありませんでした(それ自体は申し訳ないことでした。とくに羽入先生ごめんなさい。)
私がまもなく書かねばならない作文そのものは本当に短いものであるため、ネタばらしをしはじめると結局すべてを書いてしまいそうなのでやめますが、今日読みはじめて分かったことは、ヴェーバーの議論のなかで私が問題に感じてきた点に羽入先生は触れておられないようだということでした。ネタはかぶらないと分かり、ひとまずほっとしているところです。
それでも少しだけネタばらししますと、話はごく単純です。これは私の作文の論旨のすべてではなくほんの一部分にすぎないことですが、重要だと思っているポイントを最も短く言えば、ヴェーバーが「カルヴァンおよびカルヴァン主義の中心教理(zentrale dogma)としての予定論」という(現在のカルヴァンおよびカルヴァン主義研究では淘汰克服されているという意味で「古い」)見解を議論の根本に据え、まさにその一点からすべての議論を演繹的に展開していき、ありもしない歴史ドラマをでっち上げていったことの持つ「犯罪性」です。
このヴェーバーの議論で迷惑を被った人(とくに改革派教会の人々)は多いと思います。私は羽入先生ほどの強い心臓も論述能力も持ち合わせておらず、この件に関する一書を物することはできませんし、「マックス・ヴェーバーの犯罪」というタイトルをつけることまでは気が引けます。それでも、私の小さな作文にはせめて「マックス・ヴェーバーは迷惑だ」というサブタイトルくらいは付けてみたいものだと、ひそかに計画しているところです。
裸の理性の行方(3)
誤解のないように申し上げておきますが、私自身はカント主義者ではありません。最初に書いたことの趣旨も(ぜひよく読んでいただきたいのですが)、ごく短い言葉で「近代精神」の思想史的淵源についての説明をしただけです。
今日の日本社会の中でこの意味での「近代精神」と全く付き合わずに生きていける人は、よほど頑丈な壁に囲まれたシェルターかゲットーの住人であるか、人を人とも思わない強靭で排他的な宗教思想の持ち主か、そうでなければかなり鈍感な人です。
また「理性はblos(裸)のまま保ち続けてよいのです」と書いたのも言葉が足りなかったかもしれませんが、もう少しきちんと書くならば「イエス・キリストへの信仰を告白している人々であっても、その中に『裸の理性』に端を発する(いわば過去の)様々な認識が残り続けていると思われるのですが、それを無理に否定したり排泄したり隠匿したりする必要はありません」という意味です。
それと、最初の記事は、ある人に宛てて書いたメールをコピーしたものです。つまり、その人と私との間でだけ理解し合っている文脈(コンテクスト)があるものです。その相手はキリスト者です。キリスト者でない人の話をしているのではありません。
そしてその相手は、詳しくは書けませんが日本では第一位と言われる国立大学の医学部を卒業した医師です。その人が「科学的理性」を全面的に否定しなければ、なんぴとも(改革派の)キリスト者であってはならないのかと悩んでおられたので、「そんなことはないと思いますよ」という意図で申し上げたまでです。
私はと言いますと、「科学的理性」を全面的に肯定しながら同時にキリスト者でありうると信じています。両者の間に矛盾や論理的不整合があってもよいのです。そんなの、どうということはない。
矛盾も論理的不整合も一切存しない、すきっとクリアな思想を持ちうるのは、全知全能の神だけです。なんと幸せなことに、我々自身はなんら神ではありません。矛盾だらけのことを語ろうが考えようが、それで人から責められる筋合いにはありません。
2009年4月13日月曜日
裸の理性の行方(2)
それではあなたは「再生理性」をどう考えるのかというご質問をいただきました。
私はバリバリ二重予定論者ですので、カイパーらがそう呼ぶ意味での「再生者」と「非再生者」とを区別することには何ら躊躇がありません。
そして、「再生者」の理性と「非再生者」の理性は異なる結論を出すようになるだろうと主張することにも、異存はありません。
ただし私はカイパーのようないわゆる堕落前予定論者ではありません。神が初めから「再生者」と「非再生者」の二種類の人間を創造なさったというふうな信じ方はしていません。初めに神は「はなはだ善き人間」をただ一種類だけ創造してくださったのです。
ですから「再生者」の理性と「非再生者」の理性は、もともとは一つのものです。初めから二種類の理性があったわけではないのです。もともと一つであった(堕落前の)理性は、blossen Vernunft(「たんなる」または「裸の」理性)とカントが呼んでいるものと一致するはずです。
ですから、もともと一つであった(堕落前の)理性は、いわば「共通理性」でしょうし、「普遍理性」と言ってもよいかもしれません。
そして問題は、この「裸の理性」は、再生後は消失するのか、それとも残存するのかです。
私は、それは残存していると信じています。
・前記の意味での「共通理性」を否定することによって「再生理性」を絶対視すべきでないと思うからです。
・「キリスト教的物理学」と「裸の理性に基づく物理学」とがそれぞれ異なる結論を出す(?)としても、内容面で大きな差はないと思うからです。
・「再生理性」に基づく教育を行うべきキリスト教主義(私立)学校の教師のほうが「裸の理性」に基づく教育を行うべき国公立学校の教師よりもエライとも思えないからです。いったん堕落が起こると、キリスト教主義学校の崩れ方のほうがひどい。自浄作用がない。
2009年4月12日日曜日
復活された救い主の釘跡
ヨハネによる福音書20・24~29
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹にいれてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」
イースターおめでとうございます。今日はわたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。今朝は早天祈祷会を行いました。日曜学校の野外礼拝も行いました。午後は祝会を行います。みんなで楽しく過ごしたいと願っています。
しかしまた、今わたしたちが行っている礼拝は、召天者記念礼拝として行っています。先に召された方々の在りし日を偲び、ご遺族のうえに深い慰めがありますように祈るための礼拝です。
そのような礼拝においてもわたしたちは楽しく過ごしましょうと言いますとき、感覚的には不謹慎であると思われてしまうところがあるかもしれません。イエスさまは復活したのかもしれないが、私の大切な人は復活していない。私は置き去りにされたままである。だから、私は少しも楽しくない。そのようにお感じになる方がおられるかもしれません。それは無理もないことです。
しかし、これは先週もお話ししたことですが、イエスさまの復活を信じることができる人は、わたしたち自身の復活を信じることができるのです。復活するのはイエスさまだけではなく、わたしたち自身も復活するのです。そしてもちろん、先に召された大切な人も復活するのです。そのことを信じてよいのです。
しかし、それではなぜわたしたち自身の復活を信じることが楽しいことなのでしょうか。死んだ人が復活するということが、どうして愉快なことなのでしょうか。それは恐ろしいことではないのでしょうか。この点はよくよく考えてみる必要があるでしょう。
この問題は重要なものですので、このままずっと考えていくこともできます。しかし、まずは今日開いていただきました聖書の個所を見ていただきたいと思います。この個所に記されていますのは、イエス・キリストが復活されたという知らせを聞いたとき、十二人の弟子の一人であるトマスがそれを疑ったという、実際に起こった歴史上の出来事です。
ここで皆さんに安心していただきたいことは、死んだ人が復活するという話を信じることができないのは今に始まったことではありませんということです。科学的な理性や知識をもっている現代人はそれをなかなか信じることができないが、そのようなものをもっていなかった大昔の人々はそれを信じることができましたというふうに単純に解決することはできません。
そして驚くに値することは、言い方は少しおかしいかもしれませんが、いわばトマスの疑い方です。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。
このトマスの言葉を前にして、私はいろんなことを考えさせられました。たくさんありすぎてまだうまく整理できないのですが、考えさせられたことは大体次のようなことです。
第一の点は、トマスはどのようなことを期待していたのだろうかということです。自分自身はまだ見ていない、復活なさったイエスさまの体に触ってみたい。もしそれに触ることができたなら、信じることもやぶさかではない。ここまではまだ理解できます。しかしトマスが要求していることは、イエスさまの体についているはずの釘跡に自分の指を差し入れてみたい、わき腹にも手を入れてみたいということでした。
考えさせられたことは、もし私ならこんなふうな要求はしないだろうということです。人の体に触るといっても、最大限許されるとしても、せいぜい手を握るとか背中を叩くことくらいではないでしょうか。「あなたの鼻の穴に私の指を入れさせてください」とお願いする人がいるでしょうか。「あなたの傷口にこの指を入れさせてください」とお願いするのは、どこかおかしくないでしょうか。
まだ死んでいない、生きている人に対してでさえ、そのようなお願いは普通の感覚なら決してしないはずです。トマスは何をしたかったのでしょうか。私には理解できません。とはいえ、これはあくまでも私個人の感覚です。しかし世界は広い。人の体の傷口に指を差し入れてみたいと願う人々もいるかもしれないことに気づかされました。
思い当たるのは、二つのグループの人々です。第一は警察の人々です。現場検証をする。倒れている人の傷口を探し、その中に指を差し入れる。深さ何センチと調書をとり、報告する。第二はお医者さんたちです。説明は不要でしょう。
私は、この人々のことまでどこかおかしい人だと言いたいわけではありません。むしろ自分の職務に忠実な人です。そして強いて言えばですが、トマスの疑い方は、言ってみれば、今私が挙げました警察の人々かお医者さんたちの感覚に近いものがあるかもしれないとも思うのです。この件に関して私が考えたことは、ここまでです。
考えさせられた第二の点は、なぜトマスは傷口にこだわったのだろうかということです。これについては、ある程度分かります。神学的には重要な問いです。はっきり言えそうなことは、トマスがこだわったのは、少し難しい言い方をすれば、十字架の上で息をひきとられたあの方と、復活したと言われているその存在が、同じかどうかという点、つまり、両者に連続性があるのかないのかという点であったということです。
あえて驚かせるような言い方をいたしますが、イエス・キリストの弟子たちのグループ、それはほとんど教会と呼んでもよいものですが、その人々の関心は宗教的なことでした。彼らは宗教団体であったと言ってもよいのです。ですから、復活についても、それは宗教的な事柄であるということであれば理解できるものがあると考えた面もあったはずです。
しかしその場合にも問題は、今考えている連続性の有無です。それが宗教であるということであれば、人が死んだら別の姿でよみがえるという話なら、納得はできなくても理解はできるという場合があるでしょう。体がない霊の姿でよみがえる。あるいは、人間ではない存在、たとえば天使とか悪魔とか、星とか動物とか。そういうことなら、オハナシとして聞くことができるものがあるかもしれません。
ところが、トマスが聞いた話は、イエスさまを見たということでした。はたしてそれは本当にイエスさまなのでしょうか。十字架の上で血を流して死んだあの方の、あの体が、また動いているというのでしょうか。いくらなんでも、それはありえない。こんなふうに思って、トマスは非常に違和感を覚え、疑ったのではないかと思われます。
しかし、そのトマスの前にも、イエスさまは現われてくださいました。そして彼はそのイエスさまのお姿を見て信じることができました。
「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」(26節)とあります。途中の説明をすべて省略して結論だけ申せば、この日はおそらく日曜日でした。家の中にいたというのも、ただ身を寄せ合っていたというだけではなく、おそらくはわたしたちと同じように日曜日の礼拝を行っていたのだと思われます。
「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」(同上節)とあります。これはもちろん、戸にはみな鍵がかけてあったのに、その鍵をあけてイエスさまが入ってこられたという意味ではありません。どこからともなく入ってこられたのです。ということは、十字架のイエスさまと復活のイエスさまとの両者の関係は、単純な連続性ではないということです。鍵がかかっている部屋の外から内へと入ることができる、そのような体、それが復活されたイエスさまの体であるということです。
しかし、イエスさまはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」もちろんこれは、指と手を伸ばし触ってみたら、そこには傷口がありませんでしたという話ではありません。そこには間違いなく、生々しい釘跡があったのです。ですから、連続性もあったのです。つまり、あの十字架にかけられた方が、全く同じ方が、復活されたのです。
しかし、書かれていないのではっきり断言することができないことがあります。それは、はたしてトマスが実際にイエスさまの傷口に指を差し入れたかどうかです。「差し入れた」とも「差し入れなかった」とも書かれていません。どちらでしょうか。
断言できないことを断言すべきではありません。しかし、私はどちらかといえば、差し入れなかったのではないかと考えます。その根拠になりうるのは「わたしを見たから信じたのか」(29節)というイエスさまの御言葉です。「その指を釘跡に入れたから信じたのか」とは言われていません。自分の目で見たこと、また自分に向かって語りかけられたイエスさまの御言葉を聞いたことで、トマスは信じることができたのです。
繰り返しますが、その場面はおそらく日曜日の礼拝でした。そこで行われていたことは、今わたしたちが行っているのと基本的に同じことです。賛美を歌い、聖書を学び、祈りをささげる。その中で彼らは、復活されたイエスさまを見た。そして、イエスさま御自身の言葉を聞いたのです。その見ること、聞くことを通して、十字架にかけられたときの釘跡をもつリアルな体をもつイエスさまとの出会いを果たしたのです。
イースターがなぜ喜びなのか、なぜ今日は楽しいお祝いの席なのかという問いに、そろそろ答えなければなりません。おそらくそれはイエスさまと同じようにわたしたち自身も復活するからであるというだけでは十分な答えにはなりません。先週申し上げたとおり、復活自体は救いでも解決でもないからです。イエスさまを殺した人々は殺人者として復活するのです。彼らは神の裁きを受けるために復活するのです。しかし、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、教会のメンバーになった人々は、そのような人として、すなわちキリスト者として復活するのです!
日曜日の礼拝の中でイエスさまとの出会いを果たした「疑うトマス」が「信じるトマス」へと変えられました。この日トマスは「疑うトマス」として復活するのではなく「信じるトマス」として復活することが約束されたのです!
しかし、一つ重要な点を忘れることができません。復活されたイエスさまの体に釘跡があったことの意味は、まさに連続性であるという点です。それは、わたしたち自身の復活にもそのまま当てはまります。「信じる者」になったトマスは、しかし、「疑うトマス」であった頃のことを無かったことにすることはできません。わたしたちも同じです。わたしたちが犯した罪や、わたしたちの体や心に残る傷。それらは復活のとき残ったままです。わたしが今死んだら「太った関口」として復活するでしょう。すべてを無かったことにはできません。変身願望は復活によっては満たされません。それでいいのです!
わたしたちの人生の中に無駄な要素は一つもないのです。苦労も涙も。命がけの戦いも。ですから、イースターにおいて最終的に重要なことは、復活なさったイエス・キリストと共に永遠に生きることを約束された救いの喜びのなかで、わたしたちがありのままの自分自身を愛することができるようになることなのです。
(2009年4月12日、松戸小金原教会主日礼拝)
裸の理性の行方(1)
4月5日(日)の説教の中で私が強調したかったことは、「信仰とは、納得しようがするまいがそう思うと決めてしまうことである」ということとほとんど一致していますが、微妙な違いもあります。
はっきり申し上げることができる歴史的事情としては、18世紀の哲学者インマヌエル・カントの一書に『たんなる理性の限界内の宗教』(Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)というタイトルが付けられているとおり、宗教の中にある理性がとらえきれない要素については「沈黙する」というルールを守ることが近代精神の特質であり続けてきたという点を挙げることができると思います。
カント的な限界設定には良い面もあると私は信じています。理性に対して破壊的に作用する宗教がしばしば凶暴化・狂熱化する危険があることは、わたしたちにとっては体験済みの事実ですから。
理性はblos(裸)のまま保ち続けてよいのです。納得できないことは、納得する必要がないし、納得すべきでもないのです。「疑うトマス」のままであってもよい。「疑うトマス」がいなかったら今日の諸科学は決して起こり得なかったでしょうし、飛行機やロケットが空を飛びまわる時代も見ることができなかったでしょうし、新しい文化的発展など望むべくもなかったでしょう。
私の申し上げたいことは、宗教的教義による科学的理性の否定ではないのです。それは中世の暗黒時代への逆戻りです。「常に改革し続ける教会」(ecclesia semper reformanda)の道ではありません。
私の趣旨を少しややこしく言い直せば、「復活」も「再臨」も、全く未知の将来に起こる出来事であるゆえに、(たった一回限り二千年前に起こったとされるユダヤ人イエスの復活についての使徒的証言を除いては)わたしたちが過去に体験済みの事実から得たデータをもとにして「帰納的に」(inductive)ないし「ア・ポステリオリに」(a posteriori)類推することができない事柄であるということです。
しかし、それにもかかわらず(それがいくら問うても分かりっこないことであるにもかかわらず)、わたしたち人間(21世紀の人間も然り!)は「死んだらどうなるのか」、「私の魂はどこに行くのか」と問い続けるわけです。考えるのをやめろと言われても考えてしまう。この問いはすべての人類の霊的ニードなのだと思います。
その場合に、です。わたしたち教会としては、あるいは牧師としては、人々の霊的ニードに応えることを拒否し、「そんなことはどのみち分かりっこないことなんだから、問うこと自体をやめましょう。理性などは一刻も早く捨ててしまいましょう。そのうえで、神という不可視的存在に絶対的に帰依しましょう」と、一種の思考停止を奨励するほうがよいか。
いや、そうではなく、「聖書にはこんなふうに書いてあります。実をいえば、私にも信じきれない面がたくさんあるのです。でも、悪いことを信じるよりは、良いことを信じるほうがハッピーではありませんか。科学的・論理的に描出されるカタストロフィ(地球温暖化、環境破壊、核戦争、人類滅亡)の物語も『必ずそうなる』とか『絶対に不可避的』などと言い出すや否や、その人の話は一種の信仰と化し、一種の宗教と化しているのですから」と笑いながら語るほうがよいか。
私は後者のほうが「理性的」であると思っているのです。
2009年4月11日土曜日
東関東教室メールマガジン第2号を発行しました
「改革派神学研修所 東関東教室」のメールマガジン第2号を発行できました。ちょっとほっとしています。
改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/
改革派神学研修所 東関東教室メールマガジン
http://groups.yahoo.co.jp/group/rti-higashikanto/
東関東教室とは直接関係ありませんが、山本信太郎さんが博士論文『イングランド宗教改革の社会史 ミッド・テューダー期の教区教会』(立教大学出版会、2009年)を出版なさったとのことで、本当に良かったなあと我がことのように嬉しく思いました。
このところは嬉しいことが続いています。教会ではこのたび久しぶりに洗礼式を執行することになりました。ご本人曰く「17年間の求道生活の末です」とのこと。素晴らしいことです。
また、松戸小金原教会の前身である「小金原キリスト伝道所」で今から38年前に当時生後3か月で幼児洗礼を受けた方が、別の教会でこのイースターに信仰告白をなさることになりました。神の恵みの確かさを知る思いです。
2009年4月9日木曜日
恥の多い生涯を送って来ました
「小説家になりたい」という夢を抱いたことは一度もありませんが、「これってどう言ったらいいのか分かんねえよ」な気分のときに、小説のようなものをつい書き始めてしまいます。そのアウトプット先を私のブログ集の中に設けました。
「関口 康 小説」(↓)です。
http://novel.reformed.jp/
毎週の説教原稿を書いているのも私、雑誌や紀要に掲載していただく論文を書いているのも私、ブログにいろいろ書いているのも私、そして小説の中で「これってどう言ったらいいのか分かんねえよ」なことを言語化したがっているのも私です。
「ぜひお読みください。」とは決してお勧めしません。「ぜひ読まないでください。」とお願いしておきます。
2009年4月8日水曜日
「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(11)
でも、そのどちらの道を選んでも「そういうやり方ってキリスト者としてどうよ?」とカウンターパンチが飛んでくる。「愛がない」とか「冷たい」とか「自分の筋を通すことにしか興味ねえのか」とか、それこそ「信徒の分際で牧師様に向かって物申すとは、何をか言わんやだ」とか、いろいろ言われる。
私はですね、そういうことを口にして自己保身を図るクダラネエ牧師にだけはなりたくなかったんです。
そして実際の日本基督教団は、かつても・今も・これからも、各個教会の現実においては色濃く「教派主義的なるもの」のままであり続けるでしょう。
だって、考えてもみてください。
たとえば、聖餐式を(ローマの伝統に則って)「恵みの座」で行うか、(ツヴィングリ式に)会衆席まで個別に運ぶかは、どう考えてもあれか・これかです。「両方同時に行う」という芸当はおそらく決して成り立ちません。
あるいは、説教を「万人救済主義」に立って語るか、「特定救済主義」(いわゆる予定論)に立って語るかも、たぶんあれか・これかです。「両方同時に語る」という芸当ができる人は、天才か、そうでなければ自己統合が極度に難しくなっている人です。
現実の各個教会は、すべて「教派主義的なもの」で満ち満ちています。それらすべてをローラーでおしつぶし、「一つの日本基督教団」にしようとすることは事実上不可能であり、現実離れしたイデア的空想であり、虚しい思弁にすぎません。
また、各個教会の教派主義的現実に対して弾圧的に機能する「一つの日本基督教団」の理念形そのものは、それこそまさに実のところは「教派主義的なもの」を一歩も超えていなかったりするものであったとかになると、もはや笑止です。
「教派主義的なるもの」を小馬鹿にして笑う人々に言いたいですよ。あなたがたは、ご自分たちが笑っておられるそれを何一つ、一ミリたりとも超えられていないですよと。笑えば笑うほど自分の無知と恥をさらすだけですよと。
2009年4月7日火曜日
「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(10)
「第二ラウンド」とは日本基督教団の創立(三十余派の旧教派の合同)そのものの是非であると、そのように表現することも全く不可能であるとは言えません。しかしそうなりますと、それはもっぱら日本基督教団の外部からの第三者的な論評であるということで処理されてしまい、そのような無責任な言葉は傾聴に値しないという一言で片づけられてしまいます。
しかし、私自身は、その種の(教団の外からの第三者的な)論評は、はっきり言って嫌いです。あまり良いたとえではありませんが、「できちゃった婚」で生まれちゃった子どもに向かって「できちゃうべきではなかった」とか「生まれちゃうべきではなかった」とか言うのに似ています。そのような言い草を私は(自分なりの定義をしながら)「原理主義」と呼んでいます。
現実に生じている事実から目を背け、「そもそも、こうあるべきだった」とか「あのとき、ああすべきでなかった」などと語る。それは言っても意味のないことですし、現に存在するものを否定しているのですから、事実上「死ね」と言っているのと同じことです。
従って、私自身は「第二ラウンド」という言葉をそのような意味で用いることはありませんし、また東神大関係者が用いる場合も、そのような意味ではありません。
それでは「第二ラウンド」とはどういう意味かと言いますと、合同教会としての日本基督教団の中の各個教会における旧教派的伝統というものを「生かす」(つまり「多様性尊重の道を選ぶ」)のか、それとも「殺す」(つまり「強制的同質化の道を選ぶ」)のかの戦いであるということです。
だれもが知っている事実は、たとえ日本基督教団であっても、各個教会の現実は(本人たちがどれほど否定しようとも)色濃く「教派主義的な何か」です。
同じ日本基督教団の中で、ある教会は「連続講解説教」をしている。ある教会は「ハイデルベルク信仰問答」で受洗準備会をしている。ある教会の洗礼式には「浸礼槽」が用いられる。ある教会の聖餐式は「恵みの座」に跪いて行う。ある教会は礼拝の中で「異言」を語る。
少なくとも1990年代の前半までの日本基督教団は、そのような多様性を尊重してきました。 ところが、その後の教団に大きな変化が起こりました(と私は受けとりました)。「強制的同質化」(Gleichschaltung)は言い過ぎかもしれませんが、「教団は合同教会なのだから」という分かりやすいが無内容の殺し文句をもって各個教会の「教派主義的なるもの」に対して弾圧的発言を繰り返す人々が台頭してきたのです。
2009年4月6日月曜日
「信徒のミカタ」ではないことに絶句
「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」なる『ミニストリー』(Ministry)が創刊されるとのこと、同慶の至りです。今日届いたキリスト新聞最新号の「全面広告」を拝見しました。
しかし最も大きな字で書かれたキャッチコピーに絶句。「牧師のミカタ、創刊。」
ウソかハッタリであっても「信徒のミカタ、創刊。」とは書かない(または「書けない」)ところに、ある独特のリアリズムを感じはしましたが、なるべくなら見たくなかった表現でしたね。
本音を思い切りぶちまけたい気持ちなら私にだってありますが、陽の下を堂々と歩きたいならパンツぐらい穿けよと言いたいところです。
「説教の塾」についても、そう。そこで営まれていることは立派であり、関わっている人々は立派であるとは思いますが、基本的なベクトルがちょうど正反対の方向を向いているような気がしてならないのです。
なぜ「牧師のミカタ」なのでしょうか。なぜ「説教の塾」なのでしょうか。牧師たちの自意識が過剰すぎるのではないでしょうか。「おれを忘れるな」(Niet te vergeten mij)を言いたがりすぎではないでしょうか。
あるいは、牧師たちがまるで被害者意識のようなものを持ちすぎているのではないでしょうか。癒されたがり、慰められたがりの傾向が強すぎるのではないでしょうか。
「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(9)
しかし、たとえば日本基督教団の場合は、各個教会の上に立つ上部政体であるべきところ(教団、教区、支区・分区)に今私が書いたような文科省的対応ができるほどの権限はありませんよね。「勉強しない牧師」であろうと「倫理的に問題ある牧師」であろうと「異端」であろうと、その人を辞めさせることや変わって(替わって)もらうことは誰にもできない。出て行ってもらいたければ私刑的つるしあげ(いわゆるリンチですね)でもするしかないし、それでも動かない場合は不満を持つ教会員の側が出ていくしかない。
しかし、その種の私刑的対応や離脱行為は「クリスチャンとしてどうよ?」という殺し文句で糾弾されることしばしばで、それをする側に(生涯消えない)罪悪感が残ったりする。どっちが悪いのか、わけわからなくなる。
はっきり言っておきますが、日本基督教団の教団は長老主義的な意味での「大会」ではあり(なり)えないし、教区や市区・分区は「中会」ではあり(なり)えません。そのことを過去68年の日本基督教団の歴史が証明していると思います。
だからこそ、日本基督教団の中で長老主義を重んじようとする人々は「連合長老会」を作ろうとします。その考えや意図はごもっともなものです。しかし、牧師の人事に関する事柄はきわめて法的な、しかも、宗教法人法的なものです。「連合長老会」は任意の団体ですので「宗教法人日本基督教団○○教会」にかかわりえません。
日本キリスト改革派教会も、日本キリスト教会も、そして日本基督教団の連合長老会も、不完全な長老主義しか実現できておらず、理想形には程遠いことは認めざるをえません。しかし、断言できることは、日本キリスト改革派教会と日本キリスト教会は、日本基督教団の連合長老会の方々に対して深い関心と同情を持ち続けているということです。
ですから私は、長老主義を重んじたいという願いから日本基督教団の連合長老会系の教会で主に仕える道をお選びになる方々のことは、お世辞でなく尊重してきたつもりです。
しかし、教団連長の諸教会が「宗教法人日本基督教団」の法規のもとに統治されている状態にとどまっておられるかぎり、日本キリスト改革派教会としても日本キリスト教会としても、法的・政治的な意味での公的なアクセスの取りようがないんです。一緒の勉強会くらいなら何年でも何十年でも続けられるんですけどね。
本当のところをいえば、日本キリスト改革派教会と日本キリスト教会と教団連合長老会との公的な「フェデレーション」を作りたいんです。これはかなり真面目な話です。しかし、そのためにはやはり、連長のみなさんが教団を飛び出す勇気を持っていただく他はないような気がしていますが、これはこんなところに書くことではないかもしれません。
問題は、連長の皆さんにとって「一緒にはできない」相手とは誰なのかです。20年くらい前の東京神学大学あたりで使われはじめたタームを持ち出すとしたら、いわゆる教団問題(事の本質から言えば「東神大紛争」)には「第一ラウンド」と「第二ラウンド」があるのです。
「第一ラウンド」は、1969年問題とも言われてきたものです。社会派とか何とか呼ばれた人々との戦いです。「無差別聖餐問題」などもこの文脈に属します。この戦いはすでに終わっているか、あるいはまもなく終わるでしょう。外面的には熾烈な戦いの様相を呈してきたことを私も体験的に知っていますが、事の本質としては他愛のない、神学的には児戯にすぎない戦いです。
「第二ラウンド」は、隠喩的ないし暗示的に1941年問題と言うべきです。合同教会としての教団のそもそもの本質を問う。「教団の中に旧教派伝統を(≠が)残し(≠残り)続けるべきか」を問う。「教団は合同教会なのだから」という殺し文句で旧教派伝統を弾圧する人々を容認しうるかという問題です。
私の見方を率直に言わせていただけば、連長の皆さんは今のままでは「第二ラウンド」の戦いには負けるだろうと思っています。これを戦わなければならないほどのモチベーションが見当たらない、またはきわめて低いんじゃないかと。
「第二ラウンド」は神学的にはあまりにも深刻なものなので、まさに決死の覚悟が必要ですが、外面的には「敬虔の衣をかぶった論敵たち」との戦いになりますので、本質が見えにくいし、後味が悪い。いつまでも引きずるイヤーな罪悪感が残ります。
2009年4月5日日曜日
イエス・キリストを十字架につけた人々の自己矛盾
ヨハネによる福音書19・13~16
「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。」
来週の日曜日がイースターです。わたしたちの救い主イエス・キリストは死者の中から復活されました。そのことを覚えて感謝すること、それがイースターにおいてわたしたちがなすべきことです。
しかしイースターの意義はそれだけではありません。イエス・キリストは真の神であると同時に真の人間でもあります。そのためイエス・キリストの復活は「死んだ人間の復活」であるとも語ることができます。聖書に教えられていることはイエスさまだけが復活するのであってわたしたち人間は復活しないということではありません。わたしたち人間自身もイエスさまと同じように復活するのです。そのことを信じて覚えることもイースターの意義なのです。召天者記念礼拝の目的は、故人を追悼することではなく、すべての死者の復活を覚えることにあるのです。
しかしこの話は、もちろんあまり単純なものではありません。イエス・キリストの復活にせよ、わたしたち人間の復活にせよ、それを信じる際に最初の大前提として理解すべきことは、復活させてくださるのは神であるということです。
復活を信じるとは復活させてくださる神を信じることです。「神は信じないが、復活は信じる」とか「永遠の命には興味があるが、神には興味がない」というような言い方は成り立たないのです。復活を信じる人は神を信じる必要があります。イースターにおいて信じられるべきは端的に神なのです。来週の日曜日に祝われるべきことは、イエスさまを復活させてくださったし、わたしたち人間をも復活させてくださるでありましょう神の恵みの偉大さなのです。
また、もう一つの大前提は、復活とはわたしたちの信仰であるということです。
イエス・キリストの復活については、それを自分の目で見たとか自分の手で触ったと証言している人々がいますので、信仰であるというよりは事実であると言うほうがよいかもしれません。しかし残念なことは、わたしたち自身はイエス・キリストの復活を自分の目で見ていないということです。また、わたしたちのうち誰一人として、だれかが復活する様子を見たことがあると言える人もいません。
わたしたちにできることは、イエスさまの復活を自分の目で見たとかイエスさまの復活の体を手で触った人々が書き遺した言葉を信じることだけです。そしてわたしたち人間自身の復活を信じることができるだけです。たとえば、復活の事実を「科学的に」証明するというようなことは、わたしたちにはできないことです。
ですから、ひどく冷めた言い方をお許しいただけば、復活は信仰以上のものではありません。しかし、信仰以下のものでもありません。そうであることのどこが悪いというのでしょうか。
わたしたちにとって大切なことは「何を信じるか」です。どんな人でも必ず、いろんなことを信じながら生きています。わたしたち人間は、信仰という要素を全く持たないでは生きていません。たとえば、今日、わたしたちの頭の上にミサイルが飛んでくるかもしれません。しかし飛んでこないかもしれません。それは「必ず」飛んでくるとか「絶対に」飛んでくるとか言いだすところに信仰の要素が入り込んでくるのです。「私は何も信じていない」と言い張る人もいますが、その人の話の中身をよくよく聞いてみると、至るところに信仰の要素が見当たるのです。
ですから、言い方はおかしいかもしれませんが、私がぜひお勧めしたいことは、どうせ信じるなら良いことを信じようではありませんかということです。わたしたちはどのみち何かを信じながら生きているのです。もしそうであるなら、暗いこと、悲惨なこと、最悪の結果を信じるのではなく、明るいこと、希望に満ちたこと、最善の結果を信じようではありませんか。
実際のわたしたちは、そんなこと信じなくてもよいようなことや信じるべきではないことをすっかり信じ込んで生きているようなところがあります。たとえば、わたしたちには「悪魔の存在を信じる」ということがありえます。しかし聖書的にいえば悪魔を「信じる」必要はありません。悪魔はわたしたちの信仰の対象ではないからです。わたしたちの信仰の対象は神だけなのです。
しかし、いま私が申し上げたような考え方は、多くの人々にとってはそれを手に入れるためにかなり苦労が必要なものであるということは分かっているつもりです。人間の心は放っておけば、どんどん悪いものをため込んでいくからです。悪いこと、暗いこと、後ろ向きなことばかりが焼き付いて離れない。早く忘れるほうがよいようなことが忘れられず、まるで澱のように心の中に沈澱していくのです。その行きつく先は心の病です。
しかし、繰り返し申せば、復活を信じるとは神を信じることです。死んだ人が復活することを信じるとは死の向こう側に希望を見出すということです。復活を信じるとはわたしたちの人生には絶望はないのだと確信をもって生きることです。どうせ信じるなら、このようなことを信じようではありませんか。この信仰がわたしたちを、絶望と憂鬱から救い出してくれるのです。
さて私はこれまで、イースターにおいてわたしたちが信じるべきことをお話ししてきました。けれどもイースターは来週です。今日はまだイースターではありません。これまでの話は、来週話すべきことだったかもしれません。しかしそれを今日お話ししたことにはもちろん意味があります。
今日お開きいただきました聖書の個所では、イエス・キリストはまだ復活しておられません。十字架にもかけられてもいません。ここに描かれているのは、十字架にかけられる前にポンティオ・ピラトのもとで行われた裁判の様子です。そして、まだ激しい苦しみの中におられるイエスさまのお姿です。
教会は伝統的にイエス・キリストは「わたしたちのために死んでくださった」と語ってきました。この言い方が間違っているわけではありません。しかし、聖書を読むかぎり、この出来事はどう見てもイエス・キリストは「殺された」と言わざるをえないことも事実です。イエス・キリストは「殺された」というこの表現は、たとえば、以前皆さんと共に長く学んだ使徒言行録の、とくに使徒ペトロの言葉の中に何度か出てきます。「わたしたちのために死んでくださった」イエスさまは「殺された」方でもあるのです。
この点でわたしたちが考えるべきこと、また避けて通れないことは、イエス・キリストの復活を信じることは、単純に「死んだ人の復活」ということにとどまらないということです。むしろそれは「殺された人の復活」であると言わなくてはなりません。そして同時に考えざるをえないことは、イエス・キリストを殺したのは誰なのかという問題です。
殺すとは殺人です。それは激しい罪です。伝統的にいえば、殺人の罪は死をもって処罰されるべきものです。先ほどは、イースターにおいて信じるべきことは「死んだ人の復活」であると申しました。それをわたしたちは「殺された人の復活」と呼び換えることもできます。しかしここに問題があります。それは、殺されたイエス・キリストを「殺した」人々は復活するのだろうかという問題です。
聖書的に正しい答えを言うなら、イエス・キリストを「殺した」人々も復活するのです。しかし同時にそれと同時に言わなければならないことは、イエス・キリストを殺すという自分自身の行為を「罪」であると認識することなく、したがって、自分の罪を反省したり悔い改めたりしないままで死んだ人は、殺人者である人のままで復活するのだということです。そして復活した後、その人は神の御前で審判を受け、イエス・キリストを殺した罪を厳しくとがめられ、断罪されて、永遠の死へと裁かれるのです。これこそが聖書の教えなのです。
このあたりで先週までお話ししてきたことが関係してきます。イエスさまがニコデモに向かって語った「地上のこと」とは、わたしたち人間は地上の人生の中で救い主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、信仰生活を始めるべきことであると、私は繰り返し申しました。死んだ後に洗礼を受けることはできないし、信仰生活を始めることもできません。
復活とは、いわば、わたしたち人間が地上の人生の中で得たものを取り戻すことを意味しています。もしそうだとしたら、信仰をもって生きた人は信仰者として復活するのです。そしてそれと同時に、先ほども申し上げましたとおり、イエス・キリストを殺したことを反省も悔い改めもしなかった人は、殺人者として復活するのです。
地上の人生を終えて死ぬ人のすべてが、(背中に羽の生えた)天使になるわけではないのです。神によって復活させていただける人間は、すべて自動的に善人になるわけではありません。わたしたちは地上で生きたように死ぬのです。しかしそれだけではなく、わたしたちは地上で生きたように復活するのです。
ですから、ここで申し上げておくべきことは、復活そのものは(罪からの)救いでも解決でもないということです。復活が希望であると語ることができるのは、神を信じ、救い主イエス・キリストを信じている人々だけです。地上の人生の中で信仰を与えられ、罪から救われた人々にとってだけ、復活は希望であり、喜びなのです。信仰の無い人々にとっては、復活は裁きであり、断罪なのです。そのことを忘れることも無視することもできないのです。
今日開いていただいた個所に描かれているのはイエス・キリストを殺した人々の姿です。ローマの総督ポンティオ・ピラトと、その前に集まっていたユダヤ教団の指導者、そして彼らによって扇動された群衆たちの姿です。
ピラトは群衆たちの暴動を恐れて、自己保身のために自分の正義を曲げてユダヤ教団の指導者たちの思惑に乗ってしまいました。ここには、そのピラトの非常に弱く哀れな姿が描かれています。
群衆は、理性を失い、ただひたすら感情的に凶暴化した状態の中でイエス・キリストを殺すことをピラトに要求しました。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と大合唱している彼らの姿は、ひどく恐ろしいものです。彼らのうち一人でも、自分自身がイエスさまの立場に立ってみれば、どのような思いになるだろうかと考えてみたでしょうか。もしそのことを少しでも考えてみれば、このようなひどい言い方は決してできないだろうと思わずにいられません。
ユダヤ教団の指導者、とくにここに描かれているのは祭司長たちですが、彼らが言った言葉は「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」です。しかし、ユダヤ人には彼ら自身の王がいました。また、当時のローマ皇帝が「王」と呼ばれているときの意味は「神」であるということをユダヤ人たちは知っていました。つまり、祭司長たちが言っていることは、事実上、「わたしたちにはローマ皇帝の他には神はいない」と言っているのと同じなのです。彼らはでたらめを語ったばかりか、まことの神を否定したのです。
人は生きたように死にます。また生きたように復活するのです。殺人者は殺人者として復活するのです。わたしたちはその人々の真似をしてはなりません。イエス・キリストを信じて、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けて、新しい人生を始めようではありませんか。
(2009年4月5日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年4月4日土曜日
「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(7)
私の考えるところによれば、教会の牧師(=「牧会」をする人=「説教」だけしていればよいわけではない人)になるために必要なのは、重要な順として(1)実践力、(2)自活力(いろんな意味での)、(3)神学的論理、であると思います。
牧師の現実によく似ていると思われるのは、小学校や中学校や高等学校の先生たちの現実です。または幼稚園の先生と言うべきかもしれない。
求められるのは、要するに、キリスト教について何の知識もない人々に、イロハのイの字から・手取り足取り、教え聞かせる力がある人。 教会は宣教の最前線(アヴァンギャルド)なのですから。
小・中・高の先生は、通常「教科書を書く人」ではありません。「教科書を書く人」は、ダンゼン大学の先生たちでしょう。
というか、「教科書を書く仕事」に関心がある人たちは、小・中・高の先生になるべきではないと思います。大学の先生になるべきです。
こう書くのは、小・中・高の先生よりも大学の先生のほうが「上」だという意味ではありません。役割が違うと言っているだけです。「教科書を書く人」と「その教科書を用いて教える人」は分業すべきだと言っているだけです。
しかし、このたとえには明らかな限界があります。教会の場合は、牧師の視座から見た教会の現実を知らない人には、「牧師の教科書」は決して書くことができません。牧師をやったことがない人にそれは書けません。
事実、いわゆる一流の(改革派系)教義学者たちには皆、教会での牧会経験があります。20世紀の人でいえば、カール・バルト然り、ファン・ルーラー然り、ベルカウワー然り、ユルゲン・モルトマン然りです。
しかし、日本の大学の先生たちの中に、小・中・高の先生を体験してから大学の先生になるというコースを辿る人がどれくらいいるでしょうか。一人もいないとは思いませんが、私はそのような人を寡聞にして知りません。
ところが、牧師と神学者の関係は、いわばそのようなものです。
「神学の教科書を書く仕事」(神学者)は「その教科書を用いて教える仕事」(牧師)をしたことがある人でなければできません。
また、教会をサボってガリベンしなければ論文の一つも書けないような人の書いた教科書などお話しにもなりません。言語道断、唾棄すべきものです。
しかしまた、それと同時に、「教科書を書く仕事」と「教科書を教える仕事」は分業すべきでもあると、非常に矛盾したことも言わなくてはならないのです。
2009年4月3日金曜日
「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(5)
しかし、たとえば、いったん「ルター派」を名乗ってしまいますと、どうしてもルターという一人の歴史的人物から一歩も離れられなくなってしまいますよね。人の名前を付けた教会のすべてが悪いと言うつもりは私にはありませんが、キリスト教を極端に狭めてしまう危険性と隣り合わせにあるような気がしてなりません。
バルトの場合は、「バルト派教会」という教団があるわけではないし、バルト自身は「バルト主義者」を忌み嫌っていたということはよく知られていることではあります。
しかし、なぜでしょうか、私の知るかぎり、バルトを愛する人々の多くは強い排他性をもちはじめます。
というか基本が「上から目線」です。なんといっても「20世紀最大の神学者」のファンクラブですから。百歩譲ってバルトが「最大」であることを認めるとしても、バルトのファンたち自身は別に「最大」でも何でもないんですけどね。自分はバルトじゃないのに、まるで自分が「最大」であるかのようになっちゃう。どこかでとんでもない勘違いに陥っているんですね、きっと。
また、これはオランダの話ですが、20世紀のオランダ人でバルトの親友となり自らバルト主義者になったK. H. ミスコッテという人がいるのですが、この人が亡くなった後、彼の息子が出版した追悼論文集のタイトルが『ミスコッテを忘れるな』(Niet te vergeten Miskotte)っていうんです。
自分の父親の追悼論文集にどんなタイトルをつけようと遺族の勝手だと言われればそれまでですが、センスとしては最低だし、何となくみっともないと感じるのは私だけでしょうか。とくに、「忘れるな」とか実の息子さんから言われますと、私などはひねくれていますので、かえってますます見苦しいし、「必死だなー」とか笑ってしまいます。
ミスコッテのことはバルトとは直接的には関係ないことではありますが、結論として思うことは、人の名前と結びつく信仰というのは薄氷の上を歩くに似た危うさがありますよねということです。
ドイツには「ディートリッヒ・ボンヘッファー教会」という名前の教会が結構あるようですが、そういうのも結局似たような運命を辿るような気がします。
2009年4月2日木曜日
セオブロギアン(苦笑)
コブクロは妻が熱心で、私は感化されてファンになりました。妻は二人の子供を連れて東京ドームやさいたまスーパーアリーナのコンサートに行くのですが、私はいつも留守番です。自動車の中には彼らの全CDが常備されています。
かなり重度の我田引水ですが、コブクロがストリートを始めた1998年は、図らずも、私が日本キリスト改革派教会の教師になった年だったりするので、彼らの過去10年間の苦闘の軌跡は、まさに私自身の苦闘と重なるものと感じられ、彼らの歌を聴くたびにヒトゴトには思えないのです。
しかし、彼らはレコード大賞の極みに達し、かたや私は10年前に抱いた「出版」という念願をいまだに果たすことができません。彼らの足元にも及びません(私は最近、悔し紛れに自分のことをセオブロギアン(theoblogian)と呼びたくなっています)。
5年ほど前からの口癖は「早く人間になりたい」(by妖怪人間)なのですが、まだまだ道は遠いです。ファン・ルーラーのオランダ語テキストとほぼ毎日格闘しているのですが、なかなか日本語になってくれません。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
mixiのプロフィールを更新しました
久しぶりにというか、入会以来初めて、mixiのプロフィールを更新しました。
自己紹介:
千葉県松戸市の日本キリスト改革派松戸小金原教会で牧師をしています。高校3年の夏休みに一生の職業を考える中で「牧師」になることを決心し、それ以来全く迷うことなくこの道を歩んできました。私にとって「牧師」とは、職業以上のものではないし、職業以下のものでもありません。しかしこれは間違いなく楽しくやりがいのある仕事です。自分の職業を決めかねている人には「牧師」になることをお勧めいたします。
今週の説教
http://sermon.reformed.jp/
改革派教義学
http://dogmatics.reformed.jp/
関口 康 日記
http://ysekiguchi.reformed.jp/
プロフィール
http://ysekiguchi.reformed.jp/profile.html
好きな音楽:
コブクロ
好きな映画:
最近ので良かったのは「ハンサム☆スーツ」かな(ヒトゴトとは思えない)
好きな言葉:
「最良は堕落すると最悪と化す」(corruptio optimi pessima)