2017年7月28日金曜日

ネットを使う牧師は全員「サイバー牧師」だ

ネットを使う牧師はいわば全員「サイバー牧師」だ。「使う」かどうかはもはや問題ではない。ユーチューブで伝道している人がいると伺った。それ自体で献金を集めておられるか、アフィリエイトか。私の根本的な問いは、ネットでしていること自体を「職業」と認める「教会」が存在するかという点にある。

ユーチューブであれメールであれ、それを使っての「伝道」を個人でしているかぎり、従来のカテゴリーで言えばいわゆる「個人伝道」に該当する。それはそれで尊重されるべきである。第三者がとやかく言うべきではない。でも、それは私が思い描く「ネット専属牧師」(仮称)とはまるきりベツモノである。

「勤務時間中のSNSは禁止」という会社や学校はまだ多い。もちろん公私混同はよくない。しかし牧師にとって「公」とは何か「私」とは何かという問題は難しい。どこまでが「勤務」でどこから「勤務外」かを区別できない。すべてが勤務であるとも言えるし、すべて遊びだと見られるなら甘受する他ない。

さらに違う問い方をすれば、そもそも牧師にとっての「勤務」ないし「仕事」とは何なのかという問題がかかわってくる。専門用語で言うとそれは「伝道」と「牧会」だが、「伝道」とは日曜朝の礼拝出席者を増やすことか、それ「だけ」なのか、献金額を増やし、教会財政を潤すことか、それ「だけ」なのか。

「牧会」とは家庭訪問をすることか、個人面談をすることか、それ「だけ」か。「手書きの書簡を送ること」なのか、メールやチャットではだめなのか。今やもはやSNSで90パーセントくらい代替できることばかりではないのか。SNSはだめだが、メールやブログならいいのか。本質的な違いがあるのか。

教会自体が牧師たちに教会と隣接ないし併設されている「牧師館」への居住を要請しているために「通勤時間ゼロ」の牧師がまだ多い中で、「通勤で汗を流さぬ牧師たちがパソコンをいじってSNSで遊んでばかりだ、けしからん」とか言い出されてしまうに至っては、言葉を失う牧師が続出するのではないか。

そもそも、「牧師としての行き場をなくして」ブライダルをしながらユーチューブで伝道しているという牧師さんの話から分かるのは、ブライダルそのもの、ネットそのものは「牧師の仕事そのもの」としては認められていないということだ。「牧師としての行き場」そのものとしては認められていないわけだ。

牧師たちまでが、というか、牧師たちこそが率先して「ブライダルなんか」と見下げるようなことを書いている。よく書けるわと思う。明日は我が身だろうに。こういうことを書いていると「ネット専属牧師にお前がなりたいのか」と言われそうだが、私の話ではない。そういう言いがかりは謹んでお断りする。

そうね、たとえばもし私が将来、複数の牧師が必要な規模の教会の主任牧師になったら、副牧師になってもらいたいのは年がら年中パソコンかスマホをいじっている人のほうがいいや。人間と世界に関心がある証拠だし、言葉を用いてのコミュニケーションに長け、広い視野と知識を持っている人だと思うから。

高校の授業を思い返しても、お世辞抜きで感心したのは、私が原稿なしでフリートークしているとき、耳慣れない言葉を聴いたと思ったらしい生徒が手元の電子辞書で瞬時に意味を調べ、納得しながら続きを聴いてくれていたことだ。スマホならもっと広く調べることができただろう。今はそういう時代なのだ。

いまだに散見する「ネット害悪論」の趣旨を全く理解できないと思っているわけではない。しかし、牧師を含む教会関係者ないし宗教関係者の方々ならばこそ、ネットにどんどん良質の情報を発信なさったらいいと思う。玉石混淆だと思うならばこそ、玉のほうの数を増やす努力をしていくしかないではないか。

ネットを使っての「伝道」に取り組んでおられるとのこと。もしそれに教会自体が取り組んでいる、または牧師個人の働きを教会が理解し支援しているなら、素晴らしいことです。

しかし、問題はその先です。ツイッターはどうですか、フェイスブックはどうですか。説教や教理解説でない、ただのおしゃべりはどうですか。「そんなヒマがあるなら仕事しろ」と言われませんか。

ツイッターやフェイスブックを「仕事の合間の息抜き」に利用するのはもちろん良いことだと思いますが、どう言ったらいいのか、そもそも牧師の仕事というのは「キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること」だったりするわけで、他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね。

しかも、ホームページやブログに文章や音声や動画(録画)を公開しても、それはどこまで行っても固定された過去の情報でしかない。「生きた会話」(それが音声なのかチャットの字なのかは実は問題ではない)ではない。「ああ疲れた、息抜きしたい」と思っている人は「会話」を求めている可能性が高い。

私が問題にしたがっているのは、今書いた意味での「生きた会話」をSNS越しにしている部分は、牧師の「仕事」なのか、そうでないのかというあたりです。しかも、その意味での「仕事」は何分・何文字書いたらいくらもらえるというようなお金の問題とダイレクトに結びつくわけではない(ありえない)。

そういうお金の話ではなく(ありえず)、「教会」がそれ(牧師がそういうことをしていること)を白眼視したり、「そんなことをしているヒマがあるなら仕事しろ」などと言って非難したり拒絶したりせずに、「あれもれっきとした牧師としての働きなのだ」と認め、応援してくれているかどうかの問題です。

つまり言い方を換えれば、「ネット伝道」という概念がもしあるなら、その定義の問題だということです。どこまでのことがその定義に含まれるのか、です。

(追記)

自分で書いた言葉を直したくて仕方がない。「そもそも牧師の仕事というのは『キリスト教安息日(それは日曜日)に慰めの言葉を語ること』だったりするわけで」の続きは「他の人が息抜きしているときこそ仕事するわけですよね」ではなくて「他の人の息抜きに付き合うのが牧師の仕事ですよね」だなあと。