2017年7月23日日曜日
信じる前に失望しない(千葉若葉教会)
ヨハネによる福音書4章48~50節
関口 康(日本基督教団教師)
「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
ヨハネによる福音書の学びの5回目です。前回が4章で、今日も4章です。
回数を数えやすいように1章ずつ進めていくことも考えましたが、今日の箇所にはどうしても触れておきたいと思いました。と言いますのは、今日の箇所の出来事は、2回目(2017年5月28日「喜びを追い求めよう」)の2章の出来事と密接な関連があるからです。
それはイエスさまがカナでの結婚式のときに水をぶどう酒にされた出来事です。それと今日の箇所が密接に関係しています。次のように記されています。
「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に替えられた所である」(46節)。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」(54節)。これは明らかに、2章の出来事と今日の箇所の出来事は関係があるということを読者に教えようとしている言葉です。
別の言い方をすれば、今日の箇所の出来事にはイエスさまが水をぶどう酒にしたあの出来事と本質的に共通する要素があるということです。それが「しるし」です。前回も今回も「しるし」だった。そしてこれは「二回目のしるし」だったと記されているのです。
まとめていえば、そもそもの大前提として、今日の箇所に記されている出来事は「しるし」なのだという観点からすべてを読み解く必要があるということです。
しかし、その場合の問題は「しるし」とは何かということです。その答えははっきりしています。それを見ればイエスさまこそ救い主キリストであると信じることができる、信仰の理由ないし根拠が「しるし」です。空が黒い雲でおおわれる。まもなく雨が降る。その雲が雨の「しるし」です。
そして、それはもちろん、単にイエスさまが救い主であるという客観的な事実がその「しるし」によって明らかにされたというだけで済む問題ではありません。救い主であるイエスさまがかつて大昔の人を救ったことがあるというだけでなく、そのイエスさまが今もこの私を救ってくださっているという事実が重要です。以上のことを最初に申し上げておきます。
さて、ここから内容に入ります。カナにおられたイエスさまのもとに、カファルナウムから「王の役人」(46節)が来ました。カファルナウムはイエスさまが伝道活動をお始めになった最初の拠点です。ガリラヤ湖畔の漁師の町。
そのカファルナウムから「王の役人」がイエスさまのもとに来たその目的は、その人の「息子」が「病気」だったので、イエスさまに「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼む」ためでした(47節)。
「息子が死にかかっていたからである」(47節)と記されています。自分の子どもを失うことの親の悲しみは体験した方にしか分かりません。体験したことのない者には語る資格はありません。想像をめぐらして物を言うこと自体、慎重でなければなりません。ただ確実に言えるのは、この「王の役人」は、あらゆる意味で切羽詰まった思いでいたに違いないということです。
そして、そのような追い詰められた、窮地に立たされたこの人が自分の子どもの命を救ってほしいとイエスさまのもとに助けを求めてきたということは、助けてくれるならイエスさまでなくてもだれでもよかったが、たまたまイエスさまにお願いした、ということではなかっただろうと思うのです。
今の世の中ではいろいろ語弊が出てくるところではありますが、たとえば、この人が「王の役人」であったということは、客観的な意味で社会的地位の高い人であったと考えられます。その人の息子さんであるということは、いわゆる跡取りのことなどが関係してくるかもしれない、将来を相当嘱望されていた子どもさんだったかもしれない、などなど。
だからどうしたと、それ以上のことは言えません。しかし、「王の役人」にとって自分の息子の命を預け、なんとかして助けてもらいたいと願ってイエスさまのところに来たときに、助けてもらえさえすればイエスさまでなくてもだれでもいいと思っていたわけではありません。イエスさまに対する絶大なる信頼をすでに持っていたからこそ、イエスさまに助けを求めて来たのです。
しかし、ここから先はまた非常に難しい問題に立ち入ることになります。問題はこの「王の役人」がイエスさまにそれほどまでの絶大なる信頼をすでに持っていた理由ないし根拠です。それが先ほどから申し上げている「しるし」の問題です。
最初のしるし、すなわち、カナでの結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変えるという、とんでもなくありえない、異常なことをなさった。そういうことができる方ならば、私の息子の死に至る病もいやしてもらえるに違いない。そういう信じ方をしたのだと思います。
すると、イエスさまはこの人に次のようにおっしゃいました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。イエスさまは冷たいことをおっしゃっているわけではありません。しかし、突き放しておられるようでもあります。
イエスさまがおっしゃっていることの意図は、「なぜあなたはわたしを信頼するのか」ということです。自分の子どもの命を他人に託すという重大な事柄をこのわたしに任せようとする、そのあなたの理由ないし根拠は何なのかという問いかけです。「しるし」なのか、「不思議な業」なのか。そんなことが理由なのかと。
このイエスさまの言葉を聞いて、「ああうるさい」と、「ああ、もうそんなことを言われるならここに来るんじゃなかった。ただ助けてほしいだけだ。助けてくれるなら、あなたではなくても、だれでもいい。うるさいことを言われるなら、もう結構だ」と、そのような反応が、もしかしたらこの人の心の中に起こったかもしれません。
そうする権利はこの人にあったと思います。しかしそれは、逆の視点に立てばイエスさまも同じだということです。ここから先は、イエスさまならそうお考えになるだろうという意味ではなく、あくまでも私の感覚で申し上げることですが、イエスさまのほうにも断る権利があるといえばあるわけです。
皆さんはどうでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。「助けてください」と死にそうな顔と声で頼ってくる人を必ずすべて助けてきたでしょうか。今の私はひどく困っていますが、私が死にそうな顔で「助けてください」と言えば、みなさんは私を助けてくださいますか。
教会にはいろんな問題を抱えた方々が具体的な助けを求めてこられます。そのすべての人々を教会は必ず助けてきたでしょうか。そういうことは実際には不可能ですし、本人のためにならないという理由でお断りする場合も多くあります。
私たちも体験することがあると思います。私もあります。助けを求めてきた人を助けたら、他でも同じことを繰り返している詐欺師だった。あるいは、助けを求められたがやむをえずお断りしたら、あとで逆恨みされた。
いま私が申し上げていることと、今日の箇所に書かれていることとは全く関係ないと思われるかもしれません。この王の役人の子どもさんは死にそうになっていたのですよ。人の命がかかっていたのですよ。そのような切羽詰まった場面でイエスさまが「なぜ私を信頼するのか」などと、そのようなことを問題になさるはずがない。たとえ詐欺師であってもイエスさまなら助けてくださるに違いない。イエスさまを侮辱しないでほしいと思われるかもしれない。
しかし、今日の箇所に確かに記されているのは、イエスさまがこの人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃったその言葉です。この言葉の意味をわたしたちはよくよく考える必要があると思うのです。
この人が他の人ではなくイエスさまをあえて選んで助けを求めに来た理由は、イエスさまがカナで行われた「最初のしるし」だったことは間違いありません。つまりこの人は、魔法使いか超能力者が引き起こす奇々怪々の超常現象をイエスさまに期待したのです。そういう助けの求め方をしたのです。
しかしイエスさまは、そのような理由でご自分を信頼し、助けを求めてくる人々を退けておられました。そのことがはっきり書かれている箇所があります。「最初のしるし」が描かれていた箇所のすぐ後です。2章23節から25節です。次のように記されています。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2章23~25節)。
さっと読むだけではよく分からない難しい言葉が並んでいますが、はっきり分かるのは、イエスさまは、御自身が行われた「しるし」を見て信じる人々を信用なさらなかった、ということです。
しかし、これは本当に難しい問題です。こういうたとえはどうでしょうか。会社が社員を募集し、応募してくれた人と面接する。その場合、客観的な意味での才能や技能や業績などをその人が持っているかどうかが全く分からない、正体不明の相手をいきなり信用して採用することがありうるでしょうか。
まして、自分の子どもの命を預けるという重大な決断を、何の「しるし」もない正体不明の相手に対してできる人がいるだろうかと考えていただけば、私が今ムニャムニャ口ごもりながら申し上げていることの趣旨をお分かりいただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
いま私が申し上げているのは、「イエスさまが、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と指摘されたことは全く反論の余地がないということです。全くイエスさまのおっしゃるとおりです。しかし、イエスさまはそういう相手は信用なさらないということです。さて困りました。
イエスさまがお求めになるのは、「しるし」ではなく、「わたし」を信じることです。イエスさまがなさる「しるし」や「わざ」を信じるのではなく、イエスさまご自身を信じることです。
その意味は、イエスさまという方はこんなにすごいことができる方だから信じるとか、こんなことを私にしてくださった方だから信じるというような、相手の業績を見て、その評価として信じるというような信じ方をする相手を、イエスさまは信用しない、ということです。
「王の役人」がイエスさまに必死でお願いしている言葉の中に、一つ気になる点があります。本人に悪気などは全くないと思います。しかし、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(48節)と言っています。
気持ちはものすごく分かります。しかし「子供が死なないうちに」という言葉には脅しの要素があります。あるいは命令。私の子どもが死にそうなのはあなたのせいだという意味を持ちはじめます。あのマルタとマリアが弟ラザロが死んで4日も経ってやっと来てくださったイエスさまに向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言い放ったように(ヨハネ11章)。
イエスさまは、だれの脅迫にも命令にも、お従いになりません。人から頼まれるとどんなことでも断ることができないというような、お人よしの方でもありません。「しるし」を見ました、そのご立派な業績の評価としてあなたを信じてあげます、というような近づき方をする相手はお嫌いになります。
イエスさまがお求めになるのは「わたしを信じること」です。その相手を必ず助けてくださいます。私たちも同じです。私たちにもイエスさまが行った「しるし」ではなく「イエスさま」を信じることが求められています。
イエスさまは私たちの願いを願い通りに叶えてくださらないかもしれません。なぜなら、イエスさまは、私たちの自己実現の手助けをしてくださらないからです。そういうふうな求め方をする相手を退けられるからです。
イエスさまは、私たちの要望に応じるのではなくご自身の御心に従って私たちを助けてくださいます。だから、私たちは「イエスさまを信じる前に」失望してはならないのです。
(2017年7月23日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)