2017年7月29日土曜日

「宣教の課題」ではあるが「伝道集会」ではない

ブライダルは牧師としての行き場を失った者のバイト先などではありえず(新郎新婦にも司式者にも失礼な言い方だ)、教会の宣教の課題だと私も思います。ただ、結婚式あるいは葬式は「みことばを聞いてもらう良い機会」だとはとらえていません。結婚式も葬式も伝道集会にしてはならないと思うからです。

もちろん牧師であるかぎりどこかの教会ないし教団に所属しているはずであり、その教会ないし教団には「一人でも多くの会員を!」という渇望があり、その要請と事情を熟知する牧師たちが、それでも「無私の奉仕」として結婚式や葬式を行わなければならないなどと、いま申し上げているのではありません。

しかし結婚式も葬式も「みことばを聞いてもらう良い機会」ではありませんし、そういう動機付けでもないかぎり、教会が(教会員以外の)結婚式や葬式を引き受けることも、牧師を式場のブライダルに喜んで送り出すこともできないというのでは困ります。言葉の最も正しい意味で「あざとい」と言うのです。

今書いていることは、先生がお書きくださったことを批判する意図ではなく、もっと自由になりましょうよと、「えらそうに!」と思われるでしょうけど(すみません)お励ましの気持ちです。新郎新婦も参列者も「みことば」を求めていません。そこで牧師だけドン・キホーテになる必要はないと思うのです。

最初から最後まで式文を読み上げるだけでも、我々は結婚式において十分に牧師としての役割を果たせています。あるいは逆に、最初から最後まで冗談を言って笑わせ続けることができる話力があれば、聖書のみことばに一言も触れなくても、結婚式において十分すぎるほど牧師としての役割を果たせています。

しかし結婚式も葬式も伝道集会ではありません。そのような場にしてはなりません。教会が牧師を式場のブライダルに送り出すときに「先生、伝道してきてくださいね」と言うなら、それは間違っています。そういう意味付けができないところなら牧師を送り出すことはできないと阻止するのも間違っています。