一昨年の後半は、25年もゴミ山の中に放置していた教員免許を探し、更新講習を受講して修了試験を受け、教員採用試験(筆記、模擬授業、面接)を受け、日本基督教団転入試験(補教師試験、正教師試験、改革派加入試験に次ぐ4度目の牧師試験)を受けるという三段階認証をクリアするために必死だった。
それを毎週説教し、牧師の仕事を続けながらしていた。なので私は、試験を前にしてプレッシャーを感じている人の気持ちが痛いほど分かる。だけどね、逆の立場に立ってみれば、いいかげんな試験で「牧師」だの「教員」だの名乗っている人間がいたらどうだろうと思うのよ。厳しい試験のほうがいいよねえ。
「三段階認証」と書いたが、それはもののたとえとして書いたまでだ。日本基督教団転入試験は、教員免許更新試験とも教員採用試験ともリンクしていたわけではない。採用条件の中に「日本基督教団教師に限る」と明示されていたわけではない。誤解されると困るので、はっきり書いておくほうがよいだろう。
その3つの試験の準備をしながら、転居先の借家を探したり、家の片づけをしていた。こういうことを少し書けるようになったのは、時間に人の心をいやしてくれる面があるからだ。時間は偉大だ。記憶力が低下しているだけかもしれないが、それも含めて時間は偉大だ。すべて鮮明に覚えていたらたぶん狂う。
あの苦しかったときもネットつながりの方々に助けていただいた。あのお励ましがなかったらたぶん心が折れていたと思う。感謝の言葉以外にない。ありがとうございました。「ただいいねのみ」(ソラ・イーネ)で人は結構立っていられるものだ。不思議なこととは思わない。人はそういうものだと思うから。
ついにブルンナーの教義学を読み始めた。バルトの教義学と比較しながら読み進めるのも面白そうだが、混ぜながら読むのも面白そうだ。バルンナーとかブルトがいてもよいだろう。読者はどちらかの、あるいは誰かの主義者になる必要はないし、他方を全否定する必要もない。すべての神学に一長一短がある。
1931年発行ブルンネル『危機の神学』(新生堂)の「訳者序」に岡田五作氏が次のように書いている。「ボン大学に於けるバルト教授と相並んで、此の学派の重きをなす指導者の一人は、スウィッツル、ツーリヒ大学の組織神学教授、H. エーミル・ブルンネル博士であらう」(2頁。新漢字に改めた)。
そうなのだ。ブルンナーとバルトは勝ち負けの関係ではなく「相並ぶ関係」なのだ。両神学者の日本での紹介のされ方がバルト側に偏りすぎていただけだ。21世紀神学は、前々世紀生まれのこの2人を対等に重んじつつ、両者に対して等距離を保ち、それぞれの長所と短所を見抜く作業に取り組むほうがいい。
どうにも持って行きどころのない、ふつふつわいてくるものは、どこと限らず「学校を作ればもうかる」という前提でもなければ今の事態にそもそもなっていないだろうと感じられてならないことだが、学歴だ経歴だ、プライドだ屈辱だという人の最も弱いところを。みんながもっと独学すれば前提崩れるかも。
教員の受け取りをとやかく言うつもりはない。非常勤だけでなく有期の常勤講師も不安定そのもの。専任者も定年で終わるので、それはそれで戦々恐々。それより、いつから学校が真顔で「教育ビジネス」だのほざくようになったのか。私なんか古い頭の人間なので、そういうことを思うのだ。くっだらねえと。