2017年7月27日木曜日

ネットこわいと久々に思った

おお、なんだかいつの間にかユーチューブで観える映画やアニメが一気に増えた気がする。もちろんすべて有料だが。観たいとも思わないようなのでなく、けっこう話題作が揃っている。近いうちにレンタルの店舗が一気に姿を消すときが来るのかな。どっと来る感、久々にネットこわいと思った(今さらか)。

この恐怖感というか威圧感というか急激性かもしれないなと。教会や神学にネットを使うことにいまだにストップがかかる理由というか要素は。教会やいわゆる神学校が100%ネットで代替される日が来るとは少なくとも私には全く思えないが、90%くらい代替できてしまうかもしれないと思わなくもない。

牧師さんたち、そろそろネットから引き上げよっかとか言いたくなったりして。私がネットを始めた20年前もブログやSNSを始めた9年くらい前も「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の気持ちでいたが、今そうでもないよ。私の、というより牧師さんたちの書き込み、すんごい読まれていると思う。

だけどさ、私もそうだが、何の反応もないときは平気で言えたり書いたりできるのに、注目されたり話題にされたりすると急に赤面して凹んだりする。持ち上げられたりすると逃げる、隠れる。だって恥ずかしいもの。出たがりなのか恥ずかしがりなのかワケわからんタイプ、私と同じ仕事の人に多いと思うよ。

今書いたことは横に置くとして、「教会を失いたくない」と願いながら自分が果たすべき機能の大部分をネットで代替させてしまっているとしたら、これどう考えても矛盾なんだよね。それはずっと前から感じていたことだけど、そろそろ「無料お試し期間終了」というところかもね。はは、まあ冗談だけどね。

ありがとうございます。私の話ではないですよ。私はネットは全く苦にならないので。ただ、ネット人口がこれだけ増えると「ネットに献身する人」が必要ですね。でも、その姿をハタから見ると、教会からも家族からも背を向けてPCの画面だけ見て指先だけ動かしている牧師ってことになっちゃうんですよね。

そういう「ネット専属牧師」をサポートする仕組みができるといいのかもしれません。それを可能にするだけの力が日本の教会にないんですけどね。

そうですそうです。残る問題は、教会の理解だけです。やや誇張気味に言えば「ぜひネットに献身してください。わたしたちの顔など見なくていいです。PCの画面だけを見つめ、字を書くことだけに集中、専念してください。それがあなたのミッションです」と喜んで派遣してくださる教会が必要です。

はい全くおっしゃるとおりです。ネットが苦にならなくて、瞬時にいろいろ考えられて、炎上とかしないように言葉を選べて、しかも笑えることを書ける熟練したネット伝道者の育成が急務かもしれません。

呼称はともかく「ネット専属牧師」に対するニードは潜在的にものすごくある。私がなりたいという意味ではない。「日曜日に教会に通うこと」は仕事や病気や加齢、家族の同意を得られないなどの理由で「不可能」だが、聖書は知りたい、自分の悩みに答えを求めているという方は、ものすごくたくさんいる。

ネットに公開された説教や教理解説の文章を読め、録画を見ろ、音声を聴けと言われても、それはそれで一方通行だし、自分の問いにぴったりの答えが得られない。そういう場合にSNSのような双方向の、しかも「1対1の」閉鎖空間でない「みんなの中でさりげなくやり取りできる」開放空間が意味を持つ。

いつもはほぼ冗談しか言い合っていないけど、なんとなくそこにいてくれると安心するという存在が、「自称」も「公式」も含めた「ネット専属牧師」について私が描いているイメージだ。信頼できて威圧感がない存在。たとえていえば、ドラゴンクエストの世界に登場する「教会」のような存在かもしれない。