「本物の牧師」は日曜の午前中に式場で結婚式を挙げることができるはずがないので、そういうことをしているのはすべて「偽牧師」である、というご意見をいただいたので次のようにお応えした。
(こたえ)
何をもって「偽牧師」というかにもよりますが、隠退牧師や、いわゆる各個教会(ローカル・チャーチ)の牧会から離れている教務教師(学校や病院等で聖書を教える牧師)や無任所教師も「本物の牧師」のうちにカウントしていただけるなら、日曜日の午前中に「本物の牧師」が司式することは可能です。
そういう先生がたは、たとえば日曜日の午前中に結婚式があれば、ご自分はいつもの教会またはどこかの教会の夕礼拝などに出席するなどしてご自身の教会的責任をきちんと果たしておられます。
「牧師」にもいろんな形式や形態のミッションがあるのです。教会の説教と牧会だけが「牧師」の働きのすべてではありません。
いま書いたのは、まんま今の私です。たまたま今年無任所教師なので、結婚式の仕事をしています。ヨコのつながりがありますので「本物の牧師」が入っている式場がどこかは分かります。そうでない式場もたくさんあることも存じております。
「20回くらい結婚式に列席して、どこも外国人の偽牧師ばかりだった」とのことですが、このあいだ先輩の牧師が「私は式場で2千回結婚式をした」とおっしゃいました。私も驚いて、その先生の顔を二度見してしまいました。まだまだ世間は広いようです。
私はかかわっていませんが、たとえば八芳園(東京都港区白金台)は「本物の牧師」だけです。他にもいくつか名前を聞きましたが、いまちょっと思い出せません。
「キリスト教式」を堂々と謡う式場の結婚式から「本物の牧師」が完全撤退してしまったら、そのうさん臭さたるや目も当てられない状態になります。私が司式した結婚式の面談のとき、新郎新婦から「日本語が通じる人でよかった」と言われました。
私が申し上げたいのは「ビジネス」として行っている式場にも考え方の違いがありますよということだけです。押しなべてどこもかしこも一緒くたに切って捨てる言い方は、私もしないわけではないので自戒を込めて言いますが、我々の悪い癖だと思います。
現実問題としてはむしろ、式場のというか新郎新婦のニードとしては圧倒的に土・日・祝日にしてほしいわけですが、それは引き受けられないと断る牧師や教会が多いので、やむをえず「偽」でも、となってきた状況もあるようです。今の形になってきた責任は、教会側の考え方にも全くないとは言えません。
キリスト教式結婚式は、教会の宣教の課題そのものです。司式をしてみると分かりますが、新郎新婦は決して衣装や写真写りの良さだけでキリスト教式結婚式を選んでいるのではありません。それだけの目的なら、写真店に行って写真だけ撮ればいいわけです。彼らも「本物」を求めているのです。そこを教会が見落とすことはできません。
それと、いちばん厳しい言い方かもしれませんが(私は100パーセント「教会側」の者ですので念のため)、自分たちの教会堂で未信者が結婚式をしたり、牧師が教会員の家族でもない未信者の結婚式をしたりするのを、教会が嫌がってきた経緯があります。教会が締め出してきたのですよ。
それが少し変わってきて、「うちの牧師がうちの会堂で未信者の結婚式をするのは会堂建築資金の借金返済にもなるのでいいが、外でやるのは教会員かその家族に限定してほしい」などと言われるようになったりもしてきました。
それで式場にいるのは「偽牧師」ばかりということになっているなら、責任ははっきり教会にあるではありませんか。
貴教会は未信者の結婚式を受け入れているとのこと、失礼な言い方をお許しいただけば、とても健全な教会だと思います。でも、それはあくまでもその教会の会堂を使っての結婚式のことですよね。
牧師さんが教会員かその家族でもない未信者の結婚式を外の式場でするのは問題になりませんか。「それはやめてほしい。教会の牧会に専念してほしい」と言われませんか。
その関連で、私がちょっと気になっているのは、結婚式と言えばなぜかいつもお金の話になることです。牧師の生活の足しだとか、教会堂の負債返済の足しだとか。
なんだかまるで、教会が結婚式というものを薄汚いもののように見さげているかのようです。あるいは、信者になるなら挙げてやってもいいが、我々の神聖な場所を薄汚い動機の連中に踏みにじられるのは生理的に不愉快だというような態度。はっきり書きすぎですかね。
教会(宗教法人)の土地建物が無税なのは教会が得したという話ではなく、「世のため人のために開放されるべき場所」だという前提理解があるからです。教会が自己目的化していくなら、税金を払うべきなのです。
「伝道所」であっても包括宗教法人としての教団のもとにあれば税制的な優遇を受けています。そうであれば、教会堂の使用は自己目的で終始するのではなく「世のため人のために開放すべき場所」であることを貫くのは当然です。自分たちのお城のように思ったらだめなんですよ。教会堂は、教会と教区と教団と「世間の」ものです。
日本基督教団の教規では「教会担任教師」以外は「牧師」ではないという意見をいただきました。日本キリスト改革派教会の教会規程も同じでしたので、その話はいつか出てくるだろうと思っていました。
それで、私もつい最近まで「牧師」と名乗ることを避けていました。しかし「教師では世間には分かりにくいし、誤解される」という複数の意見をいただいたので「牧師」を名乗るようにしました。この話も同じ理屈(世間には分かりにくい)で書いています。
もっとも教団総会や教区総会などの「議員資格」の話になれば、「牧師様」と教務教師や無任所教師の扱いは、極端に差をつける慣わしになっているようではありますけどね。でも、そんなことって、世間の人たちには、なんも関係ないことではありますよね。私はネットには、基本的に「世間向けの言葉」を書いております。