2017年7月31日月曜日

レースはもう終わっている

15年以上前、マウンティングしたがり男と出会った。男の職業は牧師。私が高校を出てストレートで牧師養成専門の「偏差値35と進学塾が表示する大学」に入ったと言っているのに「共通一次は受けただろう。その偏差値はどのくらいだったのか」としつこく聞いてくる。受けていないと言っているのに。

Fランとでも何とでも呼んでもらって構わないが、そういうのからフリーになれよと本気で言いたくなるときがある。もっと大変だけどね。そういうことで評価されることは一切ないから。その代わり手に入れられるものも大きいよ。躊躇なく全く外から(ganz andere)今の競争社会を分析できる。

ちなみに私の出身大学は、私が受験した33年前(1984年)から今日に至るまで、進学塾が「偏差値35」と表示し続けている。高校からのストレート入学者を受け入れる学部1年の定員が、当時も今も10名弱。つまり、その10名弱の椅子を獲得できるかどうかの偏差値が表示されているというわけだ。

よし、争え。その10名弱の椅子を奪い合え。死に物狂いで闘い、見事その椅子をかっさらえ。そういうバトルでも始まれば偏差値はうなぎ上りだろう。ただし、その人は必ず牧師になること。その「牧師になること」という点については最近ごくわずかな緩和策が講じられたようだが、本質は変わっていない。

話を元に戻す。15年以上前に出会ったマウンティングしたがり男。職業は牧師。なんかねえ「牧師のくせに」という言葉はこういうときこそ使うべきだと思う。なんだか意味不明なほど学歴コンプレックス持ちすぎの牧師多すぎなんじゃないの。いいかげん降りてくださいね、レースもう終わってますからね。

あと留学と学位。出身大学の影響であることは間違いないが、私はそういうのに全く興味がなかった。ややナショナリスティックな感覚も含んでいたことを否定しないでおくが、大学や神学校の教授になる方々は別格として、牧師として働くために必然性がないし、何の意味を持つのかが本当に分からなかった。

しかしその後、日本キリスト改革派教会に移ったとき、この教派独特のインターナショナリズムの影響を受けた。いくらか皮肉を込めた言い方をすればインターナショナルな「改革派教会」なるものの日本ブランチであるかのように自らを位置付けることを全く苦にしていないように見える人々の影響を受けた。

神学を重んじる教派にしては日本国内の教派神学校が「大学」でないことが関係しているのかもしれないが、私にはよく分からないほどの外国志向があり、留学と学位に興味津々の牧師たちが結構いたように思う。へえそんなものかと最初は驚いたが、慣れというのは恐ろしいもので、私も興味を持ちはじめた。

ただ、今思えば不覚にも留学と学位にほんの少し興味をもってしまったことの理由は本当にひとつだけだった。ここでまたファン・ルーラーが登場する。ファン・ルーラーの翻訳をしてなんとか出版にこぎつけたいと思った。そのときに訳者の肩書きとしては今のままでは足りないなと思った。ただそれだけだ。

しかしファン・ルーラーに関しては紙の本の出版は私の仕事ではないと悟ったので、その問題は片付いた。今の私のもっぱらの関心は日本語にもっと習熟したいということだ。難読漢字や典雅な古典表現を使えるようになりたいという意味ではない。威圧感がなく安心してもらえる言葉を書けるようになりたい。