2017年7月13日木曜日

ブルンナーとバルトの「自然神学論争」の背景

ブルンナーとバルトの対決の背景に、当時の若手神学者バルト、トゥルナイゼン、ゴーガルテン、メルツの共同編集同人誌『時の間』をバルトがいきなり廃刊にしたことへのブルンナーの抗議がある。売れっ子バンドが「方向性の違い」で解散。第三者による仲裁が失敗して炎上拡大、といったような話である。

字と思想で仕事をする人にとって発表の場を失うこと、あるいはそれが減ることの持つ実害性は非常に大きい。インターネットがなかった時代。新聞記事にしてもらえるほど知名度があるわけでなし、本にするまでには至らない試行錯誤状態の原稿を公表するためにちょうどよかったのは同人雑誌だっただろう。

そして、同人雑誌とブログやSNSとの大きな違いは、その字と思想をマネタイズできるかどうかだとやっぱり思う。前者は可能、後者はほぼ不可能。80年ほど前の神学者たちが周囲の人々から「食うために書くのは不純だ」と言われたかどうかは分からないが、食えないと書けない、それだけは人類の不動の事実だ。

神学に「安全地帯」は存在しないが、「今日の状況」に直接絡まない書き方ができる部門がないわけではない。歴史的文献の翻訳や研究、辞書の編纂など。それでも「今日の状況」と無関係ではありえないと私は思うが、直接的言及は回避できる。しかし回避型でない直接性をバルトたちは模索したわけだ。

「教会」の存在は「教会の教師」が発する字と思想を常に無条件に支援するだろうか。そういうことは、大げさにいえば教会史上一度もなかったのではないか。両者は対立関係にあるわけではないが(それでは困る)、緊張関係はあり続けるだろう。どちらが常に善で、どちらが常に悪だということもない。

はっきり言われた経験を持つ「教会の教師」は少なくないはずだ。「ぜひとも教会の宣伝になるようなことだけを書いてほしい」とか、「教会にとって不都合なことをお書きになりたいなら、教会をおやめになってからならいくらでも」とか。こういう要求に「教会の教師」が服するなら教会は腐敗の一途だ。

おっと、私まで「直接的言及」の世界に連れ込まれそうだ。ブルンナーとバルトの対決についての昔話をしていただけなのに。「むかしむかし、あるところにブルンナーとバルトがいました。ブルンナーは山に芝刈りに、バルトは川に洗濯に行きました」という程度の当たり障りのない話にとどめておこう。

ネットでお借りした画像で申し訳ないが、これがバルト、トゥルナイゼン、ゴーガルテン、メルツ共同編集神学同人誌『時の間』(Zwischen den Zeiten)の表紙だ。ロゴのヘビメタ感たるや。このド迫力でダルダルした神学と教会を蹴散らしたわけだ。一方で絶賛され、他方で拒絶された。

いま気づいたが、画像の表紙のフラクトールは

Unter Mitarbeit von
Karl Barth
Friedrich Gogarten Dr.
Eduard Thurneysen
herausgegeben von
Georg Merz

だと思うが、いろいろ興味深い。

これを見て慰められる人がいるのではないか。『時の間』編集人筆頭者バルトは改革派で無学位で大学教授になりたてでデビュー作売り出し中。2人目ゴーガルテンはルーテル派でドクター(名誉学位)で大学教授になりたて。3人目トゥルナイゼンは改革派で無学位で教会の牧師さん。メルツは編集実務担当。

神学も同人誌から出発していいし、学位も査読もなくていい。「だれだこいつ」と思われても気にせず自分たちの書きたいことを書いて、自分たちで売ればいい。すぐ売れなくてもいいし。80年後にオークションで高額取引されているかも。ただ冊子になっているほうがいい。ブログは本棚に立たないからね。

神学の学会や研究会はどこでも、始まり方は同じだと思う。「こういうのやりたいね」「おもしろそうだね」「よしやるか」で始まる。あとは「あの先生の講義泣きそうにつまんない」「説教も意味不明だし」「本もおもしろくないし」「早くやめてほしいわ」「よし倒すか」というのも始まり方かもしれない。

ヘビメタといえば私が最初に思い浮かべるのはキッスだ。ブルンナーもバルトも「危機神学」(Theology of Crisis)と本当に呼ばれていた。そして彼らは熱心に愛を教える。I WAS MADE FOR LOVIN' YOU BABYだ。思わずイメージイラストを描いてしまった。


こうしてみると松谷信司新社長率いる新装「キリスト新聞(Kirishin)」の方向性は今の時流にかなっている。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」(マタイ9章17節)。いいぞピューリたん。負けるなキョウカイジャー。先輩がたが応援しているぞ。