2013年5月26日日曜日

矛盾だらけの人生でも誠実でありたい

ローマの信徒への手紙2・17~24

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです。」

今日もローマの信徒への手紙を開きました。いまお読みしました個所に書かれているパウロの言葉は、たいへん厳しい内容をもっています。あなたはユダヤ人と名乗り」(17節)と書かれてあるとおり、直接的にはユダヤ人に対する批判の言葉であると言えます。ユダヤ人は「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえて」(17~18節)いる人たちです。

しかし、前回もお話ししたとおり、この文脈でパウロが「律法」と書いている言葉はそのほとんどすべてを「聖書」という言葉に読み替えることができます。ユダヤ人は聖書に頼り、神を誇りとして生きている人々です。そしてもしそうであるならば、わたしたちキリスト者も同じです。わたしたちには新約聖書がありますので、新約聖書にも頼って生きているという点でユダヤ人とは異なる、という言い方もできなくはありません。しかし、わたしたちキリスト者は旧約聖書にも頼って生きています。わたしたちにとっては旧約聖書と新約聖書を合わせて聖書です。

ですから、今日の個所でパウロが批判している相手がユダヤ人であることは間違いありませんが、その批判の矛先にわたしたちキリスト者は含まれていないと考えることはできません。わたしたちのことも批判されていると読むべきです。

しかしまた、この言葉を書いているパウロ自身がユダヤ人であり、かつキリスト者であるという点が、おそらく最も重要です。パウロは聖書に頼って生きている人々が抱え持つ矛盾に注目し、その点について厳しく批判しています。その場合の聖書に頼って生きている人々の中にはユダヤ人だけではなく、わたしたちキリスト者も含まれています。しかしまた、その人々の中には必ず、パウロ自身が含まれています。

つまり、パウロは悪い意味で自分のことを棚に上げて批判の言葉を書いているわけではないのです。自分の身を切るような言葉を書いています。このことを言えば確実に自分自身の身にも返ってくるようなことを、あえて書いています。

私が言うのはおかしいかもしれませんが、おそらくパウロは、そうとう真面目な人です。自分自身にとって不利になるようなことも書いたり語ったりすることができる人です。自己弁護をしません。問題がある人々を批判もしますが、同じ言葉で自分が批判されることになることを恐れません。そういうことができる人は物事を勝ち負けで考えない人だと思います。ディベートが好きな人々がいます。その中に、議論に勝つか負けるかだけが問題である人がいます。パウロはそういう人ではないと申し上げたいのです。

「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(19~20節)と続いています。最後に「教師」と書かれていることは無視できません。なぜなら、いくらなんでも、パウロが「ユダヤ人」のすべてを「教師」であると考えていたとは思えないからです。むしろ考えられることは、パウロが批判しているのは、聖書に頼って生きている人々であるという以上に、聖書の御言葉に基づいて人を教える教師たちであるということです。

その教師の中に「長老」は含まれていないのかという疑問が生じるかもしれません。あるいは教会役員や教会員。含まれていると読むこともできますし、含まれていないと読むこともできるでしょう。私が重要だと思いますことは、「ああ、パウロが書いていることは教師だけの問題なのか。それならば、わたしたちには関係ないことだ」というふうに考えないほうがよいという点です。なぜその点が重要なのかといえば、パウロがあえて自分自身の身を切るような苦しい言葉を書いている意図は、それはやはり、彼の言葉を読む人たちに反省を促すことに他ならないと思われるからです。

彼は明らかに自分自身が矛盾に苦しんでいます。彼の心と体には激しい痛みがあります。彼の痛み苦しむ姿を読者に想像してもらいたいと願っているように、私には読めます。そしてパウロとしては、おそらく読者にも彼が味わっているのと同じ痛みを味わってもらいたいとも願っています。おそらく彼は読者にも苦しんでもらいたいのです。パウロはいじめっ子ではありません。しかし、神に逆らい、罪を犯すことは、これほどまでに自分自身を苦しめ、周りの人々を苦しめるものであるということを、自分自身も苦しみながら訴えているのです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」(21~22節)。このようにパウロが書いていることを「矛盾」という言葉で説明するのは間違っていると思われてしまうかもしれません。矛盾というよりも虚偽ではないか。うそをつき、人をだましているのであって、つまりそれは詐欺である。そのような読み方も可能かもしれません。

かりにも教師を名乗り、聖書の御言葉に基づいて人を教えようという人間であるならば、「盗むな」と説いた後に盗むな。「姦淫するな」と言った後、その舌の根も乾かぬうちに姦淫するな。そのように厳しい裁きを受けなくてはならないのが教師であるということは間違いありません。まさにいま私が申し上げたことがそのまま当てはまる言葉が、新約聖書の中にはっきりと記されています。ヤコブの手紙の次の言葉です。

「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」(ヤコブ3・1~2)。

ご存じの方もおられると思いますのでほんの少しだけ触れておきますが、ヤコブの手紙は16世紀の宗教改革者マルティン・ルターが「藁でできた手紙」と呼び、価値がないとみなしたものです。なぜルターがヤコブの手紙には価値がないと考えたのかを詳しく説明することは今日はできませんが、ひとことだけ言えば、パウロの教えとヤコブの手紙は矛盾するというふうに、ルターには読めたようです。パウロの教えを重んじたいルターにとっては、それと矛盾するヤコブの手紙は、新約聖書に収められたこと自体が間違いだったと言わなければならないほど無価値であると見えたようです。

しかし、それはルターの立場ではありますが、わたしたちはそのような立場は採りません。ヤコブの手紙にも価値があります。とても厳しい言葉が多く書かれていますが、まさに真理と思える言葉が書かれています。「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」。これは、すでに教師の働きに就いている人々こそが聞かなくてはならない言葉です。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」。

しかし、ヤコブもまた「わたしたち教師」と書いていることが重要です。ヤコブは教会の中に教師という職務が置かれること自体が間違いだと言っているのではありません。ヤコブが書いていることはそういう意味ではありません。また、私は立派な教師だが、あなたがたは教師になる資格はないというようなことでもありません。そんなことではありえない。それではヤコブの意図は何なのかといえば、それが、今日開いていただいているローマの信徒への手紙の個所にパウロが書いているのとほとんど同じことであると考えることができると思うのです。

ヤコブが書いているのは教師制度の否定ではなく、自分の身を切る言葉を書いているのです。聖書に基づいて人を裁く仕事をする人は、その人自身も同じ言葉で必ず裁かれることになるし、「教師」という立場にあればもっと厳しい裁きを受けることになる。そのことを十分に自覚した上で教師になるなら、なりなさいと、ヤコブは逆説的なことを書いているのです。そしてパウロが書いていることも、趣旨においては、それと同じことなのです。

それは平たく言えば、教師も人間であるということになります。しかし、人間だから必ず罪を犯すという言い方は間違いです。だから人間は罪を犯すものなのだ、罪を犯してもよいのだ、それが自然な姿なのだなどと居直ることは間違っています。罪に市民権を与えてはなりません。しかし、人間には弱さがあり、欠けがあるゆえに、罪の誘惑に負けてしまう傾向があるということは、聖書が至る所で教えていることです。

そして、いずれにせよそのような罪の前で弱さを持つ人間が、教師になるのです。犬が教師になるわけではないし、牛が教師になるわけではありません。そういうのは通常ありえない話です。人間が教師になるのです。

そして、その人間である教師が「盗むな」と説きながら盗み、「姦淫するな」と言いながら姦淫し、偶像礼拝を禁止しながら偶像を拝むことにもなる。ただし、その場合の盗むとか姦淫するとか偶像を拝むというのは、だれの目から見ても明らかに犯罪であるような公然たるものである場合とは限りません。

キリスト者にとっての律法解釈の基準はイエス・キリストの教えです。それは、兄弟に「ばか」という者はその兄弟を殺したのと同じであり、みだらな思いで他人の妻を見る者は、姦淫を犯したのと同じであるというあのイエス・キリストの教えです。

その基準に当てはめたときに、いかなる意味でも罪を犯すことはありえないと言い張れる人がいるでしょうか。もしかしたらいるのかもしれませんが、何人くらいいるでしょうか。そのような、いかなる意味でも罪を犯さない人だけが教師としてふさわしいという話になるのだとすれば、だれが教師になれるでしょうか。一握りの人も、いや一人も残らないのではないかと思われます。

その意味で、パウロが書いていることは、やはり矛盾です。それはなるほど虚偽でも詐欺でもあるかもしれませんが、それ以上に矛盾です。「他人に教えながら、自分には教えない」と批判されながら人を教える仕事に、だれかが就かなければならない。それは、やはり矛盾なのです。しかし、矛盾だらけの人生でも誠実でありたい。そのような思いがパウロの中にあったと思うのです。

(2013年5月26日、松戸小金原教会主日礼拝)