2013年5月16日木曜日

「罪に市民権を与えること」に対するファン・ルーラーの批判、そしてオランダの「ウルトラ改革派」と「リベラル派」をめぐる鼎談

私が5月14日に書いた日記 (「体」と「欲」と「罪」の関係は「当然」でも「必要」でも「必然」でもない)について藤崎裕之先生と沼田和也先生から貴重なコメントをいただきました。

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(藤崎)原罪とこれから私が犯す罪との違いも自覚しなければならないと感じています。「罪人である」ということと「罪を軽く見る」ということは全く違うことですよね。ましてこれから罪を犯しても神様から許してもらえると考えるのは、傲慢ではないかと思うわけです。それでも罪はさけられないですけれど。

(沼田)去年ペリカンの教理史を読んでいて、もっぱら西方のキリスト教界において原罪の教理が発展したのだと知りました(ことにアウグスティヌスにおいて)。この「原罪」を、自己卑下や自己嫌悪ではなくて、神さまのもとに自己の限界を(可能な限り)正しく知るような、そういうありかたとして学んでゆきたいと思います。間違っても「どうせ原罪があるんだから、罪人なんだから、ワルイことすんのはあたりまえ」みたいなところに落ち着かないために。

(関口)藤崎先生、沼田先生、貴重なコメントありがとうございます。私が「罪の問題」について考えるときにいつも思い浮かべるテキストは、私訳で申し訳ないのですが、ファン・ルーラーの「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)という論文の第4章「罪に市民権を与えること」です。

「ウルトラ改革派」というのはオランダ国内にある(いまでも生き延びている)独特の改革派教会の一群のことです。オランダとは異なる教派構成をもつ日本のキリスト教界の”現象”の中にファン・ルーラーが指摘しているのとぴったり合致する具体例を言うのは難しいのですが、まあ、でも、推して知るべし的な類推はできそうな話だと、私なりに受けとめています。可能でしたら、ぜひご一読くださいませ。そして、ご感想などいただけますと、どんなことでも(お答えできることなら)お答えいたします。

A. A. ファン・ルーラー「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html

(藤崎)印刷してじっくり読みますね。

(沼田)拝読しました。リベラルへの批判は、そのまま私自身へのそれとして深く響きました。それにしても、ウルトラ改革派への批判としてファンルーラーが論じていることは、以前私もぼんやりと「罪という言葉のインフレ」として感じていたことを、とても論理的に代弁してくれていているように読めて、嬉しく思いました。

悔い改めの言葉としての「罪」が、連発されるうちに安くなり、あって当たり前の前提みたいなものに成り下がり、いつでもどこでも罪→絶望→キリスト→希望、みたいな説教「のみ」になってしまうこと。これに対しても、私自身において、彼の批判するリベラル的な傾向同様に自戒し続けたいです。

ところで原罪について、幼児洗礼の正当性を弁証するために「生まれた時から罪がある」と、ことにアウグスティヌスが主張したとペリカンは語りますが、もしかするとペリカンの歴史認識においてもファンルーラー的な問題意識が働いたのかもしれません。過剰に(教理史としてはやや踏み込み過ぎた表現で)アウグスティヌスの原罪論と予定論を批判しているように思えましたので。

(関口)藤崎先生、沼田先生、ファン・ルーラーの論文「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)に興味を持っていただき、ありがとうございます。この論文はファン・ルーラー62歳の絶筆です。これを書き終えた後、おくさんに「終わったよ」(het is af)と言ったそうです。それからまもなくして(どれくらいの時間が経ったかは分かりません)三度目の心筋梗塞が起こり、絶命しました。

この最期の論文の中でファン・ルーラーは、「改革派の右翼には異端が潜んでいる。彼らの横に立つとリベラル派の異端が児戯に見える」という”命題”の論証を行いました。私はまだ全訳できておらず、ネットに公開しているところまでがマックスですが、なるべく完訳したいと願っています。

完訳できない(途中で止まってしまっている)理由は、私に時間と心理の余裕が無かったことや、オランダ語というマイナー言語の取っつきにくさもさることながら、上記したとおり、「リベラル派」のほうはともかく、オランダにおける「ウルトラ改革派」は、日本にはぴったり合致する対応物としての教派やグループが存在しないので、日本の中で「改革派」を名乗る人たちの中で自称・他称の「やや極端な」人たちのすべてが、ファン・ルーラーの名を借りて批判されてしまうようなことになっては困るなという私の中の躊躇があって、訳し方や扱い方・扱われ方は慎重にしなければならないなと思っているうちに、訳出が停滞してしまいました。

(藤崎)なるほど。日本には対象がないということは重要ですね。完読しましたが、その点が僕には不明だったのであり難い指摘です。難しい論文ですね。もう少し熟考してみます。蛇足ではありますが、リベラル派の描写が面白いですね。リベラル派になぜ教会が必要なのか、そりゃもう、今や教会しか耳を貸してくれないですからね。そういう意味では教会は親切ですね。本当に耳を貸してくれているのかさえ疑わしいですけれど。ファン・ルーラーの尺度では僕はリベラルではないのかもしれませんね。

ついでに蛇足ですけれど、日本基督教団の中にある聖霊刷新運動の方々はもともと社会派リベラルでした。この人たちはウルトラ改革派に近いかもしれません。右派と左派というのはころころと入れ替わるから面白いですね。蛇足でした。

(関口)藤崎先生、ありがとうございます。いえいえ、蛇足とは思いません。とても有難いお言葉です。実際問題、ファン・ルーラーの「リベラル派」の描写は、笑いながら訳せる、かなりコミカルなものです。私も、藤崎先生はファン・ルーラーの基準に当てはめれば「リベラル派」ではないと思います。さりとて藤崎先生が「ウルトラ改革派」であることはありえないです。ちょうど良い線ではないでしょうか。お世辞抜きでそう思います。

オランダの「ウルトラ改革派」は、摂理信仰ゆえに生命保険への加入を拒否するとか、黒ずくめの服装(靴下に至るまで黒ずくめ)をいつも着ているとか、そういう人たちですから、日本に全く対応物が無いとは言い切れないのですが、私の知るかぎり、そういうタイプの信仰の持ち主は日本ではたいていアルミニウス主義の側にいると思うのですが、オランダの「ウルトラ改革派」は根っからのカルヴァン主義者であるという点が違うと思います。

この機会に訳文をいじくりました。語尾の「のである」をすべて削除してみました。わりとすっきりした文章になったのではないかと思いますので、また読んでみてくださいませ。以下のくだりなどは、私はとても面白く読める部分です。名指しは避けますが、ここの部分の「リベラル派」と「ウルトラ改革派」は、具体的に顔が思い浮かぶ対象がいます(笑)。

(以下、ファン・ルーラー「ウルトラ改革派とリベラル派」(1970年)からの引用)

この点でリベラル派はたいてい違っていた。たいてい彼らは自分は何者であるかを公表してきた。彼らはリベラル派(vrijzinnig)を名乗ってきた。その意味は常に、「正統主義ではない」(niet-orthodox)ということだった。彼らは、教義とか教会の信仰告白のようなものとは明らかに馬が合わない。そのような言葉にだけは近づかない。リベラル派の側においては、正統主義と正統主義者に対する明らかな反感や敵意や憎悪が語られることさえある。リベラル派の人々は、たいてい、洗練されていて、親切で、信頼できる人物である場合が多い。ところが、正統主義に立ち向かう場面での彼らの態度には、熱狂的で憎悪に満ちたものがある。その原因はおそらく、彼らが過去に味わった何らかの体験にあるのだろう。

この点が、やはり、ウルトラ改革派とリベラル派との大きな差をつくる。ウルトラ改革派の人々は、正統主義と真の内面的な敬虔性の旗のもとで航海する。彼らの船の積荷は、教義の根本構造に全く対立する異端である。しかし、教義そのものは高くマストの上ではためき続けている。それに対して、リベラル派の人々はこの旗を引きずりおろす。彼らの船の積荷は、教会の教義と競い合う十分な異端である。彼らは三位一体、受肉、贖いの犠牲、復活、サクラメント、予定などを問題にする。リベラリズムの中にまだ残っている教会の教義は何だろうか〔もはや何も残っていないのではないかと思うほどである〕。ところが、リベラル派の人々は、代々の教会が教えてきたのとは対立することを彼らが教えているということを公然と述べる。

(沼田)おもしろいし、みみがいたい・・・・

(関口)そうですかね?(笑)私の目から見れば、沼田先生はファン・ルーラーが言うほどの「リベラル派」ではないように見えますけどね。まあ、明言・断言できるほどの根拠はありませんが、オランダにおいて「リベラル派」(Vrijzinnig)は、まさに反動というか、「正統的カルヴァン主義者」のアンチとして生まれたものだと思いますので、純粋で極端なリベラルが生まれやすい環境ではないかと思うのです。

具体例を挙げていくと語弊が生じはじめること必至ですが、最近のオランダを有名にしている特定の薬物の合法化とか、産婦人科系のある問題の合法化とか、あるいは「積極的安楽死」(positief euthanasie)など、世界のどの国よりも先んじて「新しい」道を開いてきたのはオランダの「リベラル派」(Vrijzinnig)のキリスト者たちと、教会には一切かかわらないタイプの「人道主義者」(humanisten)です。

(藤崎)ファン・ルーラーの言わんとするところは「閉じた信仰の世界で毅然としている人」よりも「無秩序な信仰の世界で溺れている人」の方がよっぽど「まし」だという事でしょうか。ファン・ルーラーのいうリベラル派は、いわゆる「社会派」ではないのですね。自由神学を指しているように思うのですが、それでよろしいですか。

(関口)藤崎先生、二つのご質問ありがとうございます。

第一の問いに対する答えは、微妙です。ファン・ルーラーなら、両方大事、というような答え方をするのではないかと思います。「閉じた信仰の世界で毅然とすること」と「無秩序な信仰の世界で溺れること」と、「無秩序な世界の現実を勇気をもって引き受けること」の、どれを選べばいいですかとか聞くと、全部大事なことだから、四の五の言わないで全部やり遂げなさいと叱られてしまう、そういう鬼教師だったのではないかと、私は想像しています。

第二の問いに対する答えは、「はい、そのとおりです」です。オランダの改革派教会は、こと19世紀以降は基本的にすべて「社会派」です。キリスト教政党(反革命党→キリスト教民主党)を作って直接世の問題に関与しようとする姿勢をもっていますので、ほとんどすべて「社会派」です。第二次大戦後、キリスト教政党を支持せず労働党(共産党)の支持に回った改革派(バルト主義)の人も出てきましたが、それはそれで十分な意味で「社会派」です。

「教会は政治の問題にかかわるべきでない」という人たちもオランダ改革派にもいますが、それは「教会」と「キリスト教政党」を区別した上で言っていることです。つまり、「教会自体は政治的なことからなるべくニュートラルであるべきだ。そのかわり教会はキリスト教政党を応援すべきだ」という考えです。それが良い判断であるかどうかはともかく、その人たちの考えはそのようなものです。

日本のある人たちは「教会は政治の問題にかかわるべきでない」と言いますが、キリスト教政党もないところでそれを言うのは、キリスト教社会倫理の放棄を意味すると私は思いますので、その人たちの信仰は身体的・倫理的表現を伴わない、完全に脳内の妄想にとどまると思います。つまり、それを凶悪なグノーシス主義と呼ぶのだと思います。

(沼田)関口先生の仰る通りだと思います。その「身体的・倫理的表現」が、強力に忌避されるんですよね、教会では・・・やはり、諸テーマをいかに「この私のリアルな」問題として語るか/聴き取るか、みたいな部分が難しいのかなあと思っています。わずかでも自分の身体から離れて語られる/聴かれると、それはとたんに「賛成か?反対か?」の踏み絵、「これを理解しないとはキリスト者といえるか?」の分断に陥ってしまう、と。

(関口)沼田先生、ご理解いただき、ありがとうございます。身も蓋も無いことを書いちゃいますが、日本にも散見する欧米由来の「リベラル」を名乗る思想家たちは、なんていうか、キリスト教というか、神学というか、その中でも「ウルトラ右翼」のそれのアンチとして成立してきた起源も歴史もあると思うので(マルクス然り、ニーチェ然り、フロイト然り)、逆に言えば、キリスト教も神学も機能していないところではカラ振りしてしまうんじゃないかなと思います。

で、いま書いたことは沼田先生の直前のコメントとは直接関係ないことでしたが、ファン・ルーラーにとっての「ウルトラ改革派」と「リベラル派」は「あれか・これか」ではなかったんです。両方大事だと言い切れるところがファン・ルーラーにあり、どっちかにしてしまおうとする単純一元論思考のひと・グループに対して猛然と反対したために、教会政治的に窮地に立たされ、急激に寿命を縮めてしまったようです。

一つの教団・教派の中で、「我々のほうが神に近い。お前たちは人間的だ」とか「お前たちは神の名を借りた傲慢」とか互いに言い合って分裂しあうのは世の常、教会の常ですが、実はお互いがお互いを必要とし合ってるんじゃないでしょうか。「愛」が必要だと思いますよ、私は。

(沼田)関口先生の、リベラルと保守との愛の関係について言うなら、さらに、リベラルという価値観は保守という価値観があるから成立するのであり、保守という価値観もまた逆向きに然り、だと、最近強く思っています。対極の両端を眺めるあれかこれかも時には決断として重要ではあります。しかし、むしろその愛における両者の関係性を、私は考えてゆきたいのです。