ローマの信徒への手紙2・11~16
「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」
先週からローマの信徒への手紙の2章に入っています。先週は1節から10節まで読みました。切り方として正しいかどうかは迷いましたが、先週読んだ個所と今日お読みしました11節から16節までの個所とで語られている内容に違いがありますので、10節と11節の間で区切りました。
今日の個所に書かれていることを、また最初に一言でまとめておきたいと思います。しかし、その前に説明しておかなくてはならないことがあります。それは、今日の個所に繰り返し出てくる「律法」は、「聖書」または「聖書のみことば」という言葉で置き換えるほうが分かりやすいし、きっと皆さんに納得していただける話になるだろうということです。実際にやってみます。
「神は人を分け隔てなさいません。聖書を知らないで罪を犯した者は皆、この聖書と関係なく滅び、また、聖書の下にあって罪を犯した者は皆、聖書によって裁かれます。聖書のみことばを聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ聖書を持たない異邦人も、聖書の命じるところを自然に行えば、聖書を持たなくとも、自分自身が聖書なのです。こういう人々は、聖書の要求することがその心に記されていることを示しています。」
いかがでしょうか。ほとんど違和感なくお聞きいただけたはずです。違和感がないということは、西暦一世紀にパウロが書いた「律法」という言葉の意味は、今のわたしたちが「聖書」という言葉で理解していることとほとんど同じであるということを意味しています。
実際にそうでした。はっきりしていることは、ローマの信徒への手紙をパウロが書いている時点では、わたしたちの言うところの新約聖書は存在しなかったということです。彼らにとって聖書といえば、わたしたちの言うところの旧約聖書だけです。
旧約聖書がなぜ「旧い」のかといえば、聖書に「新しい」部分が後から加わったからです。しかも、二千年前の聖書は今の旧約聖書と中身は同じですが、形式が違いました。当時の聖書の形式についての歴史的に正確で詳細な説明をすることは、私にはできません。
しかし大雑把にいえば、律法と預言者と諸書という三つの部分に分かれていました。それで「律法」や「預言者」という言葉だけでわたしたちの言う旧約聖書全体のことが言われることもありました。
そのため、今日の個所でも、パウロがたとえば「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく」(13節)と書いているところを、わたしたちが「聖書のみことばを聞く者が神の前に正しいのではなく」と読み替えることは、間違いでもこじつけでもありません。むしろ、パウロの意図を正確に理解できる読み方なのです。
ですから、今日の個所を一言でまとめる場合も、今まさに触れた「聖書のみことばを聞く者が神の前に正しいのではない」と読み替えた点を考えればよいのです。それはつまり、一人の人間が神の前に正しい生き方をしているかどうかは、その人が聖書の御言葉を聞いて学んで知っているかどうかということと完全に一致しているとは言えない、ということです。
聖書の御言葉を学んだことがない人でも、神の前に正しい生き方をすることは可能である。また、それとは逆に、聖書の御言葉をいつも聞き学んでいる人でも、神の前に正しくない生き方をすることはありうる、ということです。
しかも、わたしたちにとって聖書の御言葉を聞くということは、自分ひとりで、個人で聖書を学ぶという以上に、教会で聖書を学ぶことを意味しています。ですから、パウロが言っていることをさらに言い換えれば、教会に通っていない人でも神の前に正しい生き方をすることはできるし、逆に教会に通っている人でも神の前に間違った生き方をしていることがありうるということになるでしょう。
私はこのようなことをパウロが書いているということが重要であると考えます。そして、このようなことをパウロが書き、それが聖書としてまとめられ、聖書の中に書かれているということが重要であると考えます。
なぜ重要なのでしょうか。わたしたちはこのような言葉を、教会において聖書を学ぶことにおいて常に確認し続けることができるからです。そのようにしてわたしたちは、聖書の御言葉を聞いている者だけが独占的に神の前に正しい生き方をしているわけではないということを、聖書が教えているということを知ることができます。聖書はわたしたちが傲慢に陥ることを防いでくれるのです。
教会の中だけに神の前に正しい生き方をしている人々がおり、教会に通わない人たちはすべて神の前に間違った生き方をしているとは言い切れないということを、聖書が教えてくれるのです。
「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれていることが、まさに私がいま申し上げたことであると考えていただいて構いません。教会に通っているわたしたちは、教会に通っていない人たちを見くだすようなことをしてはならないのです。
教会に通っている人と、通っていない人とが全く同じであるという意味ではありません。違いがないわけではありません。しかし、教会に通っている人には罪がないとは言えません。罪という点においては、神は、教会の中の人と外の人とを差別されないのです。このことをわたしたちは自分自身に言い聞かせなければなりません。
しかし、私はここで話をやめることはできません。ここで話をやめると誤解を招いてしまいます。教会に通わないし、聖書の御言葉を聞いたことも学んだこともない人でも、神の前に正しい生き方をすることはありうると言いましたのは、あくまでも可能性の話であって、実際にそうだということではありません。
パウロは、わたしたちはすでに学んだこの手紙の1章18節以下の部分で、すべての人に罪があるということを断言していました。それが意味することは、教会に通ったことはなく、聖書の御言葉を聞いたことも学んだこともない、そのような人にも罪があるということです。
何が罪で、何が罪ではないかを見分けるための判断基準としての聖書の御言葉を知らないからと言って、その人がしていることは罪ではないとは言えません。知らないうちに罪を犯しているということがありうるのです。しかしまた、その人々は、神のことも、神の御心のことも、全く知らないとも言えません。神の御心は、神御自身が創造されたこの世界のあらゆる現実の中ではっきり示されているからです。
しかし、人間はこの世界を破壊し、隣人を傷つけ、自分を傷つける罪を犯してしまいます。その罪に対して神は怒りを現され、裁きを行われます。「私は神など知らないし、信じていない」と言い張る人たちに対しても、神は裁きを行われます。この点においても、神は人を分け隔てなさらないのです。
しかしいま申し上げたことは、いわば神の側からの見方です。「神など知らないし、信じていない」と言い張る人たちにとっては関係ない話だと思われてしまうことでしょう。だからこそパウロは今日の個所に次のように書いています。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び(る)」(12節)。次のようにも書いています。「たとえ律法を持たない異邦人でも、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」(14節)。
これは何を意味するのでしょうか。ここでも「律法」は「聖書の御言葉」と読み替えることが可能です。すると、どうなるか。聖書を読んだことがない人にとっては、その人自身が、いわばその人の聖書になるということです。聖書を知らず、神の御心を知らない人にとっては、その人自身がその人の神になるということです。そのような人にとっては、頼るものは自分だけです。自分の信念とか、自分の理想とか、自分の哲学とか、そのようなものがまるで神であるかのようにみなし、そのようなものを頼りにして生きていくしかありません。
しかし、パウロの結論は、まさかそのようなことにあるわけではありません。パウロが書いている、律法を持たない異邦人が律法の命じるところを自然に行う可能性があるとしたら、その根拠はすべての人が生まれつき持っていると言われるいわゆる人間の良心が正常に機能する場合の可能性を指していることは明らかです。
パウロが書いている「自分自身が律法である」(14節)という場合の「律法」とは明らかに、人間の良心の中に映し出された神の御心を指しています。すべての人は神に造られた存在なのですから、すべての人の心の中に何らかの仕方で神の御心が映し出されているということは、わたしたちも語ってよいことですし、信じてよいことです。聖書を学んだことがない人たちでも悪いことをすれば良心に呵責が生じるのはそのためです。どんなに悪いことをしても何も感じないというのは「良心が壊れている」と言わざるをえないのですが、良心が全く無いし、生まれたときからその人に神が良心を与えておられないということはないのです。
しかし、わたしたち人間の良心だけを頼りにして生きていくことは、だれにとっても心もとない、不安な人生になることは避けられません。「自分自身が律法である」ということは「我こそが裁判官である」と言っているのと同じです。しかし、自分の善悪のすべてを自分で判断することはできません。そんなことができるなら、それこそ警察も裁判所も要りません。
あるいはまた、もし自分が間違っていることを自分で自覚したとき、その罪を誰が赦してくれるのでしょうか。具体的に傷つけた相手がいる場合は、その相手が赦してくれれば済むかもしれません。しかし、そうでない場合はどうするのでしょうか。自分で自分を赦すのでしょうか。それで済むのでしょうか。
パウロの結論は、聖書を読まなくても神の前に正しい生き方ができるということではありません。正反対です。聖書は読むべきです。聖書から神の御心を知るべきです。そして、その御心は人間を罪の中から救い出してくださることにあることを知るべきです。神に従い、より頼んで生きていくことこそが大切であるということを、すべての人が知るべきなのです。
聖書の教えと人間の良心の関係は何ですか。聖書の教えは明瞭であるが、人間の良心は不明瞭である。聖書の教えの背後には神の愛と赦しがあるが、人間の良心にはそれがない。自分で自分を愛し、自分で自分を赦すしかないのです。
今日は一年に一度のペンテコステの礼拝です。教会がこの地上に誕生したことをお祝いする日曜日です。教会はわたしたちにとってなぜ必要なのでしょうか。どんなに間違っても、わたしたちを傲慢にし、教会に通わない人たちを見くだすために、教会が存在するのではありえません。自分を頼りにする生き方の限界を知り、聖書を通して示されている神の御心はわたしたちに対する深い愛であるということを知り、自分の罪を悔い改めて世と人を愛して生きていくことが大切であることを生涯学び続けるために、教会があるのです。
(2013年5月19日、松戸小金原教会ペンテコステ礼拝)