2013年5月27日月曜日

進化論に対して教会はどのように答えるのか

Facebookでご質問をいただいたことに、コメント欄でお応えしました。せっかくですから、ブログに貼りつけておきます。

■ ご質問(要旨):

「『日本キリスト改革派教会では進化論に対してどのように答えるのか。先日、求道者が進化論を否定するキリスト教につまずいて教会に来なくなったので、改革派教会ではどう考えるか聞きたい』と問われたことにどう答えたらよいか。この分野で論じている資料でいいのはないか。こういう問題について説得を努力しても、それで信仰に入ると言うことはあまりないと思っている」

■ なんら権威のない関口康の応え:

ご質問ありがとうございます。実は私も最近、いろんな場所でその話題になり、そのたびに頭をひねっています。

私は、高校時代から理科系はからきしで、赤点常連者でした。しかし、神学の言うところの「弁証学」も、私は弱いですね。キリスト教の真理を固く護ろうとしても、たぶんすぐに言い負かされてしまいます。頼りない牧師です。

そんな感じですので、納得していただける答えのようなものは書けそうにないのですが(申し訳ありません)、創造論と進化論、というか、神学と物理学、というか、信仰と科学、というか、の関係については、ごくシンプルで大雑把な考えをもっています。

それは、ちょっとかっこよく哲学用語っぽくいえば、「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」の関係、だと考えています。

雑に訳せば「ア・プリオリ」は「前から」、「ア・ポステリオリ」は「あとから」。

進化論なり物理学なり科学なりの認識は、すでに存在する事物を「あとから」調査・観察・分析したデータに基づき、事物の発生起源や発展過程について「あとから前へとさかのぼって」推論することにおいて得られる認識、ですよね。

その意味で、進化論なり物理学なり科学なりの認識は「ア・ポステリオリ」だと、私は思います。

しかし、創造論なり神学なり信仰なりの認識は、そういうものとは違う。全く違うとも言い切れないのですが、順序が逆さまな感じです。

「ア・プリオリ」、つまり「前からあとへと」考えていく思考回路があると思います。信仰を前提にして世界を見る感じです。

この件に関する最近の本をご紹介したいところですが、申し訳ないことに、私は全くフォローできていません。ちょっと調べてみますね。

私が「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」という整理の仕方を学んだのは、記憶が間違いでなければ、T. F. トーランス『空間・時間・復活』(小坂宣雄訳、ヨルダン社、1985年)という本だったと思います。

この本の日本語版が出版された直後に、早稲田大学のキリスト者学生たちの自主ゼミ(指導教授 岩波哲男先生)に混ぜてもらって読みました。

トーランスはスコットランドのプロテスタント神学者で、カール・バルトの『教会教義学』を英訳したことで知られる人です。しかし、科学と神学の関係についてはバルトとは異なる考え方をもっていたと言われています。私はトーランスのことをそれほど詳しく知っているわけではありません。

おっしゃるとおり、この問題について説得を努力しても、それで信仰に入る、ということはあまりないことは確かだと私も思います。

ただ、私がこれまで出会ってきた方々とのやりとりの中から得たごく素朴な印象からいえば、

進化論なり物理学なり科学なりを専門的に研究してこられた方々の立場を、教会が創造論の立場から非難・攻撃・罵倒・中傷する、というようなことをすると、その方々が教会に来たくても来れなくなってしまう(居場所を奪ってしまう)ということがあるように思います。

もちろん逆のケースもありましたし、今もあります、よね。

ドーキンスさんとかのようにキリスト教はいかに間違っているかを「証明」するために科学なり物理学なり進化論を持ち出すというような仕方で、教会と教義を攻撃してくる人々もいます。そんなことをあからさまにしてくる人たちと教会はうまくやっていけるとは思いません。

妥協とか折衷とか中庸とか、そのようなことを私が考えているわけではないのですが、共存は可能であると思っています。一つの大学の中に神学部と理工学部や医学部が共存することは十分可能です。

ただし、「共存」の可能性を探る場合、理工学部や医学部のキリスト者学生たちは「キリスト教的物理学」や「キリスト教的医学」なるものを考えなくてはならないのかということは、おそらく必ず問題になると思います。

たとえば、キリスト教の洗礼を受けた人がおこなう計算や実験と、洗礼を受けていない人がおこなう計算や実験とが異なる解や結果を出すということがありうるのだろうか、というような問いの立て方がありうると思います。「異なる」と言い切る人もいますし、「同じじゃないか」と答える人もいます。

ところで、最初のご質問にお答えしていませんでした。「改革派教会ではどう考えるのか」ですよね。

どうでしょうか。私の印象では、20年くらい前(1980年代)までは「対立・対決」という姿勢がわりと鮮明にあったのではないでしょうか。その頃の私は日本キリスト改革派教会のメンバーではありませんでしたが。

しかし、1990年代以降あたりから「対立・対決」の姿勢は緩和・後退し、少なくとも共存模索の方向はあるのではないかと思います。

この問題については、聖書論を扱った「日本キリスト改革派教会 創立40周年宣言」(1986年)が教派全体に与えた影響は大きいと思います。いわゆるファンダメンタリズムからの脱却の方向が出たと思います。

しかし、私は1997年4月に改革派教会に加入させていただいたルーキーですので、「40周年宣言」のことなどは、伝聞以上のことは知りません。