2011年7月5日火曜日

『改革派教会信仰告白集』を購入することにしました

みんな気づいているのに言わずに我慢しているんだろうと思うので、口火を切ります。一麦出版社(北海道札幌市)が、同社の「創立20周年記念出版」として今年9月から刊行を始めようとしておられる『改革派教会信仰告白集』(全六巻・別巻一、大崎節郎編集、一麦出版社)を盛り立てる翻訳者陣の中に、日本キリスト改革派教会のメンバーが一人も選ばれていない。これはけっこう、いろんな意味で深刻なことであると自覚する必要がありそうです。

しかし、いま書いたことは『改革派教会信仰告白集』に対する批判ではありません。批判どころか、とても素晴らしい企画ですねと心から絶賛します。これは私の本心です。実際問題として、『改革派教会信仰告白集』の訳者の中に日本キリスト改革派教会のメンバーが一人も加わっていないことに、日本キリスト改革派教会のメンバーがふて腐れる必要も理由も全くないと思っています。

カタログの文章の中に「本信仰告白集の発刊によって偏狭な信条主義が刺激されることではなく」とか「狭義の改革派教会に止まらず」とか、まるで仮想敵(?)を強く意識したような言葉が目につくのは若干気にはなります。しかし、その感覚自体は完全に時代遅れのものですので、「はいはい分かりました」とでも言って受け流しておけば済むでしょう。

彼らが「偏狭な」とか「狭義の」という形容詞をもって、何を言おうとしているのかは何となく分かります。しかし、疑問に思うことは、そういうものを排したところに生まれる『改革派教会信仰告白集』とはどういう性格のものなのだろうかということです。

「偏狭な信条主義」に立つ「狭義の改革派教会」がその教派の《標準訳》のようなものを作ろうとする場合、一教派の大会の憲法委員会の発案であるとか、大会での議論といったような、しちめんどくさいけれども不可避的な手続きを踏んでいきます。しかし《個人訳》にはそのような手続きはありません。その意味で『改革派教会信仰告白集』は「気楽な個人訳」であるということです。ですから、仮想敵(?)に対するチクチク攻撃を前にしても「はいはい分かりました」で済みます。

その種の枝葉末節よりはるかに重要なことは、彼らの言うところの「偏狭な信条主義」に立っているらしい「狭義の改革派教会」のメンバーたちが「また信条の話ですか」とそろそろうんざりしてきているときに(実際そんなふうな顔をされるときがあります)、「派」のついた「改革派教会」を名乗らない人たちが、「派」のついた「改革派教会信仰告白」についての研究活動を、ようやく本腰をあげて始めてくださったということです。

これは諸手をあげて感謝すべきことです。翻訳のヴァージョンはいくらあっても構わないわけですし。そして、この世には絶対に壊れない「完璧な機械」などは存在しない。それと同じように、この世には「完璧な翻訳」も存在しない。いろいろ読み比べることができる、大規模な学習教材を提供していただけることがうれしいです。

ちなみに、昨日のことですが、松戸小金原教会の定期小会において、『改革派教会信仰告白集』全巻を予約購入することを全会一致で決議しました。

一麦出版社様、どうかよろしくお願いいたします。