2011年7月13日水曜日

1983年のアナーキスト(下)

文章のタイトルは、だいたいは、全体を書き終えてから付けるようにしています。「上」までのところを書き終えたとき、いかにも「にわか村上春樹読者」らしいタイトル​を思いつきました。

しかし、いくらなんでも、あの「上」で、話を終わらせるわけには行かない。ただちに「下」を続ける必要があります。

いちばん重要なことを、まだ書いていません。永倉牧師は「康(やすし)」という名前を、生まれたばかりの私のために考えてくださった名付け親なのです。

さんざん憎まれ口も叩いてきましたが、まだそう長くもない私の生涯の中で、あまりにも決定的すぎる意味をもつ、最も重要な人(の中の重要すぎる一人)であることは間違いありません。

そして、彼の言っていることは、なるほど何ひとつ嘘ではないのです。すべて事実でした。なるほど「日本最大の教会」だったのかもしれませんし、今でもそうなのかもしれません。

しかし、私は、それがたとえ事実であったとしても、このような尊大な言葉を、幼少の頃からお世話になった恩師の口からは聞きたくありませんでした。

「上」にいろいろ書き連ねた恩師の経歴や発言は、個人的に聞いたことを暴露しているわけではありません。すべては日曜日の礼拝の説教の中で語られた言葉です。200とも250とも言っていた大勢の出席者の前で。「公の」場で。

それに、半世紀以上も年齢差のある、まるで「雲の上」のような先生から、どうして「個人的に」話をお聞かせいただける機会があったでしょうか。

愕然とさせられた言葉を挙げていけば枚挙にいとまがありませんが、さすがにこれ以上はやめておきます。もう、とっくの昔に時効ですしね。

そして、私のほうも悪いことをしました。これはすでに、いろんなところに書いてきたことです。東京神学大学を受験するために所属教会の牧師の推薦書が必要だったため、牧師室を訪ね、「私は先生のようになりたいです」と、心にもないことを言いました。そのとき先生は喜んで推薦書を書いてくださいました。本当に申し訳ありませんでした。

しかし、そのとき言ったもう一つの言葉は偽りなき本心でした。「私は教会の便所掃除のような仕事がしたいです」と言いました。「それなら牧師になりたまえ」と、ちょっと笑いながら温かい目を向けてくださいました。

あれからもう、28年も経つのですね。また夏がめぐってきました。掃除のほうはあまり得意でない、とてもだらしない人間のままですが、おかげさまで、今でもなんとか牧師を続けています。

(とりあえず完)