確たることなどは知る由もありませんし、すでに一部では論じ尽くされた観方かもしれません。しかし、私にもちょっとだけ言わせてください。ここ数年のわが国における政治と市民との絶望的な乖離の原因について、私が現時点で考えていることは、それほど複雑な話ではありません。
旧来の概念としてのいわゆる「エリート」とそれ以外の人々との知性ないし知識の差が、実はもはやほとんど無くなってきている。そのため、早い話が、国民の中に「エリート」を畏怖する思いが薄らいできている、あるいはほとんど皆無である。しかし、そういう状態では、政治というものは成り立たない。なぜなら、政治とは「上に立つ人」(と称する人たち)が、それ以外の人たちを「支配する」ことであるゆえに。そのため、何とかして、無理やりにでも、その「差」を作り出そうと、旧来の政治体質を受け継ぐ官僚たちが躍起になってきたに違いないのです。
とくに利用されてきたのはテレビでしょう。象徴的なのは約10年前から始まった「平成教育委員会」(フジテレビ)。出演者についてやたら「あなたは何々大学卒業だから」、「あなたは優秀な経歴の人だから」といった口上を繰り返すことで、その大学の卒業生、その経歴の人は「スゴイ」という価値観を国民に植えつける。おそらくその何々大学からは相当な額の広告料がテレビ局側に支払われてきたに違いないわけですが、大学側もテレビの圧倒的な影響力を利用する。そして、それらの大学を卒業した政治家や官僚の「スゴサ」をアピールし、それ以外の人々との「大差」があるかのように演出する、といった次第です。
でも、出演者たちが答えてるのって、(すみません、「たかが」と言わせていただきますが)「クイズ」なんですけどね。クイズができる人がスゴイ人、なんですかね。私にはよく分かりません。
そして、そのようにして、実はあまりスゴクない人たちが「おれたちはスゴイんだ、スゴイんだ」を言いたいがために、「スゴイ学校」や「スゴイ経歴」を無理やり創出したうえで、そのルートを通り抜けてきた人たちを特別扱いし、政治空間をまるでその人たちの秘密クラブのようなものとする。そのようにして政治空間をできるだけブラックボックス化し、アンタッチャブルなものにし、あたかも恐怖の対象であるかのように演出する。
という既定路線にそったやり方を、これからも半永久的に続けて行けると思っていたら、今年3月11日が訪れた。
爾来、それまでの無理やりなブラックボックス化によって不可視化されていた政治空間が、外側からでも次第に見えるようになってきた。その可視化の流れをユーチューブやフェイスブックやツイッターやユーストリームなどが後押しした。彼らが「隠し通せる」と思い込んできたことが、もはや隠しきれなくなった。
「なんだよ、あの連中、ウソばっかりだし、恫喝しか能がない人たちの集まりだし、逃げ口上だけは人一倍上手だが、人の弱さや悲しみに対する深い配慮や想像力、あるいは普遍的な良心に裏打ちされているような真の知性や教養が無い」ということが、一部の有識者だけではなく、国民の多くの知りうるところとなってきた、というのが、2011年7月16日現在の日本国内の精神状況ではないでしょうか。