2011年7月19日火曜日

「今週の説教」の人気記事ランキング

このところ更新が滞っていて非常に心苦しく思っているのは、私設ブログ「今週の説教」のことです。原則として毎週日曜日の礼拝説教の生原稿を掲載していくことにしているのですが、ままなりません。「『明日しよう』と考えた瞬間にその仕事は永久にたなざらしになる」とビジネス指南書に書いてあることが見事に的中しているブザマさです。

誰から求められたわけでもなく自分の意思といささかのサービス精神とで始めたことですから、自分のペースでやっていけばよいことです。しかし、別の観方をすれば、自分に対して自分で立てたルールを自分で破っているようなものですから一種の自己矛盾の状態でもあるわけで、大変よろしくない状態であると自覚しています。でも、まあ、できないんだから仕方がない。いろいろ忙しくなってしまって、手が回らないです。

ところで、「今週の説教」も、この「関口 康日記」も、「A. A. ファン・ルーラー著作集」も、アットニフティ社の「ココログ」というサービスを利用させていただいているのですが、私にとってはとても有難いと感じる機能がついています。

それは「人気記事ランキング」という機能です。各ブログ上に公開してありますので、どなたでもご覧いただけます。

この機能についての詳しい説明は割愛しますが、要するに、ブログ上に自分で書いた記事についてのアクセスランキング表を自動的に生成してくれる機能です。

これがなぜ私にとって有難いのかといえば、この「人気記事ランキング」の中に、自分の説教を改善していくためのヒントがあふれていると思うからです。

ちなみに、「過去4か月」のアクセスランキングは、次のとおりです。

1位:「わたしはまことのぶどうの木」
2位:「らくだは針の穴を通れない~誰のための人生か~」
3位:「徴税人ザアカイ」
4位:「苦難の僕―受難週―」
5位:「狭き門より入れ」
6位:「善いサマリア人」
7位:「マルタとマリア」
8位:「わたしが命のパンである」
9位:「いつも喜んでいなさい」
10位:「主の祈り」

もちろん「人気記事ランキング」という表現そのものには軽薄な印象というものを払拭しきれないものがあります。そういうことはよく分かっているつもりです。しかし、このランキング表を見て私が思うことは、「ネット上の評価は、容赦なく客観的であるゆえに、信頼できる」ということです。

ともかくはっきり分かることは、これらの説教が選ばれた(というより「残された」)理由です。自画自賛をするつもりなどは毛頭ありませんが、このランキング表に「残った」説教は、私自身の記憶の中にも鮮明に残っているものばかりです(「今週の説教」に掲載している説教は、現在「301件」です)。

そのことが分かると次に何が分かるのかといえば、説教者である私が、今の時代の中で・21世紀の日本の中で・日本語で「聖書の言葉を解説する」とはどういうことを意味するのかが分かる。今の時代に生きている聴き手側の人たちが、聖書や教会、あるいは牧師と説教とに対して、どのようなことを求めているのかが分かります。

大衆迎合(ポピュリズム)のようなことをしてみせようという話ではありません。そもそも「説教」というものは、説教者だけで成り立つものではありえず、説教を聴いてくださる方々と共に作り上げていくものなのですから、聴き手側の評価や視点を客観的に表示するための何らかの方法が必要だったのです。しかし、そのための適切な方法が、インターネットが普及する以前には見当たりませんでした。

それで、いわば仕方なく、先輩牧師たちや神学校の説教学の教授だったような人たちが「あなたの説教は良い」だの「悪い」だのと講評するのを茶坊主たちがうんうん肯いて聴く勉強会のようなものが、ちょっとした流行を見せるようにもなりました。しかし、それってどれ程度まで客観性なるものが確保できているのでしょうか。「良い」だ「悪い」だ言う聴き手側の基準や根拠は何でしょうか。私にはよく分かりません。「前世紀的な」営みであるような気がします。

私のやり方が正しいかどうかは不明です。しかし、茶坊主にだけはなりたくなかったので、その種の勉強会には関わらないようにしてきました。しかし、上記のとおり、このところ身辺が多忙をきわめているため、ブログの更新すらままならなくなってきました。こういうときはむしろ、高名な先生のもとに通って指導を乞うほうが手っ取り早くてラクかもしれないなと考えなくもありません。「そろそろ白旗を上げようかな」と、すっかり弱気になっている今日この頃です。