何を隠そう、昨日の記事にご登場いただいた「教会批判者」のモデルは、私です。
時は西暦1983年(昭58)8月某日。Wikipediaによると、清原・桑田の一年生コンビの力でPL高校が甲子園で全国優勝(2度目)した夏。当時の私は高校3年生(17才)。その日は教会主催の高校生夏期修養会に出席していました。
その日そのときに私の胸に強く迫った「論理」の全行程こそが、昨日書いたことでした。翌1984年(昭59)4月には東京神学大学(東京都三鷹市)の学生寮での生活を開始することになります。
高3当時はレッド・ツェッペリン以上にS.ピストルズにハマっていたアナーキスト少年Sは、0才から18才まで通った教会の老牧師を「講壇から引きずりおろす」ために「自分が牧師にならねばならない」という妄想(ですね、これは)にとりつかれ、神学校の門を叩いたのでした。ここで言いたいことは「高校生の考えることなんて、その程度の浅はかなものだ」ということです。
あまりにも具体的な状況を詳述しすぎると、「出身教会を恨んでいるのかこの人は」というだけの話だと誤解されかねません。しかし別にそういうことではない(憎んでいるわけでも恨んでいるわけでもない)と思っている私としては、これ以上のことを書くことに、いささかの躊躇と迷いがあります。
でも、う~ん、そうですね、行きがかり上、私の出身教会に登場してもらわないかぎり、この先の話を続けることができそうもありません。それは、私の人生の最初の20年間を全く支配していたというほかに表現しようがない何ものかなのですから。ほんとうに私は恨んでなんかいませんので、この点はぜひご理解ください。
その教会の名前は「日本基督教団岡山聖心教会」といいます。
当時の牧師は永倉義雄氏(現在は故人)。その教会は現在、義雄氏の二男が主任牧師、義雄氏の孫が副牧師を務める、純粋な世襲教会になっています。私がいた頃の礼拝出席者は200とか250とか言っていました。所在は岡山市の中心地ですが、第二次大戦時の大空襲を免れて焼け残った江戸時代の武家屋敷の家屋を買い上げ、床の間つきの畳の部屋に座布団を敷きつめて正座して礼拝するという、いろんな意味で「痛い」教会でした。
「私の出身教会」と書かざるをえませんが、しかし、自分の手で門を叩いた記憶も事実もありません。教会員になったのが最も古いのは母で、母の実家から徒歩約五分のところに第二次大戦直後に開設された教会でした。父は群馬県前橋市の出身者ですが、岡山聖心教会に父は大学時代に洗礼を受けた教会からの紹介で通うようになりました。こういう事情ですので、岡山聖心教会は、私にとっては「不可避的な関係」ではありましたが、自分の明確な意思をもって通いはじめたものではありません。
日本基督教団の場合、必ず問われるのは「そこは教団の中の何派の教会なのですか」ということに決まっていますので、その件にも触れておきます。以下はすべて永倉牧師自身が語ったことです。
若い頃に受洗した教会は日本聖公会であったが、その後救世軍に移籍し、救世軍士官学校を卒業。救世軍の教会の牧師になるが、山室軍平氏と対立して救世軍を脱退。戦前の日本聖教会(ホーリネス系)に移るが、1941年(昭16)に日本基督教団に合流し、教団第九部に属する日本基督教団南京(ナンキン)教会の牧師になる。戦時中は「ホーリネス(教団六部・九部)弾圧」の対象となり、南京で逮捕・抑留。戦後は日本への引揚隊の隊長となり、帰国。そのときの帰国仲間を中核とする教会を立てようという機運が起こり、岡山聖心教会ができた。ところが、永倉牧師は戦後の日本基督教団の中で「ホーリネス系」の中にとどまることを不服として、ホーリネスの群れを脱退。その後は「無教派・無信条の教団主義」を自称するようになる。
そして私が生まれたのが1965年(昭40)。つまり戦後20年。岡山聖心教会の設立から数えても約20年。牧師は当時70台。教会附属の幼稚園を三つ(当時)持っていましたので、世間では大規模幼稚園の「理事長」として知られたからでもあるでしょう、私がいた頃には毎週日曜日に上記のとおり200とか250とかの人が(武家屋敷にね)集まる教会となり、教会の会計は「年間予算7千万」だと言っていました。たぶん今もそんな感じのままだと思います。教団年鑑には書いてあるはずです。
そのような中、永倉牧師がしょっちゅう用いていたレトリックを、その三段論法を、いまだに忘れることができません。彼は繰り返しこう言いました。
「岡山聖心教会は日本基督教団における最大の教会である。そして日本基督教団は日本最大のキリスト教団である。それゆえ岡山聖心教会は『日本最大の教会』である」。
私のキャパシティ(別名「堪忍袋」)を超えはじめたのは、この三段論法を彼が繰り返すようになった頃からです。1983年のアナーキストはNo future for you !と『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』の歌詞を大声で叫びながら、倒さなければならない相手は教会の「外」ではなく「内」にこそいる、と確信していたものでした。若かったですね。
(「1983年のアナーキスト(下)」に続く)