2011年7月31日日曜日

もしパウロの時代にブログがあったら(2)

大好評(?)にお応えして、調子に乗って第二弾、行きます。

昨日の「超訳」の際に心がけたのは「ブログ風テイスト」でしたが、今日はそれに加えて「トークライブ風テイスト」を混ぜてみました。

「トークライブ風テイスト」の意味は、目の前にいろんな人がいる状況を想定しているということで、つまり、「字には書けても口には出しにくい言葉をぼやかす」という意味です。

今日ご紹介する個所には、二千年の時空を超えて今の我々の胸にグサリと突き刺さる内容があると感じていただけるかもしれません。いま私が何を言っているのかは、ご一読くだされば、お分かりいただけるでしょう。

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コリントの信徒への手紙一7・1~7

使徒パウロ著/関口 康「超訳」


皆さんからいただいたお便りの中に書いてあったご質問に今お答えしますとね、もうね、「男の人は女の人に触るのもダメ」ってくらいの線を、私は言いたいですね。

でも、あんまりそういう話にしてしまってね、皆さんの中に反動みたいなことが起こって、なんだかだんだんアヤシゲな世界に興味を持ちはじめてしまうようになるくらいならね、そちらの方面にはどうかあんまり足を踏み入れないでいただいて、というか、そちら方面に行かないように自分を抑える必要もあるのですからね、そういう意味ではやっぱり、男の人はお嫁さんを探すとか、女の人はだんなさんを探すとかのほうが、いいんじゃないですかね。私はそういうふうに考える人間です。

その代わり、と言うことでもありませんけどね、まあ、だんなさんがおくさんにすべきことと、おくさんがだんなさんにすべきことは、ちゃんとやりましょうよ。

えっとね(なんで私、こんな話してんでしょうね)、おくさんのほうは自分で自分の体をどうにかする、という話じゃなくてね、だんなさんがおくさんに、ちゃんとするんですよ(あーこのへん書きにくいなあ)。逆もそうでね、だんなさんのほうも自分で自分の体をほにゃららする、という話じゃなくてね、おくさんがだんなさんを、ほにゃららするんですよ(ね?)。その場に及んで、「やっぱりやめた」とか「もういやだー」とか言わないでくださいね。

でもですね、う~ん、まあ、長い人生ですからね。いくら好き同士で結婚した二人でも「さすがに今はちょっと無理」という時期もありますよね。仕事がメッチャクチャ忙しいとかね、子育てもありますしね。世間が嫌なことだらけなので、今は雑念を捨てて神さまのことだけを考えたいと思うようなときもありますよね。そういうときにはね、お互いによく話し合って、それなりに納得もしたうえで、しばらくお休みにする、というのは、ありかもしれませんね。

でも、はっきり言っておきますが、そんなことを二人が別れる理由なんかにしてはいけませんよ。「それでも一緒に生きていく」という大前提を確認したうえでの、あくまでも一時的なお休みでなくっちゃマズいです。そんなことを理由にして別れちゃいますとね、人間弱いですからね、たちまちその筋の人たちがニヤニヤしながら近づいて来て、「おいで、おいで」と手招きしてきますんでね、するするっと、そういう人たちのいるところに入って行っちゃうことになる。あとは、もうね、身ぐるみ剥がれてポイですよ。

ですからね、「しばらくお休みするというのも、ありかもしれませんね」と上に書いたことの意図は、「そういう可能性がないとは言い切れませんね」というくらいの微妙なニュアンスなのでしてね、「しばらくお休みにしなさい」とか「しろ」とか命令してるわけじゃあないんです、断じてね。

もちろん、私の個人的な立場を言わせてもらえばね、それはもう、私自身はいまは一人で生きてますからね。皆さんにもぜひ、一人で生きられるすべを身につけてほしいんですよ、本音を言えばね。でも、そこから先のことは言えないことでありましてね。人生それぞれですよ。神さまが我々に与えてくださったものは、人によって違うんですからね。

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【超訳者コメント】

強くお断りしておきますが、昨日からの「超訳」は、ふざけているとか、聖書の言葉を玩んでいるとか、受け狙いとか、ポピュリズム(?)とか、決してそういう気持ちではありません。

また、たしかに「超訳」ではありますが、「意訳=デタラメ」と見られることは、やや心外です。

神学者ファン・ルーラーのオランダ語テキストとの取っ組み合いを、13年ほど続けてきました。その苦しい日々の中で絶えず問われてきたことは、「翻訳とは何なのか」という根本的な問いでした。我々に問われていることは、「翻訳論」そのものです。

このたびの聖書の「超訳」が、私の長年の問いの答えになるかどうかは分かりません。でも、取り組み甲斐がある仕事かもしれないな、という手応えはありますね。